日本史上最大の虐殺者

とかくキャラが際立った人には、その好き嫌いが分かれやすいものです。日本史上で強烈な個性を放った織田信長もその例にもれることなく、彼を英雄とみる人もいれば、徹底的に嫌う人もいます。では、なぜ信長は嫌われるのか。ヒトラーも真っ青な独裁者っぷりに加えて、彼の残忍性を忌み嫌う人が多いようです。その最たる悪行の1つとして挙げられるのが比叡山延暦寺焼き討ち事件です。

「1571(元亀2)年、織田信長は対立していた延暦寺を取りかこみ、一斉放火の暴挙に出る。建物という建物を焼きつくし、無抵抗の僧侶をはじめ女性や子どもまで数千人を撫で斬りにした事件。己の野望のために聖地・延暦寺を焼き討ちにしたことで、信長は仏敵と見なされるようになった」

これが事件の一般的なイメージでしょう。僧侶、つまりお坊さんは仏さまに仕えるありがたくも偉いお方。善良なる市民代表のような存在です。そんなお坊さんとかよわき女性、さらに年端もいかぬ子どもたちまでを皆殺しにしてしまうのです。ゆえにこの事件は日本史上でも有数の虐殺事件とされ、信長は極悪人のレッテルを貼られることになります。戦国期に日本にやってきた宣教師 ルイス・フロイスは「諸宗の敵なる悪魔の王信長」と書き留めました。でもそれはこの事件、そして織田信長という人間のほんの一面を映しだしたものに過ぎません。

そもそも「なぜ信長は焼き討ちという暴挙に出たのか?」「なぜ信長と延暦寺は敵対したのか?」をご存じない方も多いことでしょう。そこで、この事件の全体像を私なりにわかりやすく、ひも解いてしてみることにしました。果たして信長は本当に残忍な独裁者だったのでしょうか。また、宗教を破壊した弾圧者だったのでしょうか。

比叡山

比叡山

延暦寺はこんなお寺

比叡山延暦寺は、天台宗の総本山として京都と滋賀の境に鎮座し、山全体がお寺とされています。1994年にはユネスコの世界遺産に登録されました。この地に建てられた理由は、平安京から見て比叡山が北東に位置していたからです。陰陽道では「北東」の方角は、鬼が出入りする「鬼門」と呼ばれており、平安京にとっての鬼門に延暦寺を建てることで魔を封じようとしました。

788(延暦7)年に伝教大師こと最澄が一乗止観院(現在の根本中堂)を建立したことが延暦寺の始まりといわれています。最澄は平安時代の僧侶で、37歳のときに空海(弘法大師)とともに遣唐使として中国にわたり、仏教をはじめ様ざまな学問を学びました。延暦寺は後の世に法然や親鸞をはじめ、多くの名僧を輩出したことから「日本仏教の母山」とも呼ばれています。ちなみに、信長の虐殺事件といえば3万人の命を奪ったといわれる長島一向一揆をあげる方も多いですが、私は聖域とされる延暦寺を襲撃したこの事件のほうにインパクトを感じています。さて、そんな延暦寺がなにゆえ信長と敵対するようになったのか。それを語るには、当時のお寺の実態を説明しなければなりません。

延暦寺大講堂

延暦寺大講堂

日本にも宗教戦争があった!

僧兵。読んで字のごとく「僧の兵」つまりお坊さんの兵士です。現代の感覚では「戦い」という言葉から最も縁遠い存在の僧ですが、それは江戸時代以降の話です。戦国時代まではお坊さんも兵士として戦っていたのです。牛若丸と五条大橋で戦った武蔵坊弁慶の風貌はまさしく「兵士」ですよね。彼はれっきとした延暦寺の僧でした。と、こう書けば僧兵をリアルにイメージされたのではないでしょうか。

僧兵にもいろいろなパターンがありました。「もともと僧だった者が兵士となる」「信徒が武装した」「寺に雇われた兵士」などに分かれます。では本題に戻ります。なぜ、お寺に兵がいたのか?なぜ、お寺に兵が必要だったのか?そこには2つの理由がありました。

ひとつは宗教戦争です。日本は諸外国とは異なり、キリスト教やイスラム教のような宗教戦争がなかったかのように思われていますが、実は日本でも戦国時代までは宗教同士が、教義をめぐって戦っていました。1536(天文5)年に起きた「天文法華の乱」では、延暦寺と法華宗(日蓮宗)が争い、敗れた法華宗側では21の寺が炎上し、少なくとも3,000人以上が殺害されました。この乱による京都の焼失面積は応仁の乱以上だったといわれています。その法華宗も本願寺との戦いでは勝利し、元々は山科にあった本願寺を大坂石山に追い払っています。このように、この時代は世界の例にもれることなく、日本でも宗教同士が戦っていました。となると当然、兵士が必要となりますよね。それが僧兵でした。 

昔のお寺は「政治経済軍事センター」?

もうひとつ、当時のお寺は経済や産業の面でも重要な拠点であったことが理由に挙げられます。古来より日本の産業は中国から伝来したものが多く、その技術や知識を日本に持ち帰ったのが、遣唐使に代表される海を渡った僧侶だったのです。そのため油や紙をはじめ様々な商品を作る技術は寺社に集中していました。はじめは世の中に新しい商品を広める役割を果たしていたのですが、いつしか金儲けそのものが目的となってしまいました。となると知識も技術も「権利」となり、価格は作り手・売り手の思いのまま。今でいう独占状態で、庶民は高い物価に悩まされることになります。この独占による物価高を解消すべく発布された法律が、信長による「楽市楽座」です。独占禁止法、すなわち規制緩和だったわけです。

こうしてお金がどんどん寺社に集まるようになります。するとどうなるか。そのお金を狙って悪者たちが寺を襲うようになります。戦国乱世では警察がいない状態だったので、自衛の手段としてお寺も武装するようになります。これが僧兵の始まりです(諸説あり)。こうして延暦寺が経済力を持つほどに兵力も増大し、いつしか一大勢力となっていたのです。それは並みの戦国大名では太刀打ちできないほどの軍事力でした。お金と武力を備えた寺社勢力は、必然的に政治的な力も有するようになります。つまり、この時代のお寺は「政治経済軍事センター」といえる巨大な組織だったわけです。ところで、先ほど楽市楽座を規制緩和と申しました。現代でもそうですが、規制緩和に際しては既得権益を持った人々が猛烈に反対します。この時代の既得権益者のひとつが延暦寺などの寺社であり、彼らは死にもの狂いで抵抗しました。ここに「信長vs延暦寺」の構図ができたわけです。

意外に手続きを踏んでいた信長

これでようやく「なんで信長は延暦寺を焼き討ちにしたのか」の話ができるようになりました。以下、順を追って説明します。1568(永禄11)年、念願の上洛を果たした信長は、将軍足利義昭の名のもと、越前の大名・朝倉義景に降伏を迫ります。しかし、朝倉氏は「田舎もんの信長ごときが何言うとんねん!」と断固拒絶。激怒した信長は、ただちに軍を率いて朝倉氏の本拠・越前にむけて出陣します。このとき、信長にとって信じられないことが起こりました。同盟国であり義弟でもある浅井長政が信長を裏切り、背後から襲いかかってきたのです。

長政は信長の妹「お市の方」と夫婦になるなど、信長の右腕ともいえる存在。浅井に対しては無防備な状態だったため、信長は朝倉と浅井の挟み撃ちにあい絶体絶命のピンチに陥ります。信長はなんとか命からがら逃げおおすことができましたが、当然信長は超絶激怒。態勢を立てなおし徳川の援軍とともに、朝倉浅井連合軍との決戦に挑み勝利します(姉川の戦い)。敗れた朝倉浅井軍は延暦寺に逃げこみました。

で、信長はどうしたか。「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」精神からすると、この時いきなり焼き討ちに出たと思われがちですが、意外にも正攻法で交渉に臨みます。延暦寺に対し「織田軍に味方すれば、前に取りあげた領地を返してあげますよ。それがダメならせめて朝倉浅井を寺から追い出してくださいよ。え?それもダメ?う~ん、困りましたね…それなら仕方ないです。お寺を燃やしちゃいますよ、殺っちゃいますよ。それでもいーですか?」と警告します。

しかし、延暦寺からの応答はなし。「いくら信長でも、恐れ多くも仏に仕える我々を攻めてはくるまい」とタカをくくっていたのでしょう。業を煮やした信長は再度警告、「いや、マジ本気だから。もうどうなっても知らないよ」「はい、最後のチャンスね。今から10数えるまでに白旗をあげれば許してあげますよ。覚悟はいいですね?では、いーち、にぃーい、さーん…」とあくまで懐柔のスタンスをとる信長。合理主義者の彼は延暦寺との正面衝突は犠牲が大きいとみたのでしょう。しかし、延暦寺側は沈黙を貫きます。延暦寺のガン無視状態が解かれることはなく、とうとう10まで数えてしまいタイムアウト。こうなったときの信長はもはや誰にも手がつけられません。火を噴くがごとく怒り狂い「皆殺しだーーー!!!」となったわけです

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この記事を書いたKLKライター

八坂神社中御座 三若神輿会 幹事 / (一社)日本ペンクラブ会員
吉川 哲史

祇園祭と西陣の街をこよなく愛する生粋の京都人。

日本語検定一級、漢検(日本漢字能力検定)準一級を
取得した目的は、難解な都市・京都を
わかりやすく伝えるためだとか。

地元広告代理店での勤務経験を活かし、
JR東海ツアーの観光ガイドや同志社大学イベント講座、
企業向けの広告講座や「ひみつの京都案内」
などのゲスト講師に招かれることも。

得意ジャンルは歴史(特に戦国時代)と西陣エリア。
自称・元敏腕宅配ドライバーとして、
上京区の大路小路を知り尽くす。
夏になると祇園祭に想いを馳せるとともに、
祭の深奥さに迷宮をさまようのが恒例。

著書
「西陣がわかれば日本がわかる」
「戦国時代がわかれば京都がわかる」

サンケイデザイン㈱専務取締役

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