七条京阪、五条京阪、四条京阪そして三条京阪。京阪電車がそれぞれ東西の大きな通りと交差するところの地名ですが、これだけ整然と並ぶのは他所にはないのではないでしょうか。もっとも昭和62(1987)年に京阪が地下化され、川端通が整備されると七条川端、五条川端、四条川端というのが見た目の地名なのでしょうね。
その中で三条京阪だけは別格のような気がします。 京津線も地下鉄東西線と姿を変えて地下化され、地上から電車の姿が見えなくなっても三条大橋の東側は駅を含めて周辺一帯が三条京阪なのです。そこで今回は三条京阪に関してつれづれなるままに書いてみました。


1 京阪電車と三条駅

三条大橋の東一帯を三条京阪と呼ぶのは文字通り京阪電車がやってきたからですが、京阪本線が三条までやってきたのは大正4年(1915)年10月です。それよりも大津に向かう京津電車が大正元年8月に三条大橋東詰めから発着をするようになる方が早いのです。もっとも開業時は京津電気軌道で、これが京阪に合併されて京阪京津線となるのは大正14(1925)年2月です。したがって三条京阪と言う呼び方は昭和初期に定着したのでしょうね。
京阪本線は明治43(1910)年に大阪の天満橋~五条がまず開業し、その後三条まで延長されました。この区間は鴨川と疏水に挟まれたいわば土手の上を走っていたのですが、本来、ここには市電を走らせる計画があったなど紆余曲折の末、京阪が五条から延長させる形で三条まで伸びました。京阪電車は、今は7~8両編成ですが、開業時は1両編成、その後2~3両と長くなっていきます。これは三条駅の構内の拡張とも大きな関係があります。

そこでそのことをふまえて三条駅の変遷を簡単にお話します。当時の京阪は、大阪方の天満橋もそうですが、終点の駅では一番奥の降車ホームで乗客を降ろし、電車はその手前にある乗車ホームに戻ってきて乗客を乗せて出発するという形でした。したがってその時の駅の出入口は降車ホームと乗車ホームの間におかれ、大和大路通(縄手通)から出入りする配置でした。それが編成が長くなると降車ホームと乗車ホームを分けることができず、1本の長いホームで乗降させるようになります。
また昭和9年から60形「びわこ号」という電車によって京阪本線と京津線が直通運転されるようになります。この電車についてはいつかまたお話したいと思います。その直通運転ために両線の線路をつないだという説明がなされることが多いのですが、これは明らかに間違いです。実は大正12(1923)年には両線の線路はつながっていました。というのは当時の郊外電車は貨物輸送をやっており、京津の貨物電車が七条の南側、塩小路貨物駅まで連絡輸送をしていて、そのための三条駅の連絡線を後にびわこ号が通って行ったというのが正解です。
ところで駅の東側あたりでは、かつては大和大路通はもう少し東寄りを通っていて、その西側は京阪の駅との間に人家がありました。しかし戦争中の防火施策の一環で立ち退きになり、その土地に後に同通りが西に寄せられ、その後北向きのバス停も整備されました。

昭和31年の三条京阪駅舎

昭和31年の三条京阪駅舎

高山彦九郎像はまだなく石碑だけがあったようだ。(撮影 大西 卓氏)

さらに昭24(1949)年12月、京都の人にはなじみがあった三条通に向かって大きな駅舎が登場します。戦後も次第に落ち着く中での立派なターミナル駅の姿でした。この駅舎には毎年秋になると「ひらかた大菊人形」の看板が掲げられ、いかにも京阪の駅舎という感じでした。
ところでこの三条駅ですが、西から鴨川、本線の線路とホーム、疏水、駅構内、そして大和大路通という並びで極めて限られたスペースの中におさめられていました。言い換えれば疏水の上にあった駅でした。駅のまん中を疏水が流れていたのです。1番線は疏水に斜めにかかる鉄橋上にあり、ホームの隙間からゴーゴーと流れる疏水が見えて、子ども心にこわいなと思ったこともありました。

1番線から発車した宇治行き普通電車。旧型車がよく使われていた。

1番線から発車した宇治行き普通電車。旧型車がよく使われていた。

(昭和48年)

地下化になる前の地上時代の駅構内を案内しましょう。先の大きな駅舎の改札口を通ると左右に売店やレストランがありました。今でいう「駅ナカ」ですね。正面に主に宇治行き普通の短い4両編成の電車が発着していた1番線が斜めにありました。通路の途中を右(西)に曲がると特急が発着した2番線でした。その西側には急行が発着した3番線がありましたがここが面白く、特急が停車中は電車の左右の扉を開けて車内を通って2番線と3番線の間を行き来できました。やはり子どもの頃、ここを通りぬける間にドアが閉まったらどうしようと思ったこともありました。そして特急電車が停車していないときは、プラットホームの途中に2番線と3番線を結ぶ踏切があり、そこを乗客は行き来するという珍しい光景の駅でした。特急が進入してくるときはその踏切に横から柵が出てきて遮断したと記憶しています。

三条駅の構内

三条駅の構内

乗車案内が各ホームの行先や種別を伝えていた。(撮影 福田静二氏)

3番線へは特急の車内を通り抜けられた。右はホーム間の踏切

3番線へは特急の車内を通り抜けられた。右はホーム間の踏切

(昭和62年 撮影 高橋 修氏)

2番線と3番線の間の踏切。屋根まで付いていた。

2番線と3番線の間の踏切。屋根まで付いていた。

(昭和62年 撮影 高橋 修氏)

ところで踏切の部分は当然プラットホームが途切れますね。特急の扉の位置がそこにきたら乗客は落ちてしまいますから、そこには扉がこないように停止位置も考えるなど絶妙な工夫がされていました。さらに西には本線の普通が発着していた4番線がありました。このホームは明らかに鴨川の堤防上にあり、かつて鴨川の濁流で土手がえぐられ、プラットホームが崩壊したこともありました。このプラットホームの四条寄りに降りるとぐるっと回って相当歩かなければ出口にたどり着きませんでした。そこで慣れた乗客は1つ手前の四条で後続の特急に乗りかえると出口に近い2番線に降りることができるという「裏ワザ」を知っていました。

鴨川に張り出していた4番線のプラットホーム

鴨川に張り出していた4番線のプラットホーム

(昭和56年)

先の1番線の延長線上にあったのが5番線(主として京津線・石山寺行きの急行・準急)、かつてそのレールがつながっていたので「びわこ号」が本線から京津線に入っていけたのです。その横に6番線(主として京津線・普通)がありました。その終点側に三条駅の南口があり、出たところにバス乗り場が並んでいました。

このように電車の両側の扉を開けてのホーム間の行き来や南口を出てすぐにバスに乗れたなどバリアフリーとまではいえないまでも便利な駅だったともいえるでしょう。また構内で食事ができ、おやつやお土産が買えるワクワク空間でもありました。
なお1番線は京阪本線の地下化工事のために昭和56年9月に一足先に使用停止となります。先述のように疏水を跨ぐようにあったので、ここに電車が出入りすると疏水の移設や地下線の建設工事が出来なかったのです。


地下化工事で新たに建てられた仮駅舎

地下化工事で新たに建てられた仮駅舎

(昭和56年)

大きな北側の駅舎も工事の進展に伴い解体され、やはり大きな仮設の駅舎も作られましたが、地下化とそれに続く川端通の整備、そして京津線の廃止で地上には電車の見えない、出入口があるだけの三条京阪駅になってしまいました。

2 駅周辺に目を転じて

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この記事を書いたKLKライター

鉄道友の会京都支部副支部長・事務局長
島本 由紀

 
昭和30年京都市生まれ
京都市教育委員会学校指導課参与
鉄道友の会京都支部副支部長・事務局長

子どもの頃から鉄道が大好き。
もともと中学校社会科教員ということもあり鉄道を切り口にした地域史や鉄道文化を広めたいと思い、市民向けの講演などにも取り組んでいる。
 

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