京都ハレトケ学会 第3回『百年前の宝探し(後編)』

 近代以降の京都における宝船図の歴史をみていこう。

 大正12年(1923)の『風俗研究』に連載された若原史明「宝船の沿革」によると、「大正6年、京の好事家、明石染人、田中来蘇等の数氏、宝船画の味あるを江湖に紹介し、新聞紙に展覧会に之れを宣伝せしにより、前代曽て見ざる所の流行を来すに至れり」とある。いち早く宝船図に着目し、この展覧会を行ったのが田中緑紅である。

田中緑紅(本名・俊次1891-1969)は、大正から昭和期にかけて活躍した京都の郷土史家である。九条家の御典医を務める家系に生まれるが身体が弱く、医者になることをあきらめて堺町三条で「緑紅花園」という花屋を営んでいた。その頃に出会ったのが染織工芸研究家の明石染人(本名・国助1887-1959)である。玩具・古瓦の蒐集家としても知られた明石と全国の民俗を採訪するうち、絵馬や玩具に興味を抱き、郷土史の研究を志したとされる。大正6年(1917)には郷土趣味社を創立し、機関誌『郷土趣味』や雑誌『京都』『鳩笛』などの発行をはじめている。

 その業績として最も知られるのは『緑紅叢書』である。児童文学者・久留島武彦(1874-1960)との交流から話術も巧みであったといい、安井金毘羅宮で毎月開催していた無料講演会が好評を博し、その内容をまとめたものを昭和32年(1957)から『緑紅叢書』として刊行する。『緑紅叢書』は第53集まで刊行され、約700人の定期購読者の中には大学教授の新村出(1876-1967)や林屋辰三郎(1914-1998)、歌人の吉井勇(1886-1960)などが名を連ねていた(『緑紅叢書』は2018年10月に三人社より復刊された)。

 さらに京都日出新聞・大阪朝日新聞京都版・大阪毎日新聞京都版など、晩年にいたるまで各紙に100回以上の連載を行なっていた。祇園祭のTV中継に解説者として出演していた時期もあり、「緑紅さんは、横町の路地裏まで足を踏み入れて調べまわった。地蔵さんがどちらを向いているかまで知っている。だから大学の先生たちもウカツに話せぬ」とまで言われたという。

 宝船図には大正5年(1916)から着目したと術懐し、『郷土趣味』誌上を中心に宝船図に最も言及していた。また古版の復刻や新作宝船の製作を手掛けて通信販売も行っており、田中緑紅抜きに宝船図を語ることはできない。

 田中来蘇(本名・泰輔)は田中緑紅の父であり、明治23年(1890)に私財を投じて京都初の児童福祉施設「平安徳義会」を創設した医師としても知られる。「非常に謹直な性格」であったといわれるが、緑紅に先駆けて宝船図の記事を執筆しているのは琴線に触れるものがあったのだろう。

 宝船図の展覧会の様子が平安徳義会の機関誌『徳義』大正6年2月号に記されている。大正6年2月3日、緑紅花園で行われた”節分会”は「趣味深き民俗慣習を研究せん為に宝船図を初め節分に限り各神社仏閣から授与する各種の特異品並に画家若しくは風流人の筆跡を陳列して好事家の一覧に供した」催しであったといい、郷土史家が集めた宮中をはじめ五摂家の宝船図、宝船の張交屏風、吉田神社の人形、壬生寺の不倒翁(起き上がり小法師)などが陳列され、数十人の来場者があったという。児童福祉施設の機関誌にこのような記事が載せられるあたり、田中来蘇の並々ならぬ思い入れを感じる(後年、自ら筆を取った宝船図も出している)。

 こうした活動が話題を呼び、ブームは過熱していく。大正6年から大正14年までの『郷土趣味』の記事をまとめると、京都の150を超える社寺で宝船図が授与されており、しかもそれが1箇所1枚でなく、複数の宝船図が授与所に並ぶようになる。

 風俗史家・江馬務(1884-1979)の『京阪神の年中行事』には「大正以来は吉夢を見るためとふよりも、趣味家が之を集めることが追々と盛になつて、遂には社寺でこの宝舟を頒布しないところはないといふ位盛況を呈し、現代の画家にまで書いてもらい、それを木版にして、頒布するところ極めて多く、果ては一個人でも宝舟を作つて頒布する人もできた。一世の寵児堂本印象画伯などのは他が一枚二、三十銭の頃にも、一枚大枚五円で人を驚かしたものであつた」と記されている。

 また「面白いのは近来現代の画家が夫々趣向をこらして描かれしもので、例えば鉄斎、栖鳳、関雪、松園、大雲、聖牛などのものもあるが、趣味家の奇想天外より落ちしものも多く、中には仙外氏のトランプ宝舟、関雪の大黒天を始め、金太郎の小宝舟といふのや夷大黒が舟を引張るもの、日本人と金髪夫人の握手してゐるのや、鈴の舟、美人が宝舟を見てるのや、額になつてゐるものなど、色も赤刷、青摺、赤地に黒刷などあるが、東京のには芝居役者の宝舟などもある」ともある。

 現在までに当時の記事から特定した宝船図の画家は、以下の通りである。
猪飼嘯谷、伊藤快彦、伊吹蘇石、今尾景年、入江波光、岩佐古香、上村松園、牛田雞村、太田喜二郎、奥谷秋石、小村大雲、笠松紫浪、神坂雪佳、北上聖牛、喜多武清、木谷百石、小西福年、沢田宗山、芝千秋、柴田晩葉、庄田鶴友、菅楯彦、鈴木松僊、高谷仙外、竹内栖鳳、竹田黙雷、武田鼓葉、竹久夢二、田中月耕、玉舎春輝、千種掃雲、堂本印象、富岡鉄斎、富田渓仙、中島華鳳、西村五雲、野原桜洲、橋本関雪、平井楳仙、福田文適、真清水蔵六、山口華楊、山口八九子、山崎宏堂、山田伸吉、山中芳谷、山元春挙、渡辺公観、渡辺虚舟、等々…

 ブームの仕掛け人を自負し、これらの宝船図に毎年寸評を書いていた田中緑紅だが、吉夢をみるという本義を離れていく動向にやがて苦言を呈するようになる。

大正8年(1919)『郷土趣味』第11号
「何のために宝舟を出すのか理由も知らずたゞ他の神社(佛寺よりも多少に出ず)より出だして甚だよく出るから当所もやれ、の式で宝舟らしくない舟迄、又何のよりどころのない宝舟迄出来る様になっては甚だ始末が悪くて困る…」

大正9年(1920)『郷土趣味』第17号
「悪い事に個人発行が三分の一を占てゐる事だ、もう追々と悪化して来て古図を翻刻するとか云ふ事は少なくつて変なものが多くなる困つた事である…」

大正10年(1921)『郷土趣味』第24号
「物価の下らない今日特に高いのも不思議でないのかも知らないが先づ拾銭を最低に壱円弐拾銭が最高、弐拾銭から五拾銭が普通になったようで宝船蒐集も追々骨が折れる…」

大正11年(1922)『郷土趣味』第29号
「本年度の宝船は堕落の底に落ちてしまひました。(中略)猪熊氏もこれでは如何とも仕様がない、何とか取締る事が出来まいかと案じられてゐる位で…」

大正12,13年(1924)『郷土趣味』第50号
「愈々悪い傾向で、宝船らしくない宝船計りが出るようになつて、発行所も増加すれば、新版も続々出る、枚数が増す計り蒐集家は益々困る…」

大正14年(1925)『郷土趣味』第56号
「現今の宝船は何等研究の価値がないが…」

 時代が昭和に入ると、宝船図の記録は激減する。これはおそらく大正天皇の崩御に伴う諒闇中の自粛、昭和6年(1931)の満州事変、京阪神が大きな被害を受けた昭和9年(1934)の室戸台風、そして昭和12年(1937)からの日中戦争の勃発といった世相の影響が大きいのだろう。

 戦後、蒐集家によるコレクションの展示や出版がいくつかあったが、宝船図は過去のものとして整理されていた。以上が大正から昭和にかけての宝船図ブームの概要である。

 昨年末、宝船図の歴史に興味を抱いた僕は、田中緑紅の記事を改めて読み直し、ふと疑問を抱いた。百年前の宝船図は本当に全て廃れたのだろうか。

 今年(2018)の元旦から節分にかけて、大正時代の文献をもとに京都市内81箇所の社寺をめぐる調査を行った。調査日は計5日間、調査範囲は京都市内全域に及ぶため6つのエリアに分けることにした。時間は社寺の開門から日没まで。可能な限り自転車を駆使したが、今や場所を尋ねなければ分からないところもあって、一日平均2万歩を歩く羽目になった。

 結果、以下の27箇所の社寺で合計38種類の宝船図を入手した。
市比賣神社、今宮神社、雨宝院、梅宮大社、御辰稲荷神社、御霊神社(上御霊神社)、貴船神社、護王神社、御香宮神社、五條天神社、西院春日神社、慈斎院(天龍寺塔頭)賀茂御祖神社(下鴨神社)、下御霊神社、白雲神社、神泉苑、赤山禅院、千本ゑんま堂(引接寺)、大将軍八神社、大福寺、武信稲荷神社、蛸薬師堂(永福寺)、天道神社、錦天満宮、満足稲荷神社、吉田神社、若宮八幡宮(陶器神社)

限定授与などもあり、調査期間の関係上、全ての社寺を網羅できていないことはご容赦いただきたい。

 手摺りが印刷に変わったり、判型も御札やA4サイズになったりしていたが、百年前の記事に掲載されたものが今も授与されていることに感動を覚える。調査の中で全く忘れ去られているところもあれば、数年前に授与を止めたというところもあった。特に手摺りのものは手間もかかるし、版木も年々傷んでくるだろう。今年あったものが来年もあるとは限らない。

 今こうして長文に筆を尽くすのは、百年前の人々があれほどこだわった風雅な文化を知っていただくためである。当時の作品は大部分が図柄も分からなくなっており、回顧展でお目にかかることもない。画家の余技とはいえ、記憶からも失われてしまうには惜しいものである。今後も”宝探し”を続けて、情報を発信して行きたい。

 調査を終えた節分の夜、入手した宝船図を丁寧に重ね、枕の下に敷いて眠りについてみた。未明に38艘の船団が押し寄せひしめき合う夢をみて、船酔いしそうになって目が覚めた。その後、僕の暮らし向きが変わったかについてはご想像にお任せしよう。「過ぎたるは猶及ばざるが如し」であることは、百年前も今も同じである。

◇参考文献◇

秋里籬島(1760)『都名所図会』巻2、平安京都都名所図会データべース、国際日本文化研究センター
橋本経亮(1809)『橘窓自語』巻1、日本随筆大成 第I期4、吉川弘文館
喜多村信節(1830)『嬉遊笑覧』巻8、日本随筆大成 別巻 嬉遊笑覧3、吉川弘文館
喜田川季荘編(1837~1867?)『守貞謾稿』巻26、『近世風俗志-守貞謾稿(1)』、岩波文庫
平安徳義会(1917)『徳義』大正6年2月号
田中来蘇(1918)「宝船(1)~(5)」『郷土趣味』第1~5号、郷土趣味社
明石染人(1918)「「宝船」の真意義」『郷土趣味』第2号、郷土趣味社
井上和雄(1918)『宝船集』伊勢辰商店
田中俊次(1919)「京都と宝船」『郷土趣味』第11号、郷土趣味社
猪熊信男(1920)「宝船の起源に就て(上)」『郷土趣味』第19号、郷土趣味社
猪熊信男(1920)「宝船の起源に就て(下)」『郷土趣味』第20号、郷土趣味社
田中俊次(1920)「宝船-大正九年度発行」『郷土趣味』第17号、郷土趣味社
田中俊次(1921)「新らしい宝船(大正十年度)」『郷土趣味』第24号、郷土趣味社
田中俊次(1922)「本年の宝船(大正十一年度)」『郷土趣味』第29号、郷土趣味社
田中緑紅(1922)『宝船小話』郷土趣味社
若原史明(1923)「宝船の沿革(1)~(6)」『風俗研究』第31~36号、風俗研究会
田中俊次(1924)「新らしい宝船(大正十二、十三年度)」『郷土趣味』第50号、郷土趣味社
田中俊次(1925)「珍らしい宝船」『郷土趣味』第56号、郷土趣味社
塙保己一編(1925)「澤巽阿弥覚書」『続群書類従』第24集 下 武家部、続群書類従完成会
吉川観方(1930)『多加良富年』京都精版印刷社
田中緑紅(1959)『如月の京都』緑紅叢書 第22集、京を語る会
田中泰彦(1969)『田中緑紅と京都伝説』京を語る会
江馬務(1978)『京阪神の年中行事』宝書房
文献資料蒐集研究所編(1978)『宝船百態』村田書店
太田豊人/古本如洋(1981)『百宝船』幻想社
浅野晃(1999)『新編西鶴全集』第一巻・本文篇、勉誠出版
村上忠喜(2004)「京町家のオモテ・ウラ、そしてオク」京都映像資料研究会編『古写真で語る京都』、淡交社

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この記事を書いたライター

京都ハレトケ学会 主宰。
京都六斎念仏保存団体連合会・京都中堂寺六斎会 会長付/公式カメラマン。

2006年に滋賀から京都市へ移住したことをきっかけにまつりの撮影を始める。
会社勤めのかたわら、ライフワークとして郷土史家の事績をたどっている。

作品展示
2014年 『中堂寺六斎念仏』展 京都市伏見青少年活動センター
2015年 『都の六斎念仏』展 京都府庁旧本館
2016年 惟喬親王1120年御遠忌・協賛展示『親王伝』 京都大原学院
2017年 『京のまつり文化』展 綾小路ギャラリー武
2018年 『京のまつり文化』展 ごはん処矢尾定
2019年 『続・京のまつり文化』展 ごはん処矢尾定

|京都ハレトケ学会 主宰|宝船図/桜/桂離宮/祇園祭/御大礼