京都ハレトケ学会『祇園祭と御大礼』

令和元年の今年は、祇園祭創始1150年にあたるという。

天皇陛下の御即位にともなう御大礼として5月1日に剣璽等承継の儀、5月13日に亀卜(亀の甲羅を焼いて行なう占い)による斎田点定の儀が行われ、悠紀(ゆき)地方は栃木県、主基(すき)地方には京都府が選ばれたことは記憶に新しい。

それぞれの斎田で収穫された新穀(米と粟)が11月14、15日の大嘗祭における神饌と御神酒(白酒・黒酒)に用いられ、皇居・東御苑の大嘗宮にて天神地祇八百万神に献じ、天皇親らも聞し召される。大嘗祭は御代替わりの最も重要な儀式である。

実はこの大嘗祭と祇園祭は無関係ではない。

山鉾の風流がいつの頃からはじまったのか正確には分からないが、平安時代の有名なエピソードがある。平安末期に鳥羽法皇の命により六国史の続編として編さんされた『本朝世紀』(外記日記)の一条天皇・長保元年(999) 六月十四日条によると、祇園天神会の日に「无骨(むこつ)」という法師姿の雑芸者(名を頼信、世間では仁安とよばれる)が「村」を造って社頭を渡した。この村が大嘗会の"標"によく似ていた。これを聞いて驚いた左大臣(藤原道長)は検非違使を遣わして止めさせ、捕えようとしたが、无骨はすでに逃亡した後だった。また无骨の村を止めた際、天神が大いに怒っておられる、とのお告げが祝師僧にあった。その夜、宮中の修理・造営をつかさどる修理職の木屋から火災が起こり、内裏が焼亡したという。

「大嘗会」は明治維新までの大嘗祭のことであり、祇園祭は「祇園会」「祇園天神会」ともよばれていた。なお、旧暦6月14日は現在の7月24日にあたり、祇園祭・後祭巡行および還幸祭の日である。

では、大嘗会の標(ひょう)とは何だろうか。

標は「標山(ひょうのやま)」ともいわれ、大嘗宮内に設けられた宵御饌を奉る悠紀殿、暁御饌を奉る主基殿の前に参列者の目印として立てられた柱のようなものであったとされる。

しかし、『日本後記』巻三十一逸文・弘仁十四年(823) 十一月条によると、淳和天皇の大嘗会に先立って右大臣・藤原冬嗣、大納言・藤原緒嗣らが「天下騒動(凶作)が続いて国民が疲弊しており、金銀を彫り込んだ錺(かざり)などは一切不用。標のものについても榊で造って橘と木綿で飾り、悠紀・主基と書く程度とし、全てを質素に執り行った方がよろしいかと存じます」と奏上していることから、だんだんと華美になっていったことが分かる。

華やかになった標はどのようなものであったのか。わずかな記述しか残されていないが『続日本後記』巻第二の仁明天皇・天長十年(833) 十一月十六日条によると、悠紀殿の標は築山に梧桐(アオギリ)を植え、その上には五色の雲がたなびき、雲中には悠紀地方に選ばれた近江国を示す「悠紀近江」の文字が書かれて周囲を二羽の鳳が舞っている。さらに慶雲の上には太陽と半月を模したものがある。築山の前には天老(黄帝の臣下)と麟(雌の麒麟)の像があり、後ろに連理の呉竹(互いの枝が連なり、一つのようになった二本のハチク)が飾られている。

一方、主基殿の標は西王母の神話になぞらえて築山に恒春樹が植えられ、その上にやはり五色の雲がたなびき、雲上には霞がただよって、主基地方の備中国を示す「主基備中」の文字が霞の中に見える。築山の前には益地図を手にした西王母の像があり、不老長寿の仙桃を盗もうとする童子の姿がある。また周囲に鸞(中国の伝説の霊鳥)と鳳と騏驎(麒麟)、鶴の像が並んでいる。こうした物語にそって構成された作り物は、山鉾の濫觴といえるだろう。

この標はかつて平安京の朱雀大路を巡行していた。内裏から北へ二町ほど行った野の中に神饌の調製や白酒・黒酒の醸造、神服(阿波の麁服・三河の繪服)を織る場所として、大嘗会に際し臨時に設けられる北野斎場(現在の京都市上京区若松町が推定地)があった。標もここで造られていたという。なお、『京都坊目誌』上京第五学区之部若松町の項には、古蹟として以下のように記されている。

 ○大嘗会畠(だいじょうえばた)
  此地往時大嘗会の斎場所なり。後ち大嘗会畠と呼び官有地たり。
  応仁以後荒廃し。天正以来民有地に帰す。其址東は今の千本。
  西は今の七本松。南は一条。北は今の今出川までとす。

この北野斎場から大嘗会の当日、神饌をはじめとした使用される全ての調度品が関係者とともに行列を立てて運搬される。行列は悠紀・主基の二手に分かれており、その先頭として曳き出されたのが標である。悠紀の行列は阿波の麁服(あらたえ)の列を先頭に一条大路を東へ進んで東の大宮大路を、主基は西へ進んで西大宮大路をそれぞれ南行し、七条大路を進んで朱雀大路で合流する。そこから行列を整え、神服の行列を中央、悠紀の行列は東側、主基の行列は西側に並んで朱雀大路を北上している。身分を問わず見物が許されていたこともあり、多くの人々が朱雀大路の沿道に集まって見ていたようだ。

行列の先頭が朱雀門に到着すると、門の東で待っていた三河の繪服(にぎたえ)の列が麁服の列に合流する。その後、朱雀門・応天門をくぐり、東西の朝集殿の前に東・悠紀、西・主基として標が置かれるのである。

大嘗会における標の製作は、後土御門天皇の御即位された寛正6年(1465)まで続いていたようだが、朱雀大路の荒廃(耕地化など)とともに巡行は縮小されていったと見られる。さらに応仁・文明の乱(1467~1478)が発生して大嘗会そのものが中絶しており、東山天皇の御即位にあたって貞享4年(1687)に大嘗会が再興された際も標は復興されなかった。

一方で祇園会と山鉾巡行は、明応9年(1500)に復興している。もし敬意を払うべき大嘗会の標の衰退がかえって山鉾の隆盛を招いたとすれば、それは祇園天神の神慮だったのかもしれない。

ちなみに昭和3年(1928)の御大礼の際に山鉾が出ている。大嘗祭が終わった後の11月18日、大典記念京都植物園(現在の京都府立植物園)において御大礼に参列した首相をはじめとする政府関係者および外国大使を招いた園遊会が催され、会場内に岩戸山と放下鉾が建てられている。秋の植物園に祇園囃子はどのように響いたのだろうか。

そして、新しい時代となった今も奉祝の鉦の音が鳴り響いている。祇園祭は都の歴史とともに続いてゆく。

※2019年夏の記事です。

◇参考文献◇

佐伯有義編(1930)『六国史 巻6 (続日本後紀)』 朝日新聞社 国立国会図書館デジタルコレクション
碓井小三郎(1916)「京都坊目誌1~5」『新修京都叢書』第17~21巻 臨川書店 1976年
京都市役所編(1930)『京都市大禮奉祝誌』
出雲路通治郎(1942)『大禮と朝儀』櫻橘書院
相馬大(1969)「山鉾のはじまりのことなど」月刊『京都』第220号 白川書院
平野孝國(1986)『大嘗祭の構造』ぺりかん社
佐伯有義編(1988)『六国史 巻5〜6(日本後紀)』名著普及会
黒板勝美編(1999)「本朝世紀」『新訂増補 国史大系 第9巻』吉川弘文館
小山利彦(2013)「祇園御霊会と王朝文学」『立命館文學』630号 立命館大学文学部人文学会編
桃崎有一郎(2016)『平安京はいらなかった ― 古代の夢を喰らう中世』吉川弘文館

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この記事を書いたライター

京都ハレトケ学会 主宰。
京都六斎念仏保存団体連合会・京都中堂寺六斎会 会長付/公式カメラマン。

2006年に滋賀から京都市へ移住したことをきっかけにまつりの撮影を始める。
会社勤めのかたわら、ライフワークとして郷土史家の事績をたどっている。

作品展示
2014年 『中堂寺六斎念仏』展 京都市伏見青少年活動センター
2015年 『都の六斎念仏』展 京都府庁旧本館
2016年 惟喬親王1120年御遠忌・協賛展示『親王伝』 京都大原学院
2017年 『京のまつり文化』展 綾小路ギャラリー武
2018年 『京のまつり文化』展 ごはん処矢尾定
2019年 『続・京のまつり文化』展 ごはん処矢尾定

|京都ハレトケ学会 主宰|宝船図/桜/桂離宮/祇園祭/御大礼