桂離宮を訪れたことはあるだろうか。

桂離宮(京都市西京区桂御園)は桂川に架かる桂大橋の西岸に位置し、現在は住宅街に囲まれているが、古くは藤原道長の"桂山荘"をはじめとする公家たちの別業(別荘)が営まれたとされる月見の名所である。

江戸初期、ここに別業を造営されたのが後陽成天皇(1571-1617)の弟宮にあたる、桂宮家の初代・八条宮智仁親王(1579-1629)である。

桂宮家は初代~五代まで八条宮、六代は常磐井宮、七代~九代まで京極宮、十代~十二代まで桂宮と名を変えて継承されてきた。京都御所の北に今出川屋敷(現在の京都御苑内・桂宮邸跡)を構え、幕末まで下桂村・御陵村(西京区御陵)・鷹峯村(北区鷹峯)・開田村(長岡京市天神)の所領それぞれに御茶屋があったが、十二代淑子内親王が明治14年(1881)に薨去されて宮家相続が断絶し、明治16年(1883)に宮内省所管となったのが下桂村の御茶屋、現在の桂離宮である。なお、今出川屋敷にあった桂宮御殿は明治26~27年(1893~1894)に二条城に移築され、本丸御殿となっている。

桂離宮の造営の経緯は、桂宮家に仕えていた諸大夫らに伝わる写本『桂御別業之記』に以下のように記されている(※写本により内容に異同がある)。

『桂御別業之記』(国立国会図書館蔵本)
一、御元祖宮智仁親王(號桂光院)御代造立し給ふ、古書院是なり。
  御茶屋は瓜畑の御茶屋を始とし、月波楼(梅の御茶屋、又ハ
  月梅の御茶屋とも云)を造らる。
  其餘御二代天香院智忠親王造増ありし、作庭の事ハ小堀遠州政一
  (號宗甫)伏見在役中毎々参上にて悉く作らしむ、
  其砌門弟(出納大蔵少輔、大倉山科出雲守両三輩)遠州の命を
  うけて手傳ハしむ、中にも妙蓮寺の玉淵坊勝れり
  (妙蓮寺中にも于(ㇾ)今玉淵坊の作庭残りし也、又妙心寺雜華院の
  庭十六羅漢石など玉淵坊の作庭顕然たり)

これまでの研究により、元和元年(1615)頃に初代・智仁親王によって造営が始められて古書院が完成、二代・智忠親王(1619-1662)によって中書院・新御殿・松琴亭・賞花亭・笑意軒・月波楼が新たに増築されて寛文2年(1662)頃までに景観が整い、後水尾上皇(1596-1680)の行幸(明暦4年(1658)3月・寛文3年(1663)3月と10月の計3回)に先立って御幸門および御幸道が造られ、また新御殿に桂棚や付書院が設けられたことが分かっている(”瓜畑の御茶屋”は現存しない)。

苑内に”遠州好み”と伝わる趣向は多い。大名茶人であり作庭も得意とした小堀政一(1579-1647)の関与を否定する説が有力だとされるが、作庭が誰であったのかはいまだ謎のままである。ちなみに桂離宮に魅せられた建築家ブルーノ・タウト(1880-1938)は、後年、小堀が晩年を過ごした孤篷庵(大徳寺塔頭)を訪ねて墓に花を手向けている。

寛永年間(1624~1645)には智仁親王との交流から相国寺鹿苑院主・顕晫や金地院崇伝が招かれてその眺めを絶賛し、智忠親王との交流から佐野紹益が招かれ、「源氏物語を再現したような光景であった」と感想を綴っている。

昕叔顕晫『鹿苑日録』寛永元年(1624)「天下絶景也」
金地院崇伝『桂亭記』寛永2年(1625)
「雖(ㇾ)云(二)瀟湘西湖絶景(一)不(二)多讓(一)矣」(中国の瀟湘や西湖にも劣らぬ絶景)
佐野紹益『にぎはひ草』寛永の頃
「源氏物語にかきたるを見したに、いとめつらしく面白きを、其面影をたかへしと、
うつしなし給ぬれは」

江戸時代は桂川の氾濫による浸水がたびたびあり、明治維新後の荒廃、昭和9年(1931)の室戸台風による風水害があったが、昭和51年7月~昭和57年3月(1976~1982)の”昭和の大修理”を経て現在にいたっている。火災にも遭わず、約400年前の宮家の別業がほぼ当時の姿を留めているのは奇跡といえるだろう。

現在は宮内庁京都事務所への参観予約(窓口・郵送・インターネット)、また桂離宮前での当日申込(先着順)も可能になり、一般でもずいぶんと参観しやすくなっている(ただし、中学生以上の年齢要件あり。2018年からは有料となった)。参観者は休所にて参観手続きを終えたのち、職員が引率し20名程度のグループで苑内をめぐる。

露地口をくぐって、右手に"住吉の松"跡、左手に御舟屋を見ながら最初の土橋を渡り、御幸道を逆行して御幸門に赴く。再び御幸道を戻って紅葉山の途中から左に折れ、蘇鉄山・外腰掛にいたる。そこから州浜に進むと視界が一気に開けて"天の橋立"が見える。白川石の石橋を渡ると茶室・松琴亭がある。

次の土橋を渡り、築山を登ると峠の茶屋風の賞花亭に着く。ここは桂離宮で最も高く見晴らしのいい場所だ。それでも全ての建物が見えないのは心憎い演出である。坂道を下ると、いよいよ古書院・中書院が間近に迫るが、近道の橋は渡れない。かつての持仏堂である園林堂の前を過ぎて最後の土橋を渡ると、かつて"射場"と呼ばれた道に出る。右手には新御殿が姿を現すが、左に折れて茶室・笑意軒に立ち寄る。

射場を戻って新御殿・中書院・古書院が美しく連なるさまを見ながら行くと、有名な"月見台"がある。そこからすぐのところに茶亭・月波楼があり、本来の玄関である御輿寄を見て中門を出る。そこは住吉の松跡の前であり、参観者はようやく苑内を一周したことに気付くのである。随所で視界を制限し、参観者を奥へ奥へといざなう趣向が素晴らしい(江戸期の来賓もほぼ同じ順路で案内されており、笑意軒からは舟遊びを楽しんでいる)。

こうして参観できる桂離宮であるが、戦前は著しく制限されていた。例えば、明治28年(1895)の『京華要誌』には以下のように記されている。

「皇宮離宮拝観の資格あるものは皇族高等官華族有位者(従六位以上)帯勲者
(勲六等以上)各國公使及ひ其家族並に公使館属員等にして外國貴賓及ひ
学者美術家等の特別拝観を得るものは宮内大臣の特許あるものに限りすへて
御苑内主殿寮出張所に至り掛員の指揮に従ひ拝観すへし左に御所離宮御門内
警手詰所に掲示ある拝観人心得を附載す」

京都御所離宮拝観人心得
一、御所及離宮ノ拝観ヲ許サレタル者ハ各自名刺ヲ出シテ案内ヲ乞フヘシ
但拝観人名簿ヘ官位勲爵氏名等を手署スヘシ
一、拝観ノ際ハ案内者ノ誘引ニ従フヘシ擅ニ殿内ヲ徘徊スルヲ得ス
一、靴ノ儘ニ昇ヲ許サス
但外套襟巻傘杖等携帯品ハ昇殿ノ際随従者又ハ殿丁へ預ケ置クヘシ
一、休息所ノ外殿内ニ於テ喫煙スルヲ禁ス
一、拝観時限ハ午前九時ヨリ午前三時迄トス
一、官位ナキ随従者又ハ乳母婢僕ハ殿内へ入ルコトヲ得ス
一、男子着流シハ拝観ヲ許サス婦人ニシテ右ニ準スル服モ亦同シ
但高下駄ニシテ入苑スルヲ許サス

大正期を経て徐々に緩和されたと思われるが、昭和初期、桂離宮の研究に挑んだ郷土史家がいた。若原史明(1895-1949?)である。

若原史明(本名・玉五郎)は、万寿寺通柳馬場にあった銅器商・金英堂の五男として生まれ、父の影響もあり幼少の頃より歴史に明るく、わずか10歳にして師事していた俳人・岩井藍水(栄之助)より"史明"の俳号を与えられたという。

大正3年(1914)から風俗史家・江馬務(1884-1979)の主宰する風俗研究会に携わり、幹事として活躍する。若原の最大の業績は、昭和57年(1982)に刊行された『祇園会山鉾大鑑』であろう。

『祇園会山鉾大鑑』は、祇園祭の各山鉾町に伝わる古文書や古老からの聞き取りなど、若原独自の研究ノートをまとめたものである。山鉾の起源から明治までの変遷・懸装品・古例・行事・文献に詠まれた詩歌に至るまでを記述し、総頁数は1,500を超える。当時の祇園祭はすでに文化財として機関による調査研究が進んでおり、八坂神社から遺稿をまとめた本書が刊行された際の関係者に与えた衝撃は想像に難くない。

惜しむらくは、前祭を中心とした17の山鉾にしか言及されていないことである。若原は大正13年(1934)から調査の成果を風俗研究会の機関誌『風俗研究』に「祇園会山鉾の沿革」として連載していたが、昭和9年(1934)3月に東京・浅草に転勤となった頃から筆が滞りがちとなり、数年後、京都へ戻るも昭和13年(1938)の第42回で未完となる。若原は戦時中の灯火管制のもとでも『祇園会山鉾大鑑』の執筆を続けていたとされるが、終戦後の昭和24年(1949)にふらりと旅に出たまま、帰らぬ人になったという。

若原のもう一つの業績が「桂離宮記」である。これは『風俗研究』誌上に昭和6年7月から昭和11年2月(1931~1936)まで計16回にわたって連載された桂離宮の参観記であり、その沿革から建築・庭園の様式にまで言及している。タウトが桂離宮を訪れて話題となるのは昭和8年(1933)のことだ。まだ一部の研究者による論文しかなかった時期であり、驚くべき着眼点である。

若原は「桂離宮記」第1回の冒頭に「耽奇会の発会記念の為め特別拝観の光栄に浴し、数次の拝観に依つて知悉とまでは云はざるも稍々詳細に観るを得たる機会に際して、感激を新たにし、幸に今後入苑を許される人の拝観案内の便宜ともなり、且つ其等の期会に恵まれざる人に対して、結構の万一を寫さん為、茲に回を逐ふて勤記する次代である」と記している。この"耽奇会"とは何だろうか?

耽奇会は、曲亭馬琴・山崎美成・谷文晁といった江戸期の文人らによって構成された、各々が珍品・奇物を持ち寄って披露し批評する会合である。文政7年5月から文政8年11月(1824~1825)まで約1年半の活動であったが、出品物の模写を添えた詳細な展覧図録『耽奇漫録』全20巻が残されており、その全容を知ることができる(宝船図も珍品として出品されている)。

こうした趣味家による集いは、京都の以文会(文化8年~万延元年)、三村竹清・木村仙秀・加賀豊三郎らによる新耽奇会(昭和3年~11年)が知られるが、風俗研究会の姉妹会として昭和6年(1931)にはじまった”耽奇会”は知られていない。『風俗研究』133号に記された案内によると、曲亭馬琴の耽奇会の後身を標榜し、「毎月品物持寄座談会、年中行事観覧、名物試食を行ひ、又時々時代食物試食、音楽歌舞の会など、趣味の会を行ふことになつてゐる」とある。

この耽奇会の第1回を記念して昭和6年5月10〜12日の3日間にわたって桂離宮を参観し、江馬務と若原史明が臨地解説を行っている。また参加者には若原が書写した詳細な林泉略図が配布されたようだ。

「桂離宮記」は、第1~3回は沿革、第4回は外構と控室、第5~6回は古書院、第7~9回は中書院、第10~13回は御幸御殿(新御殿)、第14~16回は御庭という構成になっている。沿革については当時の限られた史料からの論考であり、研究の進んだ現代においては古さを否めない(初期の造営は古田織部、第二次造営は小堀遠州の作庭という説をとる)。また書院や御殿など建築に関することは、内部の一般参観が叶わぬ今となっては研究者の記述との比較しかできず、取り上げるのが難しい。

そこで今回は、現在の参観ルートとも重なる御庭の項から、若原独自と思われる記述を抜粋し検証してみたい。本来ならば御幸門から松琴亭へとめぐるのだが、松琴亭を目前にして未完(絶筆)となっていることをご了承いただきたい。

【御成門(表門)】
「御成と御幸の両御門の間の道は、元一間許の狭い道であったのを御取り拡げになりしもので、その東側には池田亀五郎と呼ぶ水田一反許りが有つたのを今は藪にせられてゐる。御成門の左にある白椿の大樹は殊に美事で、甞て、後水尾天皇には常に椿を愛でさせられしより、舊時その八月十九日の御聖忌には毎年この桂宮家より、小なる竹筒百本に種々の椿を挿して、御廟前へ献ぜられし為め、此の御別邸内に数株の椿を植え置かれたる、その一株であるといふ」

表門から御幸門への道は中ほどで立ち入りが制限されており、表門に近づくことができない。東側には竹林が生い茂り水田のおもかげはないが、元禄(1688~1704)頃に成立したとみられる『桂宮御別荘全図』で水田の位置が分かる。白椿の大樹は確認できなかった。月輪陵(泉涌寺内)前に供えられた百の椿はさぞ壮観であっただろう。なお、桂宮邸跡には椿の木が残っているかもしれないが、現在は官舎となっており立ち入ることができない。

【紅葉山】
「元この紅葉山の前路の南へ盡きる所から、池の向ふにある松琴亭へ渡る大橋が架けられてあつたとの事で、朱塗の欄干に青銅の擬寶珠の外は金物を打たなかつたとのみ傳へられる。今日ではその構造も知るに由なけれども、その痕跡は両端の道の形状に整然として認められ、尠くとも十間に餘る丹塗の長虹が池を貫いてゐた景観の美は想像に餘るものがある」

紅葉山の道は中ほどで立ち入りが制限されており、池に近づくことはできないが、松琴亭の前から橋跡が確認できる(十間は約18メートル)。『桂宮御別荘全図』においても「此所古ヘ朱塗欄干付ノ橋掛レル跡也」とされており、江戸前期にはすでに失われていたことが分かる。なお、大橋の北詰には『古今和歌集』の仮名序になぞらえた"住吉の松"(明和8年(1771)頃に失われ、現在は小松)と対をなす"高砂の松"があったとされ、『桂宮御別荘全図』にもその付近に松が描かれている。

【赤間石】
「(天の橋立の)第二島にあつて大小二個、大は一丈餘小は四尺ばかり、紫色の置石にして加藤清正の献上品と傳へられる。因みに赤間石は蘇鉄山のかゝりの飛石に二つ古書院の南、榧の木の傍の飛石に二つ、みな同質のもので、古くは七つ有つたと傳へられてゐる」

天の橋立近くの置石だと思われ、現存する(一丈は約3メートル、四尺は約1.2メートル)。外腰掛(蘇鉄山のかゝり)前と、古書院南の赤間石はまだ確認できていない。

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中野 貴広

京都ハレトケ学会 主宰
京都中堂寺六斎会・京都六斎念仏保存団体連合会 事務局

1973年 滋賀県生まれ。2006年に京都市へ移住したことをきっかけにまつりの撮影を始める。
会社勤めのかたわら、ライフワークとして郷土史家の事績をたどっている。

作品展示
2014年 『中堂寺六斎念仏』展 京都市伏見青少年活動センター
2015年 『都の六斎念仏』展 京都府庁旧本館
2016年 惟喬親王1120年御遠忌・協賛展示『親王伝』 京都大原学院
2017年 『京のまつり文化』展 綾小路ギャラリー武
2018年 『京のまつり文化』展 ごはん処矢尾定
2019年 『続・京のまつり文化』展 ごはん処矢尾定

ごはん処 矢尾定(下京区新町通綾小路上ル四条町)
https://www.yaosada.com/

京都宝船図研究会
https://www.instagram.com/nakakiyono/

                                   

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