栄西禅師が持ち帰った茶の種

栄西禅師もここで修業し、茶の種を持ち帰った。
天目茶碗もその荷の一つだった。
北宋と南宋は社会、経済、文化の継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しいが、趙匡胤が建国した北宋は、唐末以来の乱世を治め、太平の世を築いたのは軍人であるが、軍事の上に官僚が立つ文治主義を確立し、荒廃した社会を救うだけでなく、多くの学校を建て、農業、道徳、学問・芸術を尊重し、刑罰の軽減を行っていった。
軍事力は低下したが、懸賞をかけて全国各地から八万巻の書籍を集め、文化の向上で哲学、政治思想が盛んで、科学の分野では、世界で始めて火薬を発明したのもこの時代である。

他にも、当時はアラビア人の天文学によって、星をたよりに航海していたが、羅針盤が発明され、対外貿易を円滑にすることに役立った。
印刷の技術も本格的に普及し広く利用され、製紙、印刷技術の向上と市民経済の勃興により、それまで官僚・貴族に独占されていた、文学、思想などが市民の間にも広まり、中国美術史上、最も芸術性が隆盛したのは、唐の貞観(じょうがん)、宋代の宣和、明代の永楽、そして清代の乾隆時代といわれ、それぞれ国力の充実した背景にも助けられながら、美術を奨励する皇帝の存在があった。

 

美術を奨励する皇帝

北宋の第8代皇帝徽宗は、「茶の高く静かな韻致は、騒乱の時世には高尚され得べくもない。」と語り、皇帝が人々の心が安定し、喫茶が受け入れられる社会作りを目指し、実践し、茶を嗜みながら詩を吟じ、書画を描き、仏法について語る会が貴族から役人、文人などの裕福な民から順に広まり、ときには「闘茶」と呼ばれる茶の産地を判定する事を競う賭け事が流行し、茶器の目利きが行われ、名品と定められたものが賞品となった。

「大観茶論」は8代皇帝 徽宗が若くして著し、盞(さん)の項では兎亳盞(禾目天目茶碗)がもっとも茶の白さが美しく見えるとしている。
金(北宋)の世宗、(南宋)の孝宗は、共にその王朝の中で最高の名君とされる人物であり、偶然にも同時に2人の名君が南北に立ったことで平和が訪れた。
孝宗は無駄な官吏の削減、当時、乱発気味であった会子(紙幣)の引き締め、農村の体力回復、江南経済の活性化など様々な改革に取り組み、南宋は繁栄を謳歌し、建窯が禾目天目茶碗(のぎめてんもくちゃわん)を生産した。


 

ウサギの髯に似ている?兎亳盞という文様

文様をウサギの髯に見立て、「兎亳盞(とごうさん)」と呼ばれ、ウサギの髯は体毛よりも太くて硬く、根元には沢山の神経が通っており、周囲にある物の位置と距離を測る触覚器官である。
これを、社会を達観して見渡す事になぞられた。
日本では黒釉陶をその斑紋が稲穂の禾に見えることから「禾目天目(のぎめてんもく)」と呼び、禾目の斑紋は建窯にのみ見られる特徴で、他の窯で作られた天目茶碗には見られず、全体的には茶褐色であるが、流れ斑のとぎれる見込み中央と、釉の溜まった腰部には黒釉が艶を持って残っている。
丸みのある胴を持った碗の特徴は、太い畳付け、高台脇の平らなヘラ目を見ることができる。
北宋では、闘茶が流行し建窯で作られた黒釉陶は「兎亳盞(とごうさん)」と呼ばれ、高い評価を受けていた。

お茶を飲む風習は、宋代(960年 - 1279年)に盛んになり、茶器は主要な道具の一つとして確立された。
黒釉茶器の流行は、「闘茶」によるもので、闘茶は、茶を飲み比べてよしあしを判定することである。
この時代は白色の茶が最高とされ、黒の茶器を用いればその対照が鮮やかで、闘茶にとって冷めにくい器が求められ、生地の厚い茶器が使用された。
他にも中国の戦国武将が戦地に赴く際、硬く割れにくく、強く美しい茶碗「兎亳盞(とごうさん)」を肌身離さず持ち歩き、喫茶、飲酒、食事と戦闘の装備として、用いられた。

強さと美しさを兼ね備えた茶碗は中国で一世を風靡し、この建盞 兎亳盞(とごうさん)を日本の禅僧達が中国 天目山 「五山十刹」の筆頭禅寺 徑山万寿禅寺(きざんまんじゅぜんじ)から持ち帰ったのである。
日本 臨済宗の開祖、建仁寺 開山の栄西や、永平、道元、円爾弁円、無学祖元をはじめ、日本からの入宋僧の大半はこの径山万寿寺を訪れている。
天目山はよく霧が出るところから雲霧茶と呼ばれ、日本茶道の源として伝わったのである。

珠光は、知れば知るほど奥深く、偶然にも得られた書物にのめり込んでいった。
「茶経」や「喫茶養生記」に記されていることを試してみたい。
そう思うようになった。

Twitter Facebook

この記事を書いたKLKライター

禅者 茶人 建築家
松尾 大地

 
昭和44年(1969年) 京都 三条油小路宗林町に生まれる。
伏見桃山在住
松尾株式会社 代表取締役
松尾大地建築事務所 主催 建築家

東洋思想と禅、茶道を学ぶ。

記事一覧
  

関連するキーワード

松尾 大地

 
昭和44年(1969年) 京都 三条油小路宗林町に生まれる。
伏見桃山在住
松尾株式会社 代表取締役
松尾大地建築事務所 主催 建築家

東洋思想と禅、茶道を学ぶ。

|禅者 茶人 建築家|茶道/茶の湯/侘び寂び/織田信長/村田珠光

アクセスランキング

人気のある記事ランキング