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城を守り続けた三淵藤英
元亀3(1573)年、夏。
足利将軍 義昭と織田信長は協力して政権を運営してきましたが、対立しては和睦を繰り返し、ついに、最後の戦いを始めてしまいました。
場所は、上京。織田信長が、将軍義昭のために造営したはずの、二条御所でした。
しかし、二条御所(二条城とも)に立て籠もっているのは、当の義昭ではありません。
二条御所では、守りが不十分だということで、宇治の方にある、より堅固な槙島(まきしま)の城へ去っていったのです。
主君義昭は居ない、兵士も不十分。せいぜい時間稼ぎ、捨て石ともいうべき二条御所を任されたのは、義昭の家臣、三淵藤英(みつぶち ふじひで)でした。
信長の大軍に取り巻かれ、一緒に城にこもっていた公家衆は戦意を失い、城を脱出していきます。それを織田軍に咎められることはありませんでした。それでも、藤英は、何かの義理を果たそうとしたのか、城を守り続けました。
その態度は、むしろ攻め手に好感を与えたのでしょうか。織田軍の柴田勝家が、城へ入って説得。これを受けて、ようやく藤英は降伏するのです。旧暦7月12日のことでした。
二条城を片付けた織田軍は、次に義昭のいる宇治 槙島を攻め、短期間にこの戦いを終え、義昭を京から追放。室町幕府は、ここに実質的に滅亡します。
足利義昭を将軍にした兄弟
三淵藤英。
はじめて、彼の名を聞くという人が多いでしょうか。
藤英には、弟が居ました。
弟のほうは、このとき、将軍を見捨てて信長の家臣に転身していました。
彼は生涯を全うし、功績を挙げ、子孫を繁栄させ、名を残すことになります。
名前は、藤孝(ふじたか)。
細川藤孝(のちの幽斎)をご存知の方は多いでしょう。
明智光秀の盟友と言われたり、細川ガラシアの義父と言われたり、和歌の秘伝伝授者と言われたり、なにかと名前の挙がる武将です。
では、彼に兄がいた事となると、どうでしょう?
二人の姓が違うのは、弟 藤孝が別の家に養子に出されたからです。
(一説には兄・弟の順が逆というものもありますが、今回は通説に従います)
家族であっても、敵味方に別れる、というと、真田家の話が有名でしょうか。
そして、この藤英たちも、はじめは協力して足利将軍家再興という事業に取り組み、一度は成就しながら、成り行きから別々の陣営に立ち、一方は命を縮めることになるのです。
藤英・藤孝兄弟は京都で生まれました。
弟が東山で生まれたと伝わるので、兄もそうなのでしょうか。父は足利将軍家に仕える幕臣でしたが、応仁の乱や明応政変の後、将軍の地位は不安定で、細川と戦っては京都から逃げ、三好と戦ってはまた逃げ、一度は京都に戻れたものの、ついには将軍義輝が殺害され、家臣だけが逃げるということもありました(永禄の変)。
藤英・藤孝らは、将軍家を再興するため、義輝の弟で、奈良で僧侶をしていた覚慶に協力します。この覚慶が、のちの足利最後の将軍 義昭です。
一行は、三好家に怯えながらも、協力してくれる大名を探し、約3年の間、流浪しました。油が足りなくなり、神社の灯籠から拝借するほど困窮したこともあったそうです。
信長と出会い、幸せな時代
奈良・近江・若狭・越前・美濃と渡り歩き、ついに出会ったのが織田信長。
信長は、5万人とも6万人とも言われる大軍を催すと、三好家を圧倒して京都周辺を制圧し、無事に義昭を足利将軍に就任させました。
義昭・信長の連合政権の始まりです。
藤英は、義昭の家臣として、軍事にも政治にも精力的に働いたようです。
義昭を襲った三好家の残党を迎撃し(本圀寺の変)、幕府奉行衆として摂津や河内に出陣し、公家と交渉し、寺院の領域について裁定し、盗賊を取締り、訴訟に口入し…短い時期ながら、活動の跡が各文書に残されています。仕事を任されるだけの信頼を得て、それをこなせるだけの力量を発揮していたのでしょう。
藤英は伏見城(伏見区)を与えられ、藤孝は勝竜寺城(長岡京市)を与えられ、京都の周辺を固めていました。
この頃は、兄弟にとっても、幸せな時代でした。義昭と信長が仲違いさえしなければ、二人は仲を裂かれずに済んだと思われます。しかし、先述のように、義昭は信長打倒の兵を挙げ、兄は足利家に殉じ、弟は織田家に付くことを選びました。
藤英は、敵に回った藤孝を攻撃する気配を見せましたが、未然に終わります。
藤英は、二条城で降伏したあと、信長に伏見城を安堵されました。弟と共に淀城を攻めるなど、織田軍の作戦に参加しますが、そこで彼に関する記録がしばらく途絶えてしまいます。
切腹させられた藤英親子
次に彼の消息が判明するのは、翌年。天正2(1574)年5月、伏見の城が破却され、藤英と長男の身柄が、明智光秀の坂本城に預られけたこと、7月6日に、藤英親子が切腹させられたこと。この2点です。
なぜ、弟の藤孝ではなく、光秀が身元を引き受けたのか。どういう罪があって、切腹させられたのか。藤孝は何を思っていたのか。兄らを助命しようとしたのか。これについて説明する資料はありません。
ただ、藤英の次男・三男は生き残り、藤孝が引き取りました。次男の家は徳川家に、三男の家は肥後藩に仕えて、続いていきます。
藤孝は、何かと面倒見の良さがあり、これ以降も、何か面倒事を起こして、行き場を失った家族を、匿ったり世話したり、という行動をしています。今回も、甥を守ることを優先したのでしょう。
事実の隙間を埋めるのは、小説家の想像力です。
短編小説があります。この中では、藤孝は兄に対する処置を恨み続け、表面上は忠実な織田家臣として振る舞いながら、光秀の叛乱を焚き付け、信長と光秀双方を破滅させ、復讐を遂げる…という筋書きになっています。
(『幽斎の悪采』木下昌輝作 2018年 講談社 決戦本能寺 収録)
苦味ある細川藤孝と明智光秀の関係
細川藤孝と、明智光秀。二人は、息子(忠興)と、娘(お玉・ガラシア)を結婚させて縁を結び、同じ方面を分担して作戦上でも協力しており、盟友と言われる事がありますが、経緯をこまごまと見ていくと、複雑なものが感じられます。甘味でも辛味でもない、密やかな苦味。
のちに、光秀が、本能寺の変を起こし、藤孝に協力して欲しいと使者を送った時、藤孝は拒絶しますが、その時、彼の胸中はどのようなものだったのか。光秀の元で死んだ兄のことは、去来したのか、影響を与えたのか、どうか。色々な描き方のできる題材だと思います。
なお、大河ドラマ「麒麟がくる」では、三淵藤英を谷原章介さんが演じています。
三淵伏見城が発掘された?
余談です。
近年、伏見区のマンション建設予定地が、発掘調査されました。室町時代の堀跡や柵、土橋などの遺構が、見つかりました。
「京都府城館跡調査報告書 第3冊」(2014年)では、これを三淵伏見城と比定しています。
秀吉が伏見にやってくるより前の城です。
伏見の御香宮から東。JR奈良線の線路とのあいだ辺り。
地名は、京都市伏見区桃山町松平筑前(報告書では『越前』と表記しているので注意)。
城館跡を示す案内板などは見当たりませんでした。
大手筋に面した松平筑前公園を目印にしてみてください。