向日神社の桜

京都府向日市に鎮座する向日神社。
延喜式にもその名がある由緒ある神社です。

春には、参道を覆うようにして、いっぱいのソメイヨシノが咲きます。

創立は、社伝によれば奈良時代の養老2年(718)。
この辺りは、神社創建以前から、幾つもの古墳があるなど、人々の崇敬を集める土地でありました。
桓武天皇が長岡京を開いたとき、宮城を最初に置いたのはこの向日神社のすぐ隣でした。
古墳や神社に人々が手を合わせて礼拝している、その隣に宮城を作れば、人々の祈りはそのまま朝廷にも向けられる事になる…そんな計算があったような気がしてなりません。

(「乙訓の文化遺産を守る会」ホームページより )

この、桜の参道の、ほぼ南側が長岡京の第一次内裏(西宮)だったのです。

向日神社は、長い歴史があり、何かと話題のある場所です。

中世には、西国の鎮守と呼ばれて、付近の豪族、西岡衆(にしのおかしゅう)たちが話し合いの場として使っていたことや、近代には、向日神社の本殿がモデルとなって明治神宮が建造されたこと、など時代ごとに話に事欠きません。

また、神社の北~北西にも色々な桜が植わっている区画があります。

水上勉の小説「桜守」で向日神社一帯が登場します。

主人公、北弥吉は有名な庭師に弟子入りします。
竹部庸太郎というその人物は、桜に関しては凄まじい技術の持ち主で、向日市に大きな土地を持ち、そこに何百本という桜の木を植え、苗圃としている…という設定なのですが、この話は、実在の人物を下地にしています。

実際の名前は笹部新太郎(ささべしんたろう)。
大阪に生まれ、東京大学に進学し、植物学者となります。
笹部氏は実践にも長け、兵庫県宝塚市と京都府向日市に大きな土地を買い、桜を集め保護、研究する拠点とします。

向日神社参道の桜たちも、笹部新太郎ゆかりの桜なのだそうです。

古来、日本にあった桜の品種といえば、ヤマザクラ、シダレザクラ、ヤエザクラなどがありますが、江戸時代に生まれたソメイヨシノは、人工的にしか繁殖できない弱さがありながら、発育が早く、また花が多く咲くので、一般に受け入れられ、学校や役所などの公共施設、街の並木などがほとんどソメイヨシノによって占められるという事態になっていました。

「ソメイヨシノによって古来の品種が圧迫され滅ぼされる」と感じた笹部は、向日町の桜苗圃を、桜の多様性を残すための場所として活用していきます。
全国から名木の苗木などを集め、大阪造幣局などに寄贈したのです。

小説「桜守」の中にも、この批判性はしっかり反映されています。
作中で「竹部庸太郎」はいいます。(以下引用)

『「まあ、植樹運動などで、役人さんが員数だけ植えて、責任をまぬがれるにはもってこいの品種といえます」
と竹部は染井をけなした。
「だいいち、あれは、花ばっかりで気品に欠けますわ。ま、山桜が正絹やとすると、染井はスフいうとこですな。土手に植えて、早うに咲かせて花見酒いうだけのものでしたら、 都合のええ木イどす。全国 の九割を占めるあの染井をみて、これが日本の桜やと思われるとわたしは心外ですねや」
竹部はこのエドヒガンとオオシマザクラの交配によって普及した植樹用の染井の氾濫 を、古来の山桜や里桜の退化に結びつけて心配しているのであった。
「まあ、これも、役人さんや管理する人の知恵の無さからどすわ」』
(「水上 勉. 櫻守(新潮文庫) (pp.72-73)」)

と、まあ、ソメイヨシノは辛辣にこき下ろされています。
私個人は、この桜に対してそこまで悪感情は持っていないのです。ソメイヨシノを作り出して、植えたのは人間です。
花は、植えられて咲いただけです。
が、画一的な植樹行政が幾つかの品種を危機に追いやっていたこと、それを止めようと活動した人がいた事は、意識に留めておこうと思います。

そんな竹部庸太郎=笹部新太郎ですが、事業の後継者なくして亡くなります。
宝塚と向日市の桜園はそれぞれ違った運命をたどりました。

宝塚市 武田尾の演習林は、紆余曲折を経て、宝塚市に寄贈され、再整備されます。
向日市の桜苗圃は、名神高速道路建設用の土砂採取地に買い上げられ、破壊されます。

(HP 「よみがえる鎮守の森」より )

地元向日市の団体「鎮守の森の会」は、公式ホームページでこのときの経緯をまとめています。

 『1961年4月毎日新聞は「桜の園へ時代のアラシ名神高速道路の犠牲に」と見出しをつけて次のような記事を載せた。
 「日本一の桜の園が名神高速道路建設用の土砂採取地に買い上げられ、非情のブルドーザーに踏みにじられようとしている。この桜の園は桜の研究で知られる笹部新太郎さん(74)が京都府向日町に日本各地の桜を植えて作ったいわば桜を守るためのトリデ、それが数百本の桜とともにことし限り消えようという話には、滅び行く桜の運命を嘆く人たちの愛惜が集まっている」』
かつて桜の園だった場所は、団地になりました。
記念碑もなく、桜の園だった痕跡はまったく消え去りました。

それから40年以上。
ここに桜の園があったことを知った現地の人たちが、昔の姿を偲んで桜を植え始めます。
最初は初老の男性二人だったそうです。
『持ち主京都府の許可を得て生い茂った木や竹を伐った。 山桜が人知れず育っていた。光を受けて花をつけ、二人は憑かれたように木や竹を伐り山桜を紡ぎだした。
一人加わり二人加わり参加する者が増えた。 みな稼ぎを終えた男だった。応援する女もあらわれ活動は雨の日と休日以外朝から夕方まで続いた』

向日神社の北へ抜け、勝山公園から「桜の道」に入ると、幾つかのパネルが建っています。
一つや二つではありません。大小二十以上あります。

笹部新太郎氏がここに桜の園を作っていた歴史。

桜の品種についても、ひとつひとつ説明書きがされています。
訪問したときには、早咲きで知られるカワヅザクラが花を咲かせていました。

不思議に思うことがありました。
ソメイヨシノ一辺倒の文化を批判し、ソメイヨシノに圧迫された旧来の桜を守ろうとしていた笹部新太郎。
しかし、向日神社の参道を現在彩っているのは、主にソメイヨシノなのです。
この参道の桜たちも、笹部新太郎ゆかりのものだと記述がありました。

笹部氏はどんな思いで参道の桜を植えたのでしょうか。
さいごに、鎮守の森の会から、笹部新太郎について、こんな記述を引用して終わりたいと思います。

『ソメイヨシノをけなし続けた人として知られているが、ソメイヨシノのよさを認めていた人でもある。
 樹齢400年の荘川桜を移植した人として知られているが、就職せず、私財を使い日本古来の桜の保存とソメイヨシノに代わる桜の品種改良に生涯をかけた人である。 使った私財は今の貨幣価値で100億円を超えたという。 理解しにくい人であり、一口で言うと「けったいな人」である。』

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この記事を書いたライター

 
写真家。
京都の風景と祭事を中心に、その伝統と文化を捉えるべく撮影している。
やすらい祭の学区に生まれ、葵祭の学区に育つ。
いちど京都を出たことで地元の魅力に目覚め、友人に各地の名所やそれにまつわる歴史、逸話を紹介しているうち、必要にかられて写真の撮影を始める。
SNSなどで公開していた作品が出版社などの目に止まり、書籍や観光誌の写真担当に起用されることになる。
最近は写真撮影に加えて、撮影技法や京都の歴史などに関する講演会やコラム提供も行っている。

主な実績
京都観光Navi(京都市観光協会公式HP) 「京都四大行事」コーナー ほか
しかけにときめく「京都名庭園」(著者 烏賀陽百合 誠文堂新光社)
しかけに感動する「京都名庭園」(同上)
いちどは行ってみたい京都「絶景庭園」(著者 烏賀陽百合 光文社知恵の森文庫)
阪急電鉄 車内紙「TOKK」2018年11月15日号 表紙 他
京都の中のドイツ 青地伯水編 春風社
ほか、雑誌、書籍、ホームページへの写真提供多数。

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