ドイツのフランクフルトでの万国鉱泉博覧会(明治14年)に参加するため、明治政府は各府県に温泉調査を命じました。
その調査結果をまとめ、博覧会後に刊行されたのが『日本鉱泉誌』(明治19年刊、上・中・下3巻本)です。
京都府の項の1番目は前回本欄でご紹介した嵐山鉱泉ですが、2番目に記されているのが天龍寺鉱泉です。

それにしてもこの鉱泉、京都に住んでおられる方にとっても耳慣れない存在ではないでしょうか。
幸い今回は、天龍寺さんへの取材も実現しましたので、この天龍寺鉱泉についてお話ししたいと思います。

天龍寺鉱泉

天龍寺鉱泉

世界遺産天龍寺(絵葉書より)

世界遺産天龍寺(絵葉書より)

『日本鉱泉誌』によると、天龍寺鉱泉の発見は明治9年4月、嵐山鉱泉より1年半ほど早くなります。
場所は葛野郡上山田村字竜門。
同村は大堰川沿岸の山麓にあり、泉は水際の岩の間から湧き出ているとのこと。
そこは渡月橋の西二十町(約2.1㎞)にあたり、京都の中心地からは2里20町(約10㎞)となります。
泉質は炭酸泉。
無色透明で臭いも味も無いとあり、温度は華氏67度(摂氏19度)です。
天龍寺の僧が発見し、寺の境の天女祠の傍に浴室を設けて毎年2月2日から11月25日まで無料で人が来浴するのを許したと記されています。

『日本鉱泉誌』天龍寺鉱泉の項目頁

『日本鉱泉誌』天龍寺鉱泉の項目頁

このように寺院が風呂を沸かして人々に開放することを「施浴」といいます。
佛教が伝来した後、『仏説温室洗浴衆僧経』というお経が伝わりました。
そのお経に「斎戒沐浴」という教えがあります。
神仏に関係のある物事や神聖な仕事などをするときに、飲食、動作を慎み、心身のけがれを去るためにからだを洗うことです。
僧侶が心身を清めることはとても大切なことだったのです。
個人の家に風呂場がない時代のことです。
そのうち法会に集まった民衆も利用を許され、心身を清め、病気の治療にも役立ちました。
寺院は仏の功徳として無料で施しました。

温泉を発見したのは龍淵元碩和尚という僧侶だったとされています。
龍淵和尚は天保13年(1842)に京都府峰山町丹波に生まれ、5歳の時、叔父である相光寺の月潭和尚に就いて得度したという、幼いころから仏の教えに導かれた人です。
幕末の動乱期に各地で修行を重ね、29歳で天龍寺塔頭慈済院の住職となりました。

天龍寺塔頭慈済院

天龍寺塔頭慈済院

明治9年、龍淵和尚34歳の時に慈済院付近に風呂場を設け、発見した鉱泉を運んできて湯を沸かし、3年間、一般の人々に湯をふるまいました。
その風呂は弁天湯と名付けられました。
弁天という名前は慈済院の弁天堂に祀られている、天龍寺の開山夢窓国師ゆかりの水摺福寿大弁財天に由縁すると考えられています。
場所は総門から中門に続く石畳の上、放生池の北側の、現在は駐車場になっている境内地でした。

弁天湯跡 現在は駐車場

弁天湯跡 現在は駐車場

当時、弁天湯の施浴の告知が「鉱泉施浴広告」として絵入りの木版刷りで作成され、広い範囲に配られました。

版木は現在も天龍寺に保管されているそうです。
図版からは読み取りにくいかもしれませんが、この広告には施浴の由来と効能だけでなく、施浴の日程も以下のように明記されています。
成分の分析を舎密局(幕末・維新期の化学研究教育機関、大阪と京都にあった)が行っていたこともわかるなど、大変興味深い内容となっています。

施浴広告木版画

施浴広告木版画

鉱泉施浴広告

こたび西京嵐
山の奥に龍門と
いへる処より鉱泉
の湧出るは明治九
年卯月の頃嵯峨
天龍寺の僧某ある夜
夢想を感し発見する
霊水にして功験は舎密
局の御分析をうけ即ち
左に記載さるごとく人間に
於て益ある鉱泉なれは
御府庁の許可はいるも更
なりゆへに我等両三輩志
を回して天龍寺境内弁天堂
のかたへに施浴場を設け毎
年二月二日より十一月廿五日迄
一六を除く外毎日施行せんと
す凡諸業勉励の基は身体健
康より起これば病症の人は猶更たとへ無

鉱泉は『日本鉱泉誌』に記される通り、保津峡の清滝川合流点より下流2㎞左岸の水際に湧出しており、龍淵和尚はその湧き水を木桶に何度も汲んでわざわざ舟で天龍寺まで運び、温めて人々に湯を施したと伝わります。

施浴のために鉱泉を汲んだ源泉付近

施浴のために鉱泉を汲んだ源泉付近

若い頃、人から徳の薄さを指摘されたのをきっかけに、人知れず善行を積むことを心掛け、すでに修行を積み慈済院の住職という地位につきながら、風呂屋の番頭になりきったのです。
『季刊 禅画法』(第10号 1989/冬)によると、当の本人は一滴の水も無駄にせず、入浴では湯舟に浸かることは無く、桶2杯の湯しか使わなかったそうです。

明治11年頃に天龍寺での施浴が中止された後、この鉱泉は昭和時代になって、中川慎太郎氏が経営する渡月橋上流の旅館“掬月”の内湯として、鉱水を舟で運んで使用していました。
更に中川氏は昭和39年に嵯峨鳥鳥居本に旅館“小倉山荘”を建設し、その旅館まで小倉山(293m)を超えるパイプを設置したといいます。
掬月、小倉山荘もいまから35年以上前に廃業しましたが、源泉は今でも京都府が管轄する府内の源泉のひとつとして登録されています。
ただ、山陽線路直下の崖の下にあたるので、現況を探ることは難しい状況です。
小倉山荘に利用されたことに由来するのでしょうか、天龍寺鉱泉は現在では小倉山温泉として登録されているようです。

なお末筆ながら、今回の取材に快くご協力くださり、貴重な資料もご提供くださった、臨済宗天龍寺派大本山天龍寺宗務総長小川湫生さまには記して感謝申し上げます。

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この記事を書いたKLKライター

日本温泉地域学会幹事
樽井 由紀

奈良女子大学大学院博士後期課程修了。文学博士。専門は民俗学・温泉学・観光学。
日本温泉地域学会幹事。元ミス少女フレンド(講談社)。

現在、奈良女子大学・関西学院大学・佛教大学・嵯峨美術大学等で非常勤講師を務める。
佛教大学四条センターで温泉関係の講座、「温泉観光実践士養成講座」で温泉地の歴史の講師を担当しています。
どちらの講座もどなたでも出席できます。お待ちしております。 

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