本能寺の変シリーズ
▶︎本能寺の変には黒幕がいた?信長の野望編▶︎本能寺の変には黒幕がいた?秀吉の欲望編
▶︎本能寺の変には黒幕がいた?家康の失望編
▶︎本能寺の変には黒幕がいた?天皇家の野望編
▶︎本能寺の変には黒幕がいた?足利義昭の野望編
日本史上最大の虐殺者
とかくキャラが際立った人には、その好き嫌いが分かれやすいものです。日本史上で強烈な個性を放った織田信長もその例にもれることなく、彼を英雄とみる人もいれば、徹底的に嫌う人もいます。では、なぜ信長は嫌われるのか。ヒトラーも真っ青な独裁者っぷりに加えて、彼の残忍性を忌み嫌う人が多いようです。その最たる悪行の1つとして挙げられるのが比叡山延暦寺焼き討ち事件です。
「1571(元亀2)年、織田信長は対立していた延暦寺を取りかこみ、一斉放火の暴挙に出る。建物という建物を焼きつくし、無抵抗の僧侶をはじめ女性や子どもまで数千人を撫で斬りにした事件。己の野望のために聖地・延暦寺を焼き討ちにしたことで、信長は仏敵と見なされるようになった」
これが事件の一般的なイメージでしょう。僧侶、つまりお坊さんは仏さまに仕えるありがたくも偉いお方。善良なる市民代表のような存在です。そんなお坊さんとかよわき女性、さらに年端もいかぬ子どもたちまでを皆殺しにしてしまうのです。ゆえにこの事件は日本史上でも有数の虐殺事件とされ、信長は極悪人のレッテルを貼られることになります。戦国期に日本にやってきた宣教師 ルイス・フロイスは「諸宗の敵なる悪魔の王信長」と書き留めました。でもそれはこの事件、そして織田信長という人間のほんの一面を映しだしたものに過ぎません。
そもそも「なぜ信長は焼き討ちという暴挙に出たのか?」「なぜ信長と延暦寺は敵対したのか?」をご存じない方も多いことでしょう。そこで、この事件の全体像を私なりにわかりやすく、ひも解いてしてみることにしました。果たして信長は本当に残忍な独裁者だったのでしょうか。また、宗教を破壊した弾圧者だったのでしょうか。
延暦寺はこんなお寺
比叡山延暦寺は、天台宗の総本山として京都と滋賀の境に鎮座し、山全体がお寺とされています。1994年にはユネスコの世界遺産に登録されました。この地に建てられた理由は、平安京から見て比叡山が北東に位置していたからです。陰陽道では「北東」の方角は、鬼が出入りする「鬼門」と呼ばれており、平安京にとっての鬼門に延暦寺を建てることで魔を封じようとしました。
788(延暦7)年に伝教大師こと最澄が一乗止観院(現在の根本中堂)を建立したことが延暦寺の始まりといわれています。最澄は平安時代の僧侶で、37歳のときに空海(弘法大師)とともに遣唐使として中国にわたり、仏教をはじめ様ざまな学問を学びました。延暦寺は後の世に法然や親鸞をはじめ、多くの名僧を輩出したことから「日本仏教の母山」とも呼ばれています。ちなみに、信長の虐殺事件といえば3万人の命を奪ったといわれる長島一向一揆をあげる方も多いですが、私は聖域とされる延暦寺を襲撃したこの事件のほうにインパクトを感じています。さて、そんな延暦寺がなにゆえ信長と敵対するようになったのか。それを語るには、当時のお寺の実態を説明しなければなりません。
日本にも宗教戦争があった!
僧兵。読んで字のごとく「僧の兵」つまりお坊さんの兵士です。現代の感覚では「戦い」という言葉から最も縁遠い存在の僧ですが、それは江戸時代以降の話です。戦国時代まではお坊さんも兵士として戦っていたのです。牛若丸と五条大橋で戦った武蔵坊弁慶の風貌はまさしく「兵士」ですよね。彼はれっきとした延暦寺の僧でした。と、こう書けば僧兵をリアルにイメージされたのではないでしょうか。
僧兵にもいろいろなパターンがありました。「もともと僧だった者が兵士となる」「信徒が武装した」「寺に雇われた兵士」などに分かれます。では本題に戻ります。なぜ、お寺に兵がいたのか?なぜ、お寺に兵が必要だったのか?そこには2つの理由がありました。
ひとつは宗教戦争です。日本は諸外国とは異なり、キリスト教やイスラム教のような宗教戦争がなかったかのように思われていますが、実は日本でも戦国時代までは宗教同士が、教義をめぐって戦っていました。1536(天文5)年に起きた「天文法華の乱」では、延暦寺と法華宗(日蓮宗)が争い、敗れた法華宗側では21の寺が炎上し、少なくとも3,000人以上が殺害されました。この乱による京都の焼失面積は応仁の乱以上だったといわれています。その法華宗も本願寺との戦いでは勝利し、元々は山科にあった本願寺を大坂石山に追い払っています。このように、この時代は世界の例にもれることなく、日本でも宗教同士が戦っていました。となると当然、兵士が必要となりますよね。それが僧兵でした。
昔のお寺は「政治経済軍事センター」?
もうひとつ、当時のお寺は経済や産業の面でも重要な拠点であったことが理由に挙げられます。古来より日本の産業は中国から伝来したものが多く、その技術や知識を日本に持ち帰ったのが、遣唐使に代表される海を渡った僧侶だったのです。そのため油や紙をはじめ様々な商品を作る技術は寺社に集中していました。はじめは世の中に新しい商品を広める役割を果たしていたのですが、いつしか金儲けそのものが目的となってしまいました。となると知識も技術も「権利」となり、価格は作り手・売り手の思いのまま。今でいう独占状態で、庶民は高い物価に悩まされることになります。この独占による物価高を解消すべく発布された法律が、信長による「楽市楽座」です。独占禁止法、すなわち規制緩和だったわけです。
こうしてお金がどんどん寺社に集まるようになります。するとどうなるか。そのお金を狙って悪者たちが寺を襲うようになります。戦国乱世では警察がいない状態だったので、自衛の手段としてお寺も武装するようになります。これが僧兵の始まりです(諸説あり)。こうして延暦寺が経済力を持つほどに兵力も増大し、いつしか一大勢力となっていたのです。それは並みの戦国大名では太刀打ちできないほどの軍事力でした。お金と武力を備えた寺社勢力は、必然的に政治的な力も有するようになります。つまり、この時代のお寺は「政治経済軍事センター」といえる巨大な組織だったわけです。ところで、先ほど楽市楽座を規制緩和と申しました。現代でもそうですが、規制緩和に際しては既得権益を持った人々が猛烈に反対します。この時代の既得権益者のひとつが延暦寺などの寺社であり、彼らは死にもの狂いで抵抗しました。ここに「信長vs延暦寺」の構図ができたわけです。
意外に手続きを踏んでいた信長
これでようやく「なんで信長は延暦寺を焼き討ちにしたのか」の話ができるようになりました。以下、順を追って説明します。1568(永禄11)年、念願の上洛を果たした信長は、将軍足利義昭の名のもと、越前の大名・朝倉義景に降伏を迫ります。しかし、朝倉氏は「田舎もんの信長ごときが何言うとんねん!」と断固拒絶。激怒した信長は、ただちに軍を率いて朝倉氏の本拠・越前にむけて出陣します。このとき、信長にとって信じられないことが起こりました。同盟国であり義弟でもある浅井長政が信長を裏切り、背後から襲いかかってきたのです。
長政は信長の妹「お市の方」と夫婦になるなど、信長の右腕ともいえる存在。浅井に対しては無防備な状態だったため、信長は朝倉と浅井の挟み撃ちにあい絶体絶命のピンチに陥ります。信長はなんとか命からがら逃げおおすことができましたが、当然信長は超絶激怒。態勢を立てなおし徳川の援軍とともに、朝倉浅井連合軍との決戦に挑み勝利します(姉川の戦い)。敗れた朝倉浅井軍は延暦寺に逃げこみました。
で、信長はどうしたか。「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」精神からすると、この時いきなり焼き討ちに出たと思われがちですが、意外にも正攻法で交渉に臨みます。延暦寺に対し「織田軍に味方すれば、前に取りあげた領地を返してあげますよ。それがダメならせめて朝倉浅井を寺から追い出してくださいよ。え?それもダメ?う~ん、困りましたね…それなら仕方ないです。お寺を燃やしちゃいますよ、殺っちゃいますよ。それでもいーですか?」と警告します。
しかし、延暦寺からの応答はなし。「いくら信長でも、恐れ多くも仏に仕える我々を攻めてはくるまい」とタカをくくっていたのでしょう。業を煮やした信長は再度警告、「いや、マジ本気だから。もうどうなっても知らないよ」「はい、最後のチャンスね。今から10数えるまでに白旗をあげれば許してあげますよ。覚悟はいいですね?では、いーち、にぃーい、さーん…」とあくまで懐柔のスタンスをとる信長。合理主義者の彼は延暦寺との正面衝突は犠牲が大きいとみたのでしょう。しかし、延暦寺側は沈黙を貫きます。延暦寺のガン無視状態が解かれることはなく、とうとう10まで数えてしまいタイムアウト。こうなったときの信長はもはや誰にも手がつけられません。火を噴くがごとく怒り狂い「皆殺しだーーー!!!」となったわけです
ここまでを整理してみます。朝倉浅井勢によって、信長は命を落とす寸前まで追い詰められました。信長でなくても相手を許すわけにはいかないでしょう。その憎き朝倉浅井をかくまったのが、信長の政策に抵抗し民を苦しめている延暦寺。信長にとっては、延暦寺を攻撃するのにためらう理由などなかったでしょう。
信長にとっての正義
織田軍の攻撃は苛烈を極め、燃えさかる比叡山の様子が洛中からもうかがえたそうです。ついに延暦寺は焼け落ち、朝倉浅井軍は敗走。しかし、今度という今度は信長に徹底的に攻めこまれ、両家ともに滅亡の憂き目にあいます。このとき、浅井長政の妻 お市の方と3人の娘は救助されます。その三姉妹の長女が「茶々」であり、後の豊臣秀頼の母「淀の方」なのでありました。
さて、延暦寺はどうなったか。「軍事拠点」としての延暦寺は滅亡しました。しかし「宗教」としての延暦寺、つまり天台宗は残ります。信長は天台宗という宗教そのものの存続は認めたわけです。信長が破壊したもの、それは宗教という名の軍事勢力であったことがわかります。これは後の本願寺との戦後処理にもいえることです。
当時、宗教が勢力となることで宗教そのものが堕落していました。たとえば延暦寺は金融業も営んでいました。もともとは貧しい人々を救済するために始めたのですが、いつしか暴利をむさぼる悪徳ローン会社になり、返済不能とみるやミナミの帝王もビックリの人身売買までやっちゃってます。これは延暦寺に限らず、当時の有力な寺社はほとんどがそんな状態で、市民を苦しめていたのです。
【関連記事】戦国時代の京都は、住みたくない街No.1?そんな宗教勢力に対して、「そんなんアカンやろ!ちゃんとしよ!」と叫んだのが織田信長だったわけです。信長にとってはそれこそが正義だったのです。正義の前には焼き討ちも止むなしというのが、信長の大義名分といえます。江戸時代の有名な学者であり政治家でもある新井白石は、その著書『読史余論』の中で、この事件を「その事は残忍なりといえども、永く叡僧(比叡山の僧)の兇悪を除けり、是亦天下に功有事の一つ成べし」と肯定的に記しています。
アナタならどう評価しますか?
さて、ここまでお読みになっていかがでしょうか。信長はたしかに万単位の人命を奪いました。おそらく日本史上最大の虐殺者でしょう。しかし、ここまで述べてきたとおり、当時の有力寺社はたいてい大兵力を有する勢力であり、市民に圧力をかける存在でした。その象徴ともいえる延暦寺を誅したことで、宗教をまっとうな姿に戻すきっかけとなりました。つまり、信長の延暦寺焼き討ちは「功罪ともにアリ」の両面を持ちあわせているといえます。では、功と罪どちらを評価するのか。
紀元前中国の思想家・韓非子は『重い刑を与えるのは罪を犯した本人を罰するためではない。罪を犯そうと思う者をなくすためだ』と宣いました。つまり抑止力の重要性を説いたのです。したがって延暦寺焼き討ち事件ををどう評価するかは「何を正義に、何を大切に考えるのか」といった、その人の価値観をも表わすことになると私は考えます。いずれにしても織田信長という男は、単なる英雄、あるいは虐殺者という一面だけでは語れない人物であったことは間違いのないところだと思います。
人間には様ざまな側面があり、ある一面だけを見ただけでは、真の姿は見えないものです。そんな複雑怪奇な人間の行動の積み重ねが歴史となります。だから歴史は面白い。その歴史の宝庫である京都もまた然りです。
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京都府ホームページ>世界遺産延暦寺