祇園祭は氏子だけのお祭?
「ソォ~レ!コンコンチキチン、コンチキチン~♪」
7月は祇園祭の季節。お囃子もあちこちから聞こえ、すでに神事は7月1日から始まっています。今年も巡行はあらへんけど、お祭自体は動いてるのがわかりますね。毎年このお祭を動かすのには、いろんな方の関わりが必要ですが、まず一番にあげられるのは氏子の人たちです。
以前私が書かせてもろた「氏子制度~試される京都人の意地~」では、京都市内にたくさんの氏神さんがいやはって、その土地土地が各氏神さんが守る氏子区域で区切られているとご説明しました。祇園さん(八坂神社)も、中京区下京区の現在の京都では繁華街やと言われているところが氏子区域となっています。そして、その区域に住んでいる人たちが「祇園さんの氏子」ということになります。
それをふまえて、祇園祭の意味を考えると、祇園祭は八坂神社の氏子さんが神社さんとともに行い支えるお祭、その氏子区域を神様がお渡りになる祭礼であるということになります。すると例えば自分が祇園祭とどんな関わり方をしているか知りたかったら、まずは「自分がどこの氏子であるか」ということが分かってないとあきませんね。
ということで、まずはここでキホン中の「キ」であるこのチェックをやってみましょう。これは「氏子制度~」のところでも出しましたよ~ 京都人としてもわかってないと困るはず!
京都人度チェック① 氏神さん
①あなたの氏神さんはどこですか?
まず自分がどこの氏神さんの区域に住んでるのか確認してみましょう。ここで祇園さんの氏子なのかもチェックできます。京都以外の方は祇園さんの氏子であることはないにしても、この際、いつも守ってくれたはる氏神さんを調べてみてもいいですね。
京都市内の氏子区域は、住んでいる場所で大体の見当がつきます。実際は時代で変わったり、境界線が複雑やったりするのですが、おおよその目安を書いたものを出しておきますね。(注1)
地図でおおよその区分はわかるのですが、実は自分の住んでいる所の氏神さんはどなたか、ということを手っ取り早く知るには町内の方に聞くのが一番なんです。ご年配の方に聞くとさらに良し。また、協力金を町内単位で出している所が多いので、もしある神社へ町内で出してたらまず氏子やと思いますし、少なくともお祭には参加していることになりますね。
京都人度チェック② 祇園祭とのかかわり方
先ほど、祇園祭とは「祇園さんの氏子が行い支えるお祭」と言いましたが、氏子さんの中には「清々講社」という氏子組織に入っている方がいて、精神的、そして経済的な面でも縁の下の力持ち的にお祭を支える大事な役目を果たしたはります。もちろんおみこっさん(御神輿)は各神輿会の方が、そして山鉾に関しては「鉾町」と呼ばれる町が主となって運営をされていることは間違いありません。そやけど、重さのかかり方がいろいろあっても、お祭は氏子全体で行うもの、というのはどこの神社でも同じです。そこは氏子にとっては大変大事なポイントなんですよ。
そやけどね、一方では、祇園祭には氏子以外の人もたくさん関わっていることも事実ですね。すると自然に湧いてくる疑問があります。その人たちはどうやって、そしてなんでお祭に参加したはるのでしょうか?
ではここで、2つ目の京都人度チェックでお聞きしましょう。
②八坂神社の氏子さん以外の京都人は、祇園祭とどんな関わり方をしていますか?
今まで説明してきたように「氏子さん以外の京都人」とは「祇園(八坂神社)さんの氏子でない人=他の神社の氏子」です。つまりその人たちは、よその氏神さんのお祭に参加してるというわけですね。
それでは、祇園さんの氏子でない家は祇園祭をどんなふうなお祭やと思ってきたのでしょうか。一例として、氏神さんが今宮さんの私の実家のお話をしてみましょう。あの、先に言うときますと、かなり極端な例です。例を挙げといて言うのもなんですが、参考になるかどうかは「?」です。でも書かずにはいられん母の氏神愛。それが私を度々困らせていました。
京都に住んでるのに祇園祭に行って怒られる話
もう数十年も前、私が20代の頃の話です。私も「夏は祇園祭の季節や」というのが自分の中の常識でした。7月になると四条通に行かんでも、テレビからお囃子が流れてくる。スーパーに行ってもBGMがコンチキチン。もうこれは行かなあきません。山鉾の上でのお囃子は曳き初めから演奏が始まります。それでいつも、ちょっとまだ人の多くない14日くらいに行こうと思って準備したもんです。そしたら後ろから母のあの声が…
「ちょっとあんた、どこ行くのんえ?」
しぶしぶ、「宵々山」て答えたら、こんなこと言われました。
「あんたなぁ、どこの氏子や?うちの氏神さんは今宮さんなん。祇園祭てどこのお祭か知ってるやろ?あんた、今宮祭行ったか?お詣りしてきたか?なんで自分の氏神さんのお祭行かんとよそのお祭いくのん!なにが嬉しいのん!」
しぶしぶ返事してるのに、私が嬉しいの、ようわかりましたね。それはええとして、母が最後に言うたのは結局これ。
「祇園祭なんか行かんでよろし!」
「『なんか』てなぁ、祇園祭に失礼やんか!」とか言いたいけど怖いし言えません。しゃあないし、一応ちゃんと「は~い」て返事しときました。母が用事してる間にこっそり出かけましたけどね!
いやしかし、母みたいにここまでピシッと線引いてしもてる京都人もあんまりいやへんのとちゃうか(いやはったらごめんなさい)とは思ってます。粽買うてきても「飾ったらあかん!」て言うんですよ!氏神さんのとちゃうし、て言うてね。父も母ほどではないですが、やっぱり祇園祭にはそれほど興味がなかったです。父の実家も上京区で、氏神さんは上京の一番東の御霊(神社)さんでした。私が「祇園祭行こかな。」とか言うと
「なんでこの暑いのにわざわざ見に行くのや。人があんないっぱいいるとこ行かんでもええのに。テレビで見ときいな。」
と言われるのが常でした。両親にとっては「祇園祭に行く」という関わり方でさえ必要ないと思ってたんですね。両親は2人とも大正生まれやったので、今生きてたら100才超えてます。両親が親から受け継いだ氏神さんへの思いは、戦前の古い常識やったかもしれませんが、それだけ氏神さんが近い存在やったということは、そばにいてとてもよくわかりました。
あ、今は上京区内でも祇園祭に行く人は普通にいますし、粽を吊るしてあるところもいっぱいありますよ。氏子でない人も祇園祭へ行くのです。これを読んだはる方はほとんどがおそらく一度でも行かはったことがある方と思いますが、さて、みなさんは何しに祇園祭へ行きますか?もちろん縁日もあるし、美味しいもん食べたりみんなと楽しく騒いだり、それもお祭の関わり方です。そこに加えて、なんと言うても祇園祭は疫病退散のお祭なので、祈願が一番。みんなで無事を祈り、疫病が収まることを願う、それが祇園祭の本義です。17日に街中に神様がおいでになって、24日に神社に帰らはるので、神様宿泊中の御旅所にもお詣りしときましょね。
しかし祇園祭にはお詣りや遊び以外に、氏子区域以外でもお祭運営として関わっている方はたくさんおられます。久世駒形稚児のように昔からの習わしで、南区の綾國中神社の氏子さんから選ばれるような歴史的なつながりのところもありますし、ちまきや鉾建てに必要な縄を作ったはるところ、鉾建てをする作事三方(注3)の人たちもおられます。また、各山鉾の巡行や運営を支える後援会の方、懸装品の修理を受け持つ伝統工芸の職人さん、山鉾の曳き手のボランティアさん・アルバイトさん、新しいところでは祇園祭の間ゴミを無くす活動に参加している方など、数え出したらきりがないほどの人が関わっています。
京都のお祭でこれほど関わる人が多いのは祇園祭が一番やと思います。氏子やなくてもお祭にちょっとでも関わってみるというのは、信仰の意味はもちろんみんなの力で大きなものを作りあげる達成感を味わえますし、それは今も昔も変わらん感覚やなかったかなと思えるのです。
室町時代の鉾にビックリ!
いま、「今も昔も」と書きましたが、実は「昔」の祇園祭を調べてたら、今の祇園さんの氏子区域から大きく外れたところの集団が関わっているのを見つけました。ときは室町時代後期、応仁の乱の前のことです。そのころあった鉾の名前が出てくる資料(注4)が今も残ってて、その中でビックリしたのがこれ。
「鵲(かささぎ)鉾」
これ、どこが出したと思います?それは「大舎人座(おおとねりざ)」と「北畠の人」たち(注5)。こう書いてもまだわからへんと思いますが、「大舎人座」は皆さんようご存じの集団ですよ。この大舎人座というのは平安時代から朝廷の命で綾織などを作ってきた織物職人グループで、応仁の乱後、西陣織を作った人たちなんです。西陣織は京都を代表とする伝統工芸ですよね。そして西陣は私の実家もある区域!私の両親も機を織っていたので、西陣織が関係してくるとなると思わず身を乗り出してしまいました。もう片方の北畠の人たちも、相国寺あたりに住んでいたのでどちらも上京の人々やったわけです。
今、大舎人座の末裔ともいえる西陣織の業者さんは今宮(神社)さんの氏子区域に住んだはって、氏子さんの中心になって今宮祭の鉾を出したはります。その同業の先達にあたる人達が、550年以上前には祇園祭に鉾出したはったとは、もう驚くしかありませんでした。
ただこれはよく見てみると、上京の人がこぞって祇園さんに鉾を出してたという話ではありません。応仁の乱以前は、「座」と呼ばれる職業集団が祇園さんのお手伝いをする「神人(じにん)」となり鉾を出すことがあったようですが、なかには祇園さんの神領以外に住む集団もあったということです。「特権を得られるので参加する」とか、時の権力者の意向で動いたりとかで、鉾を出す基準が「氏子であるかないか」ではない時代、ということやったわけですね。年中行事でも、過去の時代での常識が今の常識とは全く違うということを、身近な例で実感することになりました。
鵲(かささぎ)鉾ってどんな鉾?
西陣が関係すると知ってこの鵲鉾に興味が湧いてしもたので、もうちょっと調べてみることにしました。1つ疑問が浮かんだのです。大舎人座の人たちの出した鉾がなんで「鵲」鉾やったのかと。鵲というと、このまえ七夕の記事に書いたアレですよね。広げた羽で橋を作って、織姫と彦星を渡したという鳥!あぁこれは七夕に関係する鉾なんやなぁと思いました。
そしてもう一つ、この鉾を出した集団の1つ、大舎人座は織物業集団です。織物で七夕と言うたら、織姫!おぉ、織姫社の神様が機織りを教えた織姫です!ひょっとしてそれで鵲にしたん?えらいひねってますがな!今でこそすぐに出て来ない鳥の名前ですが、昔は七夕と言えば百人一首にも入った和歌にも詠まれた(注6)有名な鳥でした。昔の人やったら「鵲」の名を聞いたらすぐに機織りのイメージが浮かんだのかもしれませんね。
鵲、どんな鳥か知ったはりますか?黒い鳥なんですよ。
しかしこの時代、鵲は本州には住んでおらず、ほんまの姿を知る人はいなかったのです。
そしたら、昔の人はどんなふうにして鵲鉾を作らはったんでしょうか?どんな鉾か見てみたいですよね。江戸時代の「年中行事大成(注7)」には、昔あった鉾として鵲鉾の絵が描かれています。想像だけやなくて室町時代の絵(注8)をもとにしているので、まぁ信じてもええかなという図ですね。
唐傘の上には橋が架かっています。鵲が作った橋をイメージしてるみたいですね。そこには鳥がとまっていて、鳥の上には笠がついています。そしてその横には鳥のコスチュームを着けた人が2人、踊ってますね。あら、その鳥の頭にも笠があります。なんで?
まずこの鳥ですが、どう見ても鵲ではありません。白いですし、どうやら「かささぎ」やなくて「さぎ」のようです。さぁこのあたりでわかった方おられますか?
「さぎ」のような鳥の上に「笠」がついてます。はい、上から読んだら変身しますよ…
「かさ…さぎ……かささぎ!」
なんと、ダジャレ?!昔の人もシャレが好きやったんですかねぇ。「鵲鉾」は文献には「笠鷺鉾」と書かれていることもあるので、まさに文字通りの姿です。唐傘の上にも「笠」のついた「かささぎ」がいるので、この唐傘の鳥も「かささぎ」。また、この唐傘は当時の山鉾リストには「かさほこ」と書かれていました。つまりこの唐傘と鷺舞を並べても、「傘(かさ)鉾」+「鷺(さぎ)舞」で「かささぎ」になりますね。(注9)なんとようできてること!昔の人たちの洒落心に脱帽です。
今に残る鵲鉾の名残
応仁の乱のために寺社や多くの住居が焼かれて、それまでの社会秩序や制度までもが壊され、新しくリセットされたことが多かったんでしょうか、応仁の乱以降、鵲鉾も姿を消したということです。鵲鉾を構成してた傘鉾と鷺舞のうち、傘鉾の方は消えてしまいましたが、鷺舞はごく最近子どもの鷺踊りとして復活しました。
鷺踊りの子ども達、とっても可愛らしいですね。しかし実は、この写真はものすご大事なことを教えてくれてるのですよ。鷺の頭の上を見てください。笠が付いてますね!これがあの応仁の乱で消えた「笠鷺鉾」の片割れやったという証拠です。こんなところにも室町時代の痕跡が残っている祇園祭。ホンマに歴史の深さに圧倒されるばかりです。
さて、この鷺踊りの復活に苦労しやはったところは、数百年も途絶えていたお囃子などをどう再現するかということでした。そこでどうしたのかというと、室町時代の京都から伝わった島根県津和野町の鷺舞をお手本にしたのやそうです。(注10)その鷺舞は2019年に、祇園祭1150年の記念として八坂神社で里帰り奉納をされました。津和野に400年伝えられてきた鷺舞は昔の風流が大変趣深いものやったので、数百年前の祇園祭が再現されて神さまも喜ばはったと思います。
ただ、津和野の鷺舞の鷺の頭を見てみると「笠」が付いてませんね。これは完全に「鷺」舞(注11)です。いっぽう、祇園祭の鷺踊りは「鷺」といいながら笠付きの「かささぎ」踊り。鷺舞から何百年も伝えられてきた歌を受け継ぎながらも、祇園祭ではこの「かささぎ」の風流を後世に伝えて行くことになるのでしょう。
「祭縁」で支えられる祇園祭
山鉾復活のあと、あの有名な言葉「神事無之共、山ホコ渡シ度シ(神事が無くても山鉾を巡行したいです)」が象徴するように、祇園祭は権力者に翻弄されつつも、氏子区域に住む人たちのより強い結束で運営されるものになりました。そやけど、祇園祭は昔からいろいろな意味でさまざまな地域の人たちが関わってきたお祭であったことは間違いありません。祇園祭を調べていて、祭に関わって結ばれるという「祭縁」(注12)という言葉を知りました。まさに祇園祭は地縁を越えた「祭縁」で支えられて来たお祭と言えますね。
ちなみに、私も主人と一緒に山鉾に必要な房と紐をいくつか作らせてもろてます。房紐は消耗品ですが、山鉾に使われる道具はみんな大事に保存されているので、これもきっと数十年は使ってもらえるやろと思うと力が入りました。どんな形でもよろしやん、お祭に関われるて嬉しいことです。
そやけどね、あんなに怒ってた母も、大みそかには祇園さんへ行って「をけら火」をもろてきてたそうです!母も祇園さんで一年の無事を祈ってたんですよ。あ、でも私…いまだにちまきを玄関に飾るのを躊躇してるんですよねぇ…トラウマ?氏子愛?なんでしょか。
今年も普段の祇園祭ではありませんが、変わらず氏子さんは氏神様である祇園さんに家内安全を祈らはるでしょう。そして祭縁をいただいた私らも、あの賑わいをもう一度取り戻せるよう祈りましょう。疫病退散!
(1)「氏子制度~試される京都人の意地~」の記事中に貼っております。
(2)「平安神宮」は京都市全体が氏子区域です。各氏神さまの中に小さな氏子区域を持っている神社が他にもあるのですが、他区域の詳細が把握しきれず、今宮さん区域のみ記載しております。
(3)手伝い方・大工方・車方に分かれていますが、最近は全部同じ工務店に頼むことも多くなってきているそうです。(樋口博美「伝統的都市の祭礼にみる共同性の維持と創造~山鉾祭礼の「祭縁」を事例として~」)
(4)「祇園会山ほくの次第・応仁乱前分」より
(5)伝一条兼良「尺素往来」(室町時代後期)・伏見宮貞成親王「看聞日記」(室町時代前期)より
(6)「鵲のわたせる橋に置く霜のしろきを見れば夜ぞ更けにける」大伴家持
(7)速水春暁斎著・画 文化3年(1806年)刊行
(8)室町時代中期の「月次祭礼図屛風(伝土佐光信)」を参考にしたもの。同時代にこの屏風を写した摸本が描かれています。
(9)河内将芳「室町時代の祇園祭」p.82
(10)(11)室町時代の京都から山口経由で津和野に伝わりました。津和野の鷺舞は一度途絶えたので、江戸時代にもう一度京都で習い直しをしたそうです。(河内将芳「室町時代の祇園祭」p.199)
(12)樋口博美(前出p.130)