市電乗り入れ

路面電車が鉄道路線に?

今、全国の都市では電車が他社の路線に乗り入れて行くことがよく見られますが、京都ではその走りとなる光景がありました。
京都市電が京福電鉄(現叡山電鉄)に乗り入れた時期があったのです。

叡山電鉄宝ヶ池駅の近くに子ども向けの公園である「子どもの楽園」(昭和39年開園)がありますが、実は京都市営の競輪場だった土地が転用されてできたのです。
そしてその競輪の観客輸送のために京都市電が元田中から当時の京福電鉄山端駅(現宝ヶ池)まで乗り入れていたのです。
路面電車が鉄道線に乗り入れること自体、大変珍しいことでした。
 
 
元田中で市電東山線から叡電に乗入れられるよう渡り線を設置し、図のように京都駅からの臨6系統と四条大宮からの臨1系統が競輪開催日に直通運行されていました。

架線の電圧は市電も叡電も600Vですから問題はないのですが、線路の渡り線は相当複雑なポイントになるため技術的にも費用的にも相当なものだったと思われます。
 
 
乗り入れは競輪場が開設された昭和24(1949)年12月から始まりました。
同年、市電には1000形という定員90名の大型車が導入されましたので、その車両が充当されました。ちなみに叡電の車両が市電に入ることはありませんでした。

今も宝ヶ池駅に残る市電用低床ホーム

写真は宝ヶ池を発車した1000形ですが、路面電車ですからステップが低いので山端駅の鞍馬線ホームの北側には市電専用の低いプラットホームが設けられました。実は今もそのホーム跡が残っています。

また宝ヶ池の当時の駅名は「山端(やまばな)」でした。
近年、宝ヶ池駅の柱の塗り替え時に「やまばな」の文字が出てきたので、今もその部分だけ保存?されています。

叡電の乗入れ区間の途中には修学院など3駅がありますが、プラットホームが高かったので市電の車両では客扱いが出来ず、途中駅は全て通過扱いでした。

その上、叡電の方が速度が速いので、市電が走っている時は後続の叡電が追いつきそうになったそうです。

わずか○年で、取りやめに

その乗入れは昭和30(1955)年に市電の集電方式がポールからビューゲルに変更されたこともあり取りやめになりました。

競輪自体も市の財政が少し好転したのと当時の高山市長の「京都に競輪はふさわしくない」という強い思いから昭33(1958)年には廃止されました。

ちなみにこの9年間で競輪が開催されたのは99回、総売上額77億1500万円、市の収益は4億8000万円余りだったそうです。
年10回余りの競輪開催と結果的に6年間の乗入れのためにこれだけのことをしたのです。

(2019.5)

山端駅を発車した市電1000形電車 電車の後ろに低床ホームが見える (撮影 大西 卓)

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この記事を書いたライター

 
昭和30年京都市生まれ
京都市総合教育センター研究課参与
鉄道友の会京都支部副支部長・事務局長

子どもの頃から鉄道が大好き。
もともと中学校社会科教員ということもあり鉄道を切り口にした地域史や鉄道文化を広めたいと思い、市民向けの講演などにも取り組んでいる。
 
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