日本史上で最大のクーデーターといえば、多くの方の頭に浮かびあがるのが本能寺の変。信長の野望が紅蓮の炎とともに潰えるこの一大事件でアレコレと語られるのが、光秀が謀反に至った理由です。怨恨説、野望説をはじめ様々な論が唱えられています。とりわけ興味をそそられるのが「黒幕がいた!?説」です。そこで、この黒幕説の中でも京都とゆかりの深い説にスポットをあて、シリーズで本能寺の変に迫ってみたいと思います。

第1回は、室町幕府最後の将軍である「足利義昭 黒幕説」をご紹介します。足利義昭の一般的イメージといえば「プライドが高いだけで、世の中が見えていなかった無能な将軍」といったところでしょうか。作家・司馬遼太郎も「策士策に溺れる典型の貴族趣味の暗君」と記しています。ちなみに、ネットで一般人の義昭評価を検索すると「信長を敵に回して勝てるわけないだろ、バ~カ!」などとボロカスチョン状態です。でも、本当に気位が高いだけのバ~カな将軍だったのでしょうか?そんなおバカ将軍が天下を揺るがした大事件の黒幕だったなんて説を唱える人がいるでしょうか?本稿を通じて足利義昭の実像に迫ってまいります。

なお、タイトルの「京都のラストエンペラー」とは、義昭が室町幕府最後の将軍であり、同時に京都に居を構えた最後の将軍でもあることを指しています。将軍を英訳すると「general=ジェネラル」であり、エンペラーは皇帝、日本でいうところの天皇にあたります。でも「ラストエンペラー」の方がカッコイイので、あえてエンペラーと称しました。悪しからずご了承ください。

足利義昭、流浪の生涯

足利義昭は天文6(1537)年に室町幕府第12代将軍・足利義晴の次男として生まれました。織田信長が1534年生まれですから3歳年下ということになります。足利宗家では家督相続者以外の男子は出家する慣例があり、奈良の興福寺に入れられ「覚慶」と名のる僧侶になりました。しばらくは平穏に過ごしていた覚慶ですが、永禄8(1565)年に将軍である兄・義輝が暗殺されると、一転して命を狙われる立場となり僧籍をはなれ奈良を脱出しました。その後、越前の大名・朝倉義景を頼り将軍の座を目指すようになります。しかし、なかなか京都に入ろうとしない義景にシビレを切らした義昭は、このころ急速に頭角を現し始めた織田信長に注目します。当時、越前で朝倉義景に仕えていた明智光秀が仲介の労をとり、義昭に信長を紹介します。こうして晴れて足利義昭は信長とともに上洛を果たし、第15代将軍に就任します。

念願の将軍の座に就いた義昭は信長を忠義の臣として遇し、わずか3才年上の信長を「御父」と呼ぶなど信頼していました。信長もその期待に応え、義昭が三好三人衆に襲われた際は、岐阜から雪道を駆け抜け救出に向かったそうです。

そんな蜜月の関係にあった2人ですが、やがて自分が傀儡(操り人形)であることを悟った義昭は信長と対立するようになります。武田信玄をはじめ大物大名に手紙を書きまくり信長包囲網を形成、信長をあと一歩というところまで追いつめました。しかし、信玄の死去とともに包囲網が崩壊し、信長に敗れて京都を追われ、中国の雄・毛利氏を頼り備後国に身を寄せました。その後も反信長同盟を呼びかけるなど将軍家再興を期しますが、本能寺の変を経て豊臣秀吉の時代になると、秀吉から山城国槇島(現在の宇治市)に領地をあてがわれ、前将軍の貴人として遇される余生を送りました。

旧二条城跡 (京都市上京区烏丸通下立売西入)

旧二条城跡 (京都市上京区烏丸通下立売西入)

義昭の居城として信長が建てた城。現在は平安女学院として多くの学生が集う。

本能寺の変「足利義昭黒幕説」とは

義昭は僧侶として育ったため、いわゆる戦上手ではありませんが、なかなかの謀略家でした。将軍としての権威を利用し、得意の手紙攻勢で各地の大名と気脈を通じ、前述のとおり信長を追いつめました。この経験をいかし「本能寺の変を陰で演出した黒幕は義昭ではないのか?」つまり光秀に信長襲撃の指示をしたのか、あるいは何らかの形で光秀の謀反を支援したのではないかという説が語られています。

動機はもちろん将軍たる自分をないがしろにし、京都を追われた怨み。そして信長を討つことで再び将軍として京都に上るためでしょう(※)。「実行犯である光秀とは古くからの付きあいがあり、また光秀も将軍の権威を尊重する気質であったため、義昭の呼びかけに呼応した。また、そのタイミングが光秀の信長に対する不信や不安が募っていた時期と重なったのも幸運した」というストーリーには説得力があります。

いっぽうで義昭黒幕説を否定する立場からはこんな声があります。義昭が本当に黒幕ならば、当時彼を庇護していた毛利氏と共同戦線を張るはず。毛利が義昭・光秀と呼応していたならば、毛利と対峙していた羽柴(豊臣)秀吉が伝説の「中国の大返し」を敢行し光秀を討つことはできなかったはずだと。そう言われれば、たしかにそうですよね。義昭と毛利の間で何らかの連絡ミスがあったのかもしれませんし、毛利氏が「やっぱし強大な織田軍と敵対するのはヤバい」と考え義昭の野望をスルーしたのかもしれません。そんなこんなではありますが、今でも義昭黒幕説は生きているようです。

※足利義昭は京都を追われた後も、備後国の鞆の浦で将軍としての権力を行使していたという記録もあます。

本能寺跡 (京都市中京区蛸薬師通小川通西南角)

本能寺跡 (京都市中京区蛸薬師通小川通西南角)

信長の野望が紅蓮の炎ととも露と消え落ちた舞台である。現在の本能寺は寺町御池下ルにある。

義昭の虚像と実像

100年続いた戦国乱世の時代は、義昭と信長の上洛によって一気に終結に向かいました。つまり義昭は戦国時代の大きなターニングポイントを作った1人といえます。ではありますが、冒頭で述べたとおり一般的な足利義昭のイメージといえば、「プライドが高いだけの無能な将軍」といったところでしょう。信長の軍事力のおかげで将軍になり、信長のバックアップがなければ将軍の座を維持できなかったのが現実でした。であれば、たとえ信長の操り人形であっても甘んじて受け入れていれば、身を滅ぼすこともなかったであろう、というわけです。たしかにその通りでしょう。手のひらサイズの小さな幸せで満足できる私なら間違いなくそうしたと思います。

でも、それでは足利将軍家の棟梁たる義昭の心は満たされなかったのです。将軍、すなわち武士の世界におけるトップは足利でなければならないと頑なにこだわり続けました。その想い=執念が信長をあと一歩というところまで追いつめられたわけです。実際、信長がもっとも恐れた男・武田信玄の予想外の死去がなければ、信長包囲網はその目的を果たし、信長を葬り去った可能性はあったと思います。

ここでよく考えてみてください。強大な軍事力を有した織田家を、あそこまで追い詰めた者が義昭の他に誰がいたというのでしょうか。本能寺の変は信長の一瞬の隙をついた、いわば暗殺のようなもので、長期にわたって信長と渡りあったのは義昭だけだといえます。

また「プライドが高いだけのウンヌンカンヌン…」と言われる義昭像についてひと言。たしかにプライドという言葉からは、鼻もちならないゴーマン感が漂いますが、「誇り」「矜持」という言葉に置きかえると、また別のイメージが浮かびあがってきます。「己の誇りのために、安住の生活を捨て信長に立ち向かった男」という見方もできると思います。しかし、その代償はあまりに大きいものでした。

光秀を主人公とした大河ドラマ「麒麟が来る」で義昭役を演じた滝藤賢一さんは「義昭は非常にかわいそうな人物です。一生懸命になればなるほど、精神的バランスが崩れていってしまうんです」と。つまり義昭自身、信長と立ち向かうことのリスクと、足利家の誇りとの板挟みになっていったのでしょう。

足利家の家紋

足利家の家紋

義昭の拠りどころともいえる足利一族の血脈を象徴する。

プライド、誇りに殉じた男

第三者的視点から見ると足利義昭の生涯とは、波乱に満ちたもので決して幸福とはいえないかもしれません。しかし、彼は何よりも足利将軍家としての誇りを大切にした人生を歩みました。それが義昭の価値観だったのでしょう。そして「無謀だ」「悪あがきだ」といわれようが、信長に精いっぱいの抵抗をしたことで結果的に歴史に大きな存在感を示すことができたわけです。そう考えると自分の価値観に合った人生を送れた義昭は幸福であったといえます。

信長横死後の義昭は達観したのか、再び出家し慶長2(1597)年に静かに息を引きとります。享年61。プライドによって滅び、誇りによって名を残した男の生き様でした。

参考文献

明智光秀10の謎/本郷和人 細川珠生
明智光秀の生涯/外川淳
戦国大名失敗の研究/瀧澤中
歴史の使い方/堺屋太一
本能寺の変は変だ!/明智憲三郎
戦国武将の履歴書/小和田和男
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この記事を書いたKLKライター

八坂神社中御座 三若神輿会 幹事 / (一社)日本ペンクラブ会員
吉川 哲史

祇園祭と西陣の街をこよなく愛する生粋の京都人。

日本語検定一級、漢検(日本漢字能力検定)準一級を
取得した目的は、難解な都市・京都を
わかりやすく伝えるためだとか。

地元広告代理店での勤務経験を活かし、
JR東海ツアーの観光ガイドや同志社大学イベント講座、
企業向けの広告講座や「ひみつの京都案内」
などのゲスト講師に招かれることも。

得意ジャンルは歴史(特に戦国時代)と西陣エリア。
自称・元敏腕宅配ドライバーとして、
上京区の大路小路を知り尽くす。
夏になると祇園祭に想いを馳せるとともに、
祭の深奥さに迷宮をさまようのが恒例。

著書
「西陣がわかれば日本がわかる」
「戦国時代がわかれば京都がわかる」

サンケイデザイン㈱専務取締役

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