第3弾は、“蹴上のつつじ”で有名な蹴上浄水場をご案内します。
つつじの花咲く5月のGWに一般公開されますので見に行ってきました。
その日は雨が降り、花も開花には少し早かったのですが、琵琶湖疏水と浄水場との関係について、いくつかの疑問を持っていきましたので、新しい発見がありました。
また、浄水場というプラントの中ではありますが、恋の香りも見つけてきました。
それでは、明治の文化都市施設『蹴上浄水場』をご覧下さい。
ご案内
日本最初の急速ろ過式浄水場となる蹴上浄水場が、1912(明治45)年に給水を開始した。
第2琵琶湖疏水が完成した年だ。
その時の給水能力は日68,100㎥だったが、その後施設の追加・増設により、現在は当初の2.9倍の給水能力である。
場内には4,800本のツツジが植わり、GWには一般開放されて“つつじの名所”となっている。
一角には「御目ざめの鐘は知恩院聖護院 いでて見たまえ紫の水」と詠った與謝野晶子の歌碑も据えられていた。
晶子が鉄幹と落ち合ってこの歌を作った旅館「辻野」はすでになく、その跡はこの浄水場の敷地になっているという。
ところで琵琶湖疏水は1890(明治23)年にできているが、蹴上浄水場はどうして22年後の第2疏水の完成を待たなければならなかったのか?
琵琶湖疏水は、1881(明治14)年に京都府知事に就任した北垣知事が、再三、国に働き掛け、4年後にようやく許可を得て着工している。
この時、疏水の効用として機械の動力・水上輸送・灌漑・精米・防火・水道などがあげられていたが、社会情勢が急激に変化する中で、動力・電力や水上輸送をめぐる議論が激しく行われ、水道事業は見送られていた。
1898(明治31)年になって市制特例が廃止され、京都市独自の市長が就任して事態が大きく変わる。
第2疏水・上水道・道路拡築からなる三大事業が提起され、大戦景気などもあり、西郷菊次郎市長のもと10年後には起工式が行われたのである。
こうして水道施設も整備されていった。
いわば明治の近代化が水を用意し、急激な都市化によって上水道が整えられていったのである。
京都の衛生行政は、下水に先行する形で上水の供給から始まったということである。
では、どうして蹴上浄水場が琵琶湖疏水の三条通を挟んだ反対側にあるのか?
疏水側には御所水道の施設や大日山貯水池を設けているのに。
明治中期の地図を見ると、第3疏水トンネル出口の北と東には南禅寺と山が迫っていて浄水場を設ける平地が少ない。
三条通は谷筋なので疏水より一段低いが、水はサイフォンの原理を使えば動力を使わずに水平移動できる。
そこで目を付けたのが道路向かいの粟田山と華頂山であったのだろう。
幸い三条通は、Google Earthで分かるように、動物園の辺りで南に折れて蹴上・日ノ岡に向かっていて、蹴上浄水場は山の東斜面にあたり、洛中の市街地からは山陰になっている。
こういったことがこの地に浄水場を設ける理由になったのではないだろうか。
ちなみに粟田山と華頂山はともに東山三十六峰の一つとされている。
第1・第2疏水合流点にある取水池から引き込まれた水は、面積約11haの広大な敷地で浄化・配水される。
この広さは梅小路公園に匹敵する。
明治末期に建設された第一高区配水池には、赤レンガで造られた機械室が建設当初の姿で残っている。
ゴシック様式のその建物は、尖塔アーチの扉をもち、壁面の中腹には石のコーニスをまわし、上下に分節する意匠となっていて貴重だ。
しかし、それ以上にこの配水池のもつ重要な価値は、明治末期に建てられた公共インフラがいまなお現役で活躍している点にあると『京都市の近代化遺産-産業遺産編-』(京都市文化市民局)は解説する。
なるほど。
参考文献
京都市上下水道局 『京都の水道 蹴上浄水場』 平成29年2月発行京都市市政史編さん委員会編 『京都市政史』第1巻、京都市、2009年
京都市情報館HP
ツイート
・下水道より先に上水道が整えられたんだ。やはり衛生は川上からなのかな。
・急速ろ過池のライトブルーが綺麗ネ。
・機械室なのに城門みたい。すてきネ。