8月末に京セラ名誉会長の稲盛和夫氏が亡くなった。公立図書館では稲盛氏を偲んで、氏にまつわる本が一角に集められていた。その中に『ごてやん』という本が目に留まった。その「ごてやん」の説明を引用する。
「ごてる」というのは、「ごねる」の意味。つまり、素直に言うことを聞かず、わが 
 ままを言って相手を困らせることだ。そんなこどもを「ごてやん」と呼んだ。(稲盛和夫(2015)『ごてやん』小学館)
 ちょうど前回、「夏休みのこどもたちは」を書いていたので、京ことばにも「ごて」ということばもあったなと感じ入った。ちなみに稲盛氏は鹿児島の出身である。

難儀から転じて「ごて」

このことばから、柳田國男の『蝸牛考』の方言周圏論を思い出した。蝸牛とはかたつむりで、京都では「ででむし」、中部・中国では「まいまい」、関東・四国では「かたつむり」、東北・九州では「つぶり」、東北北部・九州西部では「なめくじ」といった。昔は京都が中心であったので、そのことばの伝播は京都から中心円状に外側に広がっていくということである。ゆえに鹿児島は京都から最も離れているので一番古いことばが残っていることになる。また反対の東北にも鹿児島と同じように古いことばが残っているのである。
その京都と鹿児島で「ごて」ということばをつかっているのある。「ごて」は、「難儀。面倒で煩わしいこと。」であるが、「ごてごていう人。文句を言う人。」をも指す。稲盛氏が言われた「ごてやん」の「やん」は、熊本民謡の「おてもやん」と同じように、「ちゃん」というくらいの意味である。難儀の意味では、「こんなこと引き受けて、えらいごてや」となるが、人を指す場合は、「あいつはごてやから……」となり、どちらかといえば人を指す使い方のほうが多い。もとは「ごてごて(うるさく文句をいうさま)」ということばで、派生して「ごてくさ」ということばをつかう。「いつまでもごてくさ言うな」という具合である。

 

不可も内包する「よろし」

さて、そんないろいろな文句に対して、「よろし」という京ことばがある。「よろし」とは漢字で表すと「宜し」「良ろし」である。今の意味でいうなら、「好ましい」意味を表す。「よろしおすな」など、肯定的なことがらを示すが、時として不可を内包する意味になり、肯定のことばから否定のことばとなることもある。
例えば、昔の八百屋や魚屋などの店先でよく見られた光景だが、店主から「これまけときまっさかいに、どうどす」などと声がかかる。買い手は買う気がない場合、まずは、「へ、おおきに」と返す。それでも覆いかぶさってくると、「よろしおすわ」などと押し返すが、なおしつこく絡んでくると、「もう、よろし」となる。
先ほどのように、いつまでも「ごてくさ」言うてると、ぴしゃっと「もう、よろし」などと返ってくる。商売人にしつこく言われた客なら、もうその店には行かないだろうし、こどもが「ごてる」なら、ちょっとの間、絶縁状態になるだろう。ゆえに、子どもたちは、「ごんた」や「ごて」ても、何度か「もう、よろし」と聞くと、もう言わなくなってしまうようだ。
そんな「よろし」をつなげる京ことばもある。「よろしおあがり」といことばである。わたしが勤め出したころ、まだ土曜日も仕事があったが、その昼を食べに行っていた店では、いつも「よろしおあがり」と言ってくれた。食事を出すとき、下げるときのどちらにも言っていたが、出すときは「どうぞおあがりください」、下げるときは「お粗末でした」くらいの意味である。「よろし」は「よろしく」で、「おあがり」は「お召し上がりください」である。

 

「おばんざい」「おまわり」「おぞよ」とは

そんな店には、「おばんざい」が並んでいる。カウンターの大きな鉢には、旬の京野菜やそれと乾物などを合わせて炊いたものなどが並んでいた。この「おばんざい」を漢字では、「お番菜」「お飯菜」などと表す。「番」は番茶、番傘などと、「常」のものという意味で、「菜」は食用にする葉や茎、根など草の総称やおかずの意味である。このことから常のおかずという意味となる。また、「お飯菜」の「飯」、つまり「ごはん」のことを、御所ことばでは「おばん」といい、ごはんの菜ということで「お飯菜」などと言ったのだろう。 

しかし、この「おばんざい」ということばを、私自身はあまり聞いたことがなかった。大村しげさんの著作物に、この「おばんざい」ということばがよく使われていた。まだ、「おまわり」とか「おぞよ」ということばのほうが耳に残っている。「おまわり」は、主食の周りという意味の御所ことばである。「おぞよ」は、「お雑用」と書き、安くて、栄養価があり、簡単に作れるおかずのことである。ゆえに、おかずといっても一ランク下がるおかずであるように思っている。

私は西陣に住んでいたので、西陣特有の「おぞよ」があった。月初めは、干したニシンと昆布の炊いたもので、干したニシンの渋さと昆布を「こぶう」といい、食事を通して、「渋う、こぶう暮らすこと」と充てた。渋うはケチというより、始末にというくらいの意で、「こぶう」は、昆布の芯まで使うという節約の精神に通じるのである。これは、月半ばにも出すこともあり、月後半の戒めとした。8の付く日はあらめを食べるなどとも言われていた。織物の糸が喉につくので、その糸をおろすために、「お揚げさん(揚げ)」とあらめの炊いたものを食べるのである、また、下旬には、おからを食べるのである。おからは包丁で切ることもないので、「きらず」と言い、縁がきれず、財布も空にならないという、月末の経済状態を戒めた。1か月には、こうした決まった献立をいくつか回していた。
「おぞよ」を通して、日頃の戒めや心得などを職人や奉公人たちに暗黙的に示す習わしがあった。そんな経験をした人も亡くなると、ことばもつかわれなくなってしまうのである。

 

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この記事を書いたKLKライター

京ことば研究家
西村 弘滋

 
京ことば研究家
故井之口有一・堀井令以知両氏の「京ことば研究会」で、京ことばとことばの採集方法を学ぶ。京ことばの持つ微妙なニュアンスの面白さを追い続けている。

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