新しい生活様式の中で生まれた「ごみの増加」問題
新型コロナウイルスとの戦いに明け暮れたのが、2020年だった。
誰もがこの先世の中はどうなるのだろう?と、大きな不安に包まれている状況であろう。
先が見えないことほど心細いことはない。
そこには、「暮らし方」や「働き方」など、これまでの生活様式を急ピッチでバージョンアップさせる必要があった。
これはいつまで続くのか?これが当たり前になるのか?など手探り状態なのも、不安を増長させている要因なのかもしれない。
その新生活様式が急ごしらえであるが故に、地域や社会において課題を生んでいる側面もある。
特に家庭における使い捨てプラスチックごみの増加は大きな課題だ。
しかし、振り返ると京都は、これまで「祭」を通して幾度となくピンチをチャンスに変えてきたのではないか。
“祭を実施する過程”では多くの市民が力を合わせ、祭を実施する由縁であるその課題に対しアプローチしていく多角的な議論や心構え、その一歩を踏み出す協働がある。
京都はそんな「祭」と「その過程」を大切にしてきたまちだ。
平安時代から続く「誰ひとり取り残さない」京都
平安時代の京都に遡ると、天然痘や赤痢などの疫病が大流行した時期があった。
当時の京都は森と水の都。
京都の夏は今と変わらず暑く、食べ物が腐敗し、飲み水は菌に汚染されて伝染病が蔓延。
たくさんの死者が出た。
この時代、疫病は「現世に恨みを残して死んだ人々の祟り」だと考えられていた。
細菌やウイルスの存在がまだ明らかになっていなかった時代、その疫病や災いを防ぐには、怨霊を鎮めなければならないとの考えから「御霊会」という神事が863年に執り行われた。
ところが翌864年には富士山が噴火、さらに869年には東北で大地震。
現代で起きても大変な災いで、とても大きな混乱が予想出来るが、それが平安時代となると人々はどんなに動揺したことだろうか。
そこで朝廷は再び869年に御霊会を執り行った。
当時の国の数である66本の矛に諸国の悪霊を乗り移らせて、それらの悪霊を祓ったのである。
この御霊会が京都を代表する祭である「祇園祭」の起源である。
御霊会は京都の疫病などの災いだけでなく、全国いや世界の状況に思いを馳せ、平和や安寧を祈り、災害への鎮魂や自然への畏敬の念を携えて続けられて執り行われたことに、現代にも通じる一つの大切な意義があるのではないか。
こう考えるとSDGsへの取り組みは、すでに京都はまちぐるみで意識なく行ってきていると言えそうだ。
祇園祭をはじめとしたさまざまな取り組みは、「誰ひとり取り残さない」持続可能な京都を築く基礎になっているといっても過言ではない。
記憶に残る2020年の祇園祭
2020年は、869年の御霊会から数え1151年目であった。
1150年を記念した行事がいろいろと執り行われたその翌年でもある。
新型コロナウイルスの蔓延により山鉾巡行を中止とする決断など、規模を縮小し神事を執り行わざるを得ない状況になったことに対し、関係者のみなさんのご苦労や配慮が多く感じられた。
また、疫病退散を含めた災いへの祈りを絶やさず、また未来に向けて新たな一歩を踏み出す、記憶に残る祇園祭を滞りなく執り行われたことに対し、一市民として考え深いものがある。
本来ならば祇園囃子が響き、山鉾の駒形提灯にあかりが灯り、京都の夜が華やかに賑やかに活気付く宵山には、国内外からたくさんの観光客が入洛していたはずだ。
まちなかは昼間から交通規制が敷かれ、18時になると四条通や烏丸通なども歩行者天国に。
数百を超える露店や私有地での仮設屋台がずらっと立ち並んでいる光景は、宵山の醍醐味のひとつとなってきた。
狭いまちなかに国内外から毎年この宵山を目当てに数十万人が押し寄せるのだから圧巻だ。
しかし、昨年はその光景を目にすることが出来なかった。
宵山に散乱するごみを減らすために
例年の宵山で課題となるのが来場者数に比例して増え続ける廃棄物。
足の踏み場に困る程の散乱ごみや、山鉾と同じくらいうず高く積まれるごみ袋は、長い間“宵山の当たり前の風景”となってきていた。
平安時代の人々がこの光景を見たらどう思うだろうか。
この状況になったのは、祇園祭を一つの商業・観光コンテンツとして活用し出した数十年前に遡る。
約1150年続く祭のほんの少しの期間で消費が目立つように変わってしまった。
神事の形は変わりないが、それを取り巻く環境が変わったのである。
散乱ごみは、ごみを出していない町内のみなさんが夜を徹して清掃してきたことをほとんどの方は知らない。
その宵山のごみの組成を調査すると、容積の7割〜8割は使い捨ての包装容器。
現在は特に使い捨てプラスチックが多くを占めている。
大学から京都に来た私は、この宵山もひとつの楽しみとして鉾町を訪れた際、「どうしてこういう状態になってしまうんだろう?」と課題の大きさに圧倒された記憶が今も蘇る。
宵山をはじめとした体験から、私自身は大量生産・大量消費・大量廃棄の経済システムをシフトさせる仕組みづくりを市民の立場から行う必要性を強く感じ、中でもリデュース(発生抑制)/リユース(再使用)の2Rに特化した仕組みづくりをスタートさせるに至った。
排出されたごみを何とかすることも大切だが、そもそもごみを出さない仕組みづくりへの挑戦のきっかけである。
祇園祭は日本三大祭のひとつに数えられ、祇園祭での取り組みは社会を変える大きなインパクトを持つ。
廃棄物の問題は祇園祭だけでなく、全国の祭が抱える課題である。
この2Rの視点を活かした環境対策を実施し、成果を残すことは、非日常である祭を持続可能なものにすると同時に、「日常生活でもごみ減量を意識する啓発の機会になるのでは?」と考えた。
この取り組みを「祇園祭ごみゼロ大作戦」と名付け、2014年より継続して実施している。
具体的には、露店商の協力のもと、食品の一部(たこ焼きや焼きそば、お好み焼きなど)に全国で例の無い規模である約20万食分の繰り返し洗って使用出来る「リユース食器」を導入。
また、当日ボランティアスタッフとして募集し全国から集まったのべ2200名のみなさんと共に、計画的に配置した約50ヶ所のエコステーションの設置を通して、来場者への資源分別とリユース食器の返却を促す呼びかけなどを展開。
本取り組みを通してこれまで宵山で排出されていた約60トンの燃やすごみを初年度は約34トンにまで減量させることが出来たのである。
その後現在に至るまで、ごみの大幅な減量のみならず、これまで課題となっていた散乱ごみの解決にも至ったことは、大きな成果である。
現在、この取り組みは、大阪の天神祭をはじめとしたさまざまな祭に広がっている。
外出自粛により増えたプラごみ
しかし、日常生活に目を向けると、市民が主体的に家庭からのごみ減量に意識を持ち、成果が徐々に出てきた矢先、新型コロナウイルスによる外出自粛。
飲食店からのテイクアウトやデリバリーが一気に増えたことから、それに比例し弁当容器やカップなど、家庭から出るプラスチックごみが大幅に増えてしまった。
「新しい生活様式」が推奨されるなか、新たな課題として浮かび上がってきたのである。
日常が変わると非日常も変わる。
祇園祭を使い捨てプラスチックごみだらけの祭に戻したくない。
昨年の7月からはプラスチック製レジ袋の有料化が小売店に義務付けられたが、大きなトラブルなく、今やマイバックを持ち歩くことが当たり前になっている。
しかし、私たちの身の回りにある使い捨てプラスチックはレジ袋以外にもたくさんある。
日本人1人当たりの使い捨てプラスチックごみ排出量は、米国に次いで世界で2番目に多いのが現状だ。
再びプラスチックにする再生利用率は低く、多くが焼却されて、地球温暖化の原因となる二酸化炭素の排出につながっている。
また、最近は世界的にプラスチックごみによる海洋汚染が問題になっている。
一人ひとり、身近なプラごみから削減しよう!
私たちひとりひとりは、この使い捨てプラスチック問題について何が出来るのか少しの時間で構わないので考えて欲しい。
私たちの生活は消費なしには成り立たない。
その消費生活はそれぞれの「ものさし」で“商品”や“サービス”を選択している。
その「ものさし」を、この「新生活様式」でバージョンアップさせる時期にきているのではないだろうか。
私たちが欲しているのは使い捨てプラスチック容器でなく、その中身の「食べ物」や「飲料」だ。
私たちは「ごみまで買っている」ことを忘れてはならない。
その視点をみなさんの「ものさし」に取り込むことが「新生活様式」であって欲しい。
私たちは、神仏とのかかわりの中で培われた、自然やいのち、食に関わる人への感謝を「いただきます」「ごちそうさま」という言葉で表し、生活の中から生まれたモノを、無駄なく大切に使う心「始末」「もったいない」という精神を持ち続けている。
また、洗練された文化との触れ合いを通じて、町衆の暮らしの中で育まれた本物・本質へのこだわりを大切にしてきた。
四季折々の美しい自然の中で培われた季節感を取り入れ、茶の湯や生け花といった生活文化によって育まれた「おもいやり」「おもてなし」の心は、私たちひとりひとりに受け継がれているはずだ。
この、先の見えない今だからこそ、私たちが引き継いできた心を活かし、さまざまな課題解決に向けた「祭」をしようではないか。
ピンチはチャンス!まずは、身近な使い捨てプラスチックを「私」から削減してみよう。
それを連鎖させ「私たち」につなげていこう。
京都での取り組みが日本を変えていく。
それだけ注目をいただける歴史と文化に育まれた京都だからこそ、一人ひとりが課題から目を背けるのでなく、どうしたら解決出来るのかを考えると同時に、行動を起こすことが、今、求められているのである。