文化都市施設 : 『鳥羽水環境保全センター』と鳥羽作道周辺

今回は“鳥羽の藤“で有名な鳥羽水環境保全センターをご案内します。水環境保全センターと聞いてもピンとこないかもしれませんが、下水処理場のことです。藤の花咲く4月下旬に一般公開し、紫や白の花々が咲きそろう藤棚を通り抜けることができます。あわせて施設見学もできイベントも行われます。
 今ではトイレといえば水洗が当たり前ですが、それが可能になるのは下水処理施設ができる昭和になってからのことで、1930(昭和5)年に工事が始まり今年で90年が過ぎました。市内には下水道管に設置されるマンホールが約16万個もあり、現在の蓋のデザインは「御所車」をモチーフにしているようです。
 鳥羽つながりで、藤棚を楽しんだ後、鳥羽作道や鳥羽離宮跡にも寄りましたので、あわせてご案内します。

ご案内

市内で下水道に流す水洗便所が設置可能になるのは1934(昭和9)年のことである。1912(明治45)年に蹴上浄水場の給水を開始した上水道に比べ、下水道は22年遅れて吉祥院で初めて下水処理ができるようになったわけだ。
市の下水道事業は1930(昭和5)年から始まった。それまでは、河原町通などの道路拡幅に伴って下水道が徐々に整備されていたが、当時、昭和恐慌の失業者対策として大規模な公共投資が求められていたことから、京都市では1930年度から5年間にわたる下水道敷設事業が大型公共土木事業として進められた。その結果、1934年に吉祥院処理場が完成し、千本三条から七条にいたる一帯の住民5万人が使えるようになった。しかし、水洗便所の設置は料亭や会社、銀行など一部にとどまり、大多数の住民は汲み取り式便所のままだったという。

プラント

本格的な下水道整備事業は、1935年度から始まる10か年計画の実施によるもので、1939(昭和14)年に鳥羽処理場の運転が開始された。現在の鳥羽水環境保全センターでは、毎日991,000立方メートル(うち吉祥院支所34,000立方メートル)の処理が可能であり、東京ドーム(124万立方メートル)で換算すると、東京ドームの約8割を占める下水を1日で処理できることになる。その規模は西日本最大で、全国でも森ケ崎水再生センター(東京都)に次いで2番目の大きさを誇り、京都市全体の処理能力の3/4を有しているという。また、敷地面積は約46ヘクタールあり、京都御苑のおよそ半分の広さに相当するものだ。

鳥羽処理場

鳥羽水環境保全センターには、市内最大規模の処理施設が設けられているだけではない。場内の一角には延長120メートルの“藤棚の回廊”が設けられ、藤の花咲く4月下旬には一般公開される。公開エリア975平方メートルには、ヤマフジ(シロカピタン)・ノダフジ(ナガフジ)・ノダフジ(シロバナフジ)の3品種37本の藤が植えられ、見事な藤の回廊となっている。一般公開の時は京都駅八条口と竹田駅から毎日直通バスを繰り出し、大勢の市民が紫や白のフジを楽しむ。それだけではない。場内には、流動床式焼却炉や卵型消化タンクなど様々なプラント施設があり、また建物は、明治・大正期の威厳あるデザインとは異なり、現代的なデザインが採用されていて、それらと花々との対比も面白い。

藤棚の回廊

思えば、蹴上浄水場で浄化され、各家庭や工場・事業所に配水された琵琶湖の水が、道路などの地下に張り巡らされた下水道管を通って鳥羽水環境保全センターに集められ、沈殿・分解・濃縮・消化・脱水・焼却を経て、水を浄化し、汚泥を処理し、一部は再利用される。ここに咲くフジたちも、このように浄化された水で色鮮やかに咲いているのであろう。

処理施設の建物

鳥羽水環境保全センターのある鳥羽の一帯は、鴨川と桂川の合流点付近に位置している。かつて鴨川は、竹田の東側を流れ下鳥羽の南で桂川と合流しており、この辺りと平安京とは、朱雀大路の延長といわれる「鳥羽作道」で繋がれ、淀川を上って鳥羽の港で陸揚げされた物資がここを通って都に運ばれた。京と鳥羽は約3キロ離れていて、鳥羽作道は平安京羅城門から鳥羽に至る幹線道路であったわけだ。
また、鳥羽は水郷が広がる風光明媚な場所で、狩猟や遊興の地としても知られていた。譲位後の白河上皇が、後院としてここで営んだのが鳥羽離宮『鳥羽殿』であった。院政期の鳥羽は政治・経済・宗教・文化の中心地だったが、南北朝の内乱期に戦火で多くの殿舎が焼失し、その後急速に荒廃していった。また、鴨川、桂川の河道が大きく変化し、鳥羽作道は次第に蛇行して鳥羽街道になったようである。

鳥羽離宮跡配置図

鳥羽離宮は、この道の東で名神高速道路の南の辺りにあった。離宮は残らないが、1960(昭和35)年の名神京都南インター建設に伴う発掘調査以降150回を超える調査が行われ、次第に全貌が明らかになってきた。その様子を示す遺構として、城南宮や安楽寿院、白河・鳥羽・近衞の各天皇陵が現存している。また鳥羽離宮跡の下層には、弥生時代から古墳時代を中心にした『鳥羽遺跡』と呼ばれる遺跡が発掘されている。

城南宮
天皇陵
▶︎天皇陵・皇后陵・親王陵 -北区周辺を訪れる-

明治の幕開けとなった鳥羽・伏見の戦(1868年)はこの辺りで始まり、勝利した薩摩藩は御礼参りに城南宮を訪れたという。兵士たちは鳥羽街道から小枝橋を渡って城南宮道を進んだのであろう。

よかったらシェアしてね!

この記事を書いたライター

公益財団法人 京都市文化観光資源保護財団 アドバイザー 
京都大学工学部建築学科卒、同大学院修了
一級建築士

1957年生まれ
1982年4月から京都市勤務
2018年3月に京都市都市計画局建築技術・景観担当局長で退職
2018年4月から2023年3月まで京都市文化財保存活用・施設整備アドバイザー
2023年7月から現職

著書:「花街から史跡まで 散歩でハマる! 大人の京都探訪」(リーフ・パブリケーション)
   「いろいろ巡ろ! 京都の文化都市施設」(KLK新書)
共著:「京都から考える都市文化政策とまちづくり」(ミネルヴァ書房)
   「『京都の文化的景観』調査報告書」(京都市)

|京都市文化財保存活用・施設整備アドバイザー|西京極/文化都市施設/運動公園