路面電車が走っていた40年以上前のこと
京都の街で「電車道」(でんしゃみち)「電車通り」(でんしゃどおり)という言葉を聞かなくなって相当な時間が経ってしましました。
JRや阪急電車の線路を「電車道」とはいいませんね。
真ん中に路面電車が走り、自動車や自転車、人々も行き来する道路を電車道と呼んでいたのです。
道路に沿ってお店や人家が並んでいたので、生活の場の目の前を朝から晩まで電車は走っていました。
京都市内中心部の大きな道路はそのほとんどが、京都市電(市電)が走る電車道でした。
このKLKでも京都市電についてお話したことが幾度かありましたが、今回はあらためて市電全般についておさらいしておきたいと思います。
というのは若い人から「四条通や河原町通りに電車が走っていたなんて信じられない」と言われたからです。
その京都市電が全廃されたのは昭和53(1978)年9月30日でしたので、先月末で42年になるのです。
ということはおおむね50歳以上の人でないと市電を知らないことになります。
ここからは以前のKLK「祇園祭と市電」と少し重なりますがご容赦ください。
▶︎祇園祭と地下鉄工事のお話 を読む
京電(民間会社)が経営していた路面電車
明治28(1895)年2月に我が国初の営業用の電車が京都駅から伏見まで、そして同年4月に木屋町通を北上して木屋町二条から東進、南禅寺畔まで走ったのはご存知の方も多いと思いますが、これは京都電気鉄道(京電)という民間会社の経営だったのです。
線路の幅は狭軌(1067mm)でした。
ときたまその時から市電だという説明がありますがそれは明らかに間違いです。
なお、京電についてはいずれあらためてお話したいと思いますので、今回はこの程度にしておきます。
市電は明治の三大事業(第二琵琶湖疏水の開削 上水道の整備 市内中心部の道路の拡幅と電車の開業)によって登場します。
明治45(1912)年に最初に開業した路線は地図に描いたように京都駅~烏丸丸太町~千本丸太町~壬生車庫と四条通の西洞院~四条小橋(木屋町)間でした。
これらの道路を拡幅して電車を走らせたのです。
もっともその段階では京電の木屋町線や堀川線とはまだ重なりませんでした。
線路の幅は標準軌(1435mm)で、電車も京電の電車よりやや大ぶりでした。
市電と京電、激しい競争に
その後、道路の拡幅とともに路線はしだいに拡大され、一部は京電とも競合するようになりました。
市内交通として京電と市電という2つの乗り物が激しい競争を繰り広げました。
回数券の割引率を2割にしたり景品付きの乗車券も発売されたそうです。
その間も市電による京電買収の動きは市会も巻き込んで展開されるのですが、買収額が低くなかなか実現しませんでした。
しかし結局は大正7(1918)年6月に京電は市電に買収され、市内交通は市電に一本化されます。
車両もそれまでは単車(車輪が2つ)ばかりだったのが大型のボギー車(2軸の台車を前後に装備)も導入されるようになりました。
路線は京電時代と競合する路線の整理(例:京電木屋町線を廃止して市電河原町線に1本化)や線路幅の統一(例:伏見線を京電時代の1067mmから1435mmに拡幅)が進められ堀川線だけが市電でありながら1067mmで残ったのです。
なおその堀川線は北野天満宮の前まで行っていたので北野線とよぶこともありました。
また四条西洞院と四条堀川の東詰の間は堀川線の1067mmと四条線の1435mmの2種類のゲージの電車が走ることになったのです。
いわゆる3線区間と称して、片方のレールを共用し、堀川線がなくなる昭和36年まで狭い線路と広い線路を上手に重ねて走っていました。
戦争中も輸送力を維持するために急行運転を実施したり、女子の運転手や車掌も登場して市民の足を守りました。
また燃料不足からトラックが減らされ、一部の区間には市電の貨物電車も走らせ、主に配給の食料品を運びました。
戦後も延びた市電の路線
市電の路線網は戦前に完成されたと思っておられる方も少なくないでしょうが、戦後の混乱期を経て、市電の路線はさらに伸ばされます。
昭和29(1954)年3月に白川線(銀閣寺道~天王町)が、昭和31年10月に河原町線(葵橋~洛北高校前)が、昭和32年4月に今出川線(千本今出川~北野紙屋町)がそれぞれ開業し、最後はこのKLKの「嵐電が天神さんまでやってきた」でも紹介しましたように今出川線の北野紙屋町~白梅町間が、嵐電が撤退することで開業し、その総延長は68kmに達し、我が国屈指の市内路面電車網が完成したのです。
市電は朝5時台から夜23時台まで走り続けました。
昭和36年に堀川線(北野線)が廃止され総延長は短くなりましたが、昭和38年のピーク時には1日の輸送人員は約60万6000人に達しました。
これは現在の地下鉄の輸送人員の約2倍にあたりますから、いかに小さな路面電車(概ね1両の定員は64~100人)が頑張って運んだのかお察しいただけるでしょう。
電車ももっとも多い時は350両以上が在籍していました。
今は市バスの車庫や操車場になっていますが、壬生車庫・九条車庫・烏丸車庫・錦林車庫が「ねぐら」でした。
また堀川線(北野線)の車庫として北野車庫(現こども文化会館)がありました。
日常に溶け込んでいた市電
市電は京都の町並にもよく溶け込んでいました。
八坂神社の前を通り過ぎる市電、妙法院に向かって七条通を上っていく市電、大文字山に向かって今出川通を東進する市電、加茂大橋や丸太町橋を渡る市電、とりわけ通勤通学の乗客が多かった烏丸線の市電、四条京阪や七条京阪ではガタンガタンと京阪の線路を横切る市電、御所の各門の内側から見ていると瞬間的に通り過ぎる市電、弘法さんや天神さんの日にはたくさんの参拝客を運ぶ市電、そして四条通や河原町通では多くの買い物客を乗せている市電などなど思い出される光景は尽きません。
その間、輸送力の増強や経営の合理化のためにワンマンカーの導入(昭和36年~)、急行運転の実施(昭和37年~)、烏丸線など一部路線での連結運転の実施(昭和39年~46年)
なども行われましたが、自家用車の増加により乗客がしだいに減少するとともに、市電の走行にも支障が出てくるようになり、次第に経営も悪化し累積赤字が膨らむようになってきました。
そして姿を消した市電
その結果、伏見・稲荷線(昭和45年)、四条・千本・大宮線(昭和47年)、烏丸線(昭和49年)、今出川・白川・丸太町線(昭和51年)、河原町線・七条線(烏丸以西)(昭和52年)年と廃止が続き、昭和53年9月30日に残る外周線と七条線の烏丸以東が廃止になり、83年間走り続けてきた京都市電は多くの市民に惜しまれながら姿を消したのです。
京都市内の人口は周辺部が増えるいわゆるドーナツ化現象で、市電だけでは市内の移動がしだいに不便にはなりましたが、それでもバスよりも乗車定員は多く、安心して乗れる便利な乗り物でした。
もっとも晩年は軌道の整備が十分でなく、よく揺れる区間もありましたが・・・・。
通勤通学に使った人も多く、クリームと深緑の車体を見ると懐かしいとおっしゃる方は今もたくさんおられますので、これからも機会があれば市電に関するお話をお伝えしていきたいと考えています。
そこで、せっかくですので関連したお話を2つ連結しておきます。
電車道って?
嵐電の西大路三条~蚕の社間は天神川の鉄橋付近を除いて道路上を走っています。
あえていえばあんな感じが電車道です。
右折車が線路内に入りそうになり、電車が警笛を鳴らしながら車すれすれを通り過ぎる。
山ノ内の電停のように歩道で電車を待ち、電車が来たら安全地帯に移動、あれが電車道です。
ちなみに京津電車も地上を走っていた頃は三条京阪~蹴上間と山科の日ノ岡~御陵間で電車道を形成していましたが、今はその面影すらありません。
どうしてチンチン電車って言うの?
もう1つ、よく路面電車のことを「チンチン電車」と表することがあります。
この音から顔を赤らめる向きもありますが、「チンチン」ってどこから来た表現なのでしょう。
先に述べた京電のように最初のころの路面電車では後ろに乗っている車掌さんが運転手に「発車オーライ」の合図として車内の天井に這わされた紐を引きました。
その先に鐘がついていてそれが「チンチン」と鳴ったので「チンチン電車」なのです。
梅小路公園で動態保存されいる電車ではそれがわかります。
決して警笛代わりに「チンチン・チンチン」と鳴らしながら走っていたわけではありません。
警笛ではありませんが運転手の足元の床下に大きな鐘(フットゴング)が付いていて、その鐘をたたくペタル状のものを踏むと「カンカン」という音がして、電車の周りに注意を促していました。
もっとも今では路面電車といえども普通の電車のように「ファーン」という空気笛や電気笛が一般的です。
(2020.10)