九月とはいえまだ灼熱の陽がこの丘に照りつけている。握り飯と水筒で兵糧の備えは万全だ。西からの突風に砂煙が立つ。四十三隊それぞれが弧を描くように白い帆の陣を張って今か今かと焦れている。俄かに風の向きが変わった。この日午後一番の戦いで打って出たのは福島太夫の騎馬だった。福島は百戦錬磨の荒武者揃いだ。横から猛突進してきた松平の騎馬とぶつかった。筑前も折り重なるようになだれ込んだが最後に制したのは福島太夫だった。太鼓が鳴り響き、雄叫びはやがて天を割く歓声に変わった。
桃山学区の区民運動会
若干の演出は加えていますが、これは私が桃山に引越してきた頃の区民運動会の騎馬戦の様子です。安土桃山時代の桃山、伏見城下の名残りから桃山学区の町名には戦国武将の名や○○守といった武家官位の名が多く残っています。今も同じようにしているのかわかりませんが、当時の区民運動会では「羽柴長吉東町」「桃山町正宗(政宗)」「毛利長門西町」「水野左近西町」「永井久太郎」といった町名を墨文字で記したテントが合戦の陣のように桃山小学校の校庭を囲んで張られていたました。場内放送も「次は男女混合400メートルリレー、島津、毛利長門西町、羽柴長吉の町内の方は・・・」と真顔でアナウンスされていてびっくりしたのを覚えています。
京都の学区はとっても大事(前編)学区のルーツは戦国時代 -京都の「町」の不思議(その4)- | Kyoto love Kyoto. 伝えたい京都、知りたい京都。京ことば、伝統工芸、歴史など、京都人でも知らない情報をお届け。京都と人をつなぐWebメディア。毎週金曜更新。大河ドラマ特集、フォトコンなど読者投稿企画も開催
この記事でも書かれていますが、京都では小学校区単位の意識がたいへん強いのです。そして大人から子どもまでが参加する区民運動会という学区内町内対抗の運動会が9月から10月に小学校の校庭で開催されます。いわば京都の年中行事です。町内ごとの総合順位もつきますので、気合いの入った町内は総合優勝を目指してリレーのバトン練習をしたりします。でも桃山学区の区民運動会は市内中心部に比べるとわが町内こそが!という闘志は薄かった気がします。学区内にNHKや役所の官舎がいくつかあります。転勤族が住民の多くを占める町内もあって市内中心部に比べると学区内の結束がそれほど強くない印象です。
しかし私のように引っ越してきて初めて参加されたご家族や、お孫さんの応援に来られたおじいちゃんおばぁちゃんはこの合戦さながらのテントを見て目を丸くされていました。また年賀状など郵便の差出人住所も戦国時代のままですから「これってどういう町なの?」と尋ねられることがあります。豊臣秀吉が伏見城(今の通称桃山城)を築き城下に大名を住まわせたその足跡が今も桃山学区と一部の近隣学区に息づいています。たとえ「戦国時代劇か?」とからかわれようが「変な町名!」と笑われようがそれはそれでよいのです。
天下の桃山城
秀吉や家康が政務を執った伏見城は火災などにより少しずつ場所を変えて三度建て直されています。そして「四度目」が昭和の築城でした。昭和39年に伏見桃山城キャッスルランドという遊園地とともにこの地に再現されたのが今の桃山城の模擬天守です。
洛中洛外図屏風に描かれた伏見城をモチーフに建てられたと言われています。遊園地との相乗集客と見晴らしのよさが話題になり模擬天守にも多くの人が訪れました。城内に作られた「黄金の茶室」はNHKの大河ドラマのロケ地にもなりました。しかし遊園地は平成15年に惜しまれながら閉園となり、この模擬天守も耐震強度を満たしていない可能性が指摘され取り壊しとなることこでした。それでも地元の猛反対で閉園後も城は生き長らえ、歴史的価値はさておき築城から60年で桃山城は伏見のシンボルとなったのです。
ところで全国のお城の多くも高台に建っているように桃山城も高台にあります。そしてアップタウン/ダウンタウン、山手/下町と言われるようになぜか高いところに住んでいる方がハイソサエティな感じはあります。東京23区も西へ行くほど標高が高くて杉並区や世田谷区など山手のイメージ、東へ行くと墨田区や荒川区など下町です。阪神間でも山の手に阪急電鉄が走り、次にJRが走り、海の手を阪神電鉄が走っています。そして沿線のカラーもやはりその順で山の手から下町になっているではありませんか。この狭い桃山学区でさえも、お城に近い高台はなんとなく邸宅っぽいお家が多く、低地に行くほど、あるいはお城から距離が遠のくほどそうではなくなります。
私の住んでいる桃山町伊賀(守)って天守から見下ろせば完全に下々の者の住む長屋街です。これってどうしてなんでしょうね。でも見降ろされたとしても、見くだされたとしても、桃山学区民にとって、いえいえ多くの伏見区民にとって桃山城はランドマークを超えた存在なのです。出張帰りの新幹線でライトアップされた京都タワーが見えると「あぁ帰って来たな」と思うように、私は会社帰りの車のフロントウインドウにライトアップされた桃山城が映ると「今日も無事に帰って来られたな」と自分にお疲れさまが言えるのです。
伏見ナンバーと桃山四郎
車といえばご当地ナンバーとして「伏見」ナンバーの設置を求める声があると聞きます。伏見市が京都市に併合されてあげてまもなく150年が経とうとしています。伏見合併150年の計として自動車の登録ナンバーを独立させ、あわよくば市制としても再び独立したいと考える人もいるのではないのでしょうか(知らんけど)。既に京都市観光協会とは別に、伏見観光協会という別団体が存在しておりますし。
伏見市の再興はさておき、もしも京都市の11行政区の自動車ナンバーが独立したとしたらどこの区のナンバーが人気になるでしょうか。東京は品川ナンバーが人気のように京都では「中京」や「下京」、あるいは「東山」あたりが人気になるのでしょうか?いやいや私は字面からも「山科」と「伏見」が人気の本命だと思っています。私のまわりの伏見人には「もし選べるなら伏見ナンバーを」という人がけっこうおられます。山科も伏見も京都カーストでは常連下位の行政区ですが地元愛の強さと字面や語呂の洒脱さでは上位な気がします。
戦国時代の合戦の話や、架空のナンバーなど絵空事を綴った伏見カースト記事の後編ですが、最後も絵空事のような「空」の話で締めたいと思います。京都の気象界には長らく丹波太郎、山城次郎、比叡三郎という雲の産地の山地違いによる積乱雲三兄弟が君臨していました。そこに近年は桃山丘陵を産地とする「桃山四郎」が四男坊として加わりました。
桃山四郎の研究を重ねてこのように命名したのは京都府立桃山高校のグローバルサイエンス部の生徒と先生で、桃山四郎は2008年に公益社団法人日本気象学会の奨励賞を受賞した立派な「学説」となっています。桃山城の天守よりもさらにずっと高いところからこの桃山と伏見を見下ろす桃山四郎にとっては伏見区民のカースト争いも下界の狂騒かもしれませんね。
※KLKの京都カーストシリーズは地元愛に根差したプライド(時には自虐も)をコンセプトにしています。そこに登場する行政区や特定エリア間で本気で優劣を競うものではございません。
(注)
★桃山という地名は豊臣秀吉の時代ではなく江戸時代後期からの呼称です
★桃山城のライトアップは、近年は桜の開花期など期間限定となっています
★伏見市が存在したのは1879年~1881年までの約3年間のみです
★「ご当地ナンバー」が市区単位で認可を受けることはきわめて困難です
伏見記事前編はこちら