▶︎前編「珠光 茶の湯 出逢い。」茶道とは。何モノか。 その6
栄西禅師が持ち帰った茶の種
栄西禅師もここで修業し、茶の種を持ち帰った。
天目茶碗もその荷の一つだった。
北宋と南宋は社会、経済、文化の継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しいが、趙匡胤が建国した北宋は、唐末以来の乱世を治め、太平の世を築いたのは軍人であるが、軍事の上に官僚が立つ文治主義を確立し、荒廃した社会を救うだけでなく、多くの学校を建て、農業、道徳、学問・芸術を尊重し、刑罰の軽減を行っていった。
軍事力は低下したが、懸賞をかけて全国各地から八万巻の書籍を集め、文化の向上で哲学、政治思想が盛んで、科学の分野では、世界で始めて火薬を発明したのもこの時代である。
他にも、当時はアラビア人の天文学によって、星をたよりに航海していたが、羅針盤が発明され、対外貿易を円滑にすることに役立った。
印刷の技術も本格的に普及し広く利用され、製紙、印刷技術の向上と市民経済の勃興により、それまで官僚・貴族に独占されていた、文学、思想などが市民の間にも広まり、中国美術史上、最も芸術性が隆盛したのは、唐の貞観(じょうがん)、宋代の宣和、明代の永楽、そして清代の乾隆時代といわれ、それぞれ国力の充実した背景にも助けられながら、美術を奨励する皇帝の存在があった。
美術を奨励する皇帝
北宋の第8代皇帝徽宗は、「茶の高く静かな韻致は、騒乱の時世には高尚され得べくもない。」と語り、皇帝が人々の心が安定し、喫茶が受け入れられる社会作りを目指し、実践し、茶を嗜みながら詩を吟じ、書画を描き、仏法について語る会が貴族から役人、文人などの裕福な民から順に広まり、ときには「闘茶」と呼ばれる茶の産地を判定する事を競う賭け事が流行し、茶器の目利きが行われ、名品と定められたものが賞品となった。
「大観茶論」は8代皇帝 徽宗が若くして著し、盞(さん)の項では兎亳盞(禾目天目茶碗)がもっとも茶の白さが美しく見えるとしている。
金(北宋)の世宗、(南宋)の孝宗は、共にその王朝の中で最高の名君とされる人物であり、偶然にも同時に2人の名君が南北に立ったことで平和が訪れた。
孝宗は無駄な官吏の削減、当時、乱発気味であった会子(紙幣)の引き締め、農村の体力回復、江南経済の活性化など様々な改革に取り組み、南宋は繁栄を謳歌し、建窯が禾目天目茶碗(のぎめてんもくちゃわん)を生産した。
ウサギの髯に似ている?兎亳盞という文様
文様をウサギの髯に見立て、「兎亳盞(とごうさん)」と呼ばれ、ウサギの髯は体毛よりも太くて硬く、根元には沢山の神経が通っており、周囲にある物の位置と距離を測る触覚器官である。
これを、社会を達観して見渡す事になぞられた。
日本では黒釉陶をその斑紋が稲穂の禾に見えることから「禾目天目(のぎめてんもく)」と呼び、禾目の斑紋は建窯にのみ見られる特徴で、他の窯で作られた天目茶碗には見られず、全体的には茶褐色であるが、流れ斑のとぎれる見込み中央と、釉の溜まった腰部には黒釉が艶を持って残っている。
丸みのある胴を持った碗の特徴は、太い畳付け、高台脇の平らなヘラ目を見ることができる。
北宋では、闘茶が流行し建窯で作られた黒釉陶は「兎亳盞(とごうさん)」と呼ばれ、高い評価を受けていた。
お茶を飲む風習は、宋代(960年 – 1279年)に盛んになり、茶器は主要な道具の一つとして確立された。
黒釉茶器の流行は、「闘茶」によるもので、闘茶は、茶を飲み比べてよしあしを判定することである。
この時代は白色の茶が最高とされ、黒の茶器を用いればその対照が鮮やかで、闘茶にとって冷めにくい器が求められ、生地の厚い茶器が使用された。
他にも中国の戦国武将が戦地に赴く際、硬く割れにくく、強く美しい茶碗「兎亳盞(とごうさん)」を肌身離さず持ち歩き、喫茶、飲酒、食事と戦闘の装備として、用いられた。
強さと美しさを兼ね備えた茶碗は中国で一世を風靡し、この建盞 兎亳盞(とごうさん)を日本の禅僧達が中国 天目山 「五山十刹」の筆頭禅寺 徑山万寿禅寺(きざんまんじゅぜんじ)から持ち帰ったのである。
日本 臨済宗の開祖、建仁寺 開山の栄西や、永平、道元、円爾弁円、無学祖元をはじめ、日本からの入宋僧の大半はこの径山万寿寺を訪れている。
天目山はよく霧が出るところから雲霧茶と呼ばれ、日本茶道の源として伝わったのである。
珠光は、知れば知るほど奥深く、偶然にも得られた書物にのめり込んでいった。
「茶経」や「喫茶養生記」に記されていることを試してみたい。
そう思うようになった。