鞍馬と岩倉の火まつり〜京の民俗歳時記:第1話〜
京都において晩夏から初冬の時期に行われるまつりには、火をめぐる信仰が見え隠れしている。
火は貴重な恵みを私たちに与えてくれる、くらしに必要不可欠な存在ではあるが、一方ですべてのものを焼き滅ぼしてしまう、恐ろしい力を持った魔物でもある。
火は恩恵と脅威という、相反する特性を併せ持った存在として、これまでの歴史の中で、人間の前にたびたび難題を突きつけてきた。
特に前近代における“大火”と称せられた大規模な火災では、人間が火の脅威を目の当たりにし、尊い命や文化が無残に失われた。
たとえば近世の京都では、宝永・享保・天明という3度の大火事が発生しており、中でも天明8(1788)年におきた大火では、京都の市中のほとんどの家屋が焼き尽くされたと伝えられている。
京都では、特に10月に入ると急に火まつりの頻度が増す。
中でも一番著名なのは、鞍馬の里で行われる「鞍馬火まつり」ではないだろうか。
またあまり知られてはいないが、岩倉の氏神である石座神社の火まつりも注目に値する。
鞍馬火まつりってどんな祭?
「京の三奇祭」のひとつで、また「日本三大火祭」のひとつにも数えられている、鞍馬火まつりは、毎年10月22日に行われる由岐神社の例大祭で、かつては「鞍馬祭」ともよばれていた。
このまつりは、多くの松明と2基の神輿、8本の剣鉾が出るまつりで、今日では松明だけが有名になったが、かつては神輿と剣鉾がこのまつりの主役であり、松明の存在はさほど重要ではなかったものと思われる。
鞍馬祭は、江戸時代には旧暦9月8日・9日の重陽に、2日間にわたって行われていた。
松明の起源に関しては、平安時代の天慶3年(940)9月9日夜に、それまで御所に祀られていた由岐大明神が鞍馬に勧請された時に、村人たちが地主神である八所明神を神輿に乗せ、無数の松明を持って出迎えたという故事に由来するといわれているが、これは伝承に過ぎず史実とは考えにくい。
松明が強調されてくるのはずっと時代が下がって、近世以降のことである。
今日でも2基の神輿が出されるのは、鞍馬の地主神である八所明神と由岐大明神の二神を祀るゆえである。
18世紀の江戸時代中期頃には、すでに今日の火まつりに繋がる性格のまつりが行われていたと考えられるが、詳細は定かではない。
まつり当日、夕刻が近づくと、手松明を持ち「神事に参らしゃれい」の掛け声とともに村中を練り歩く「神事触れ」を合図として、家々では松明の支度をはじめ、やがて幼児用のトックリ松明を持つ子どもたちに続いて、小学生から中学生の子どもたちが持つ松明へと、登場する松明も徐々に大きくなってゆく。
夜になると「サイレイヤ、サイリョウ」の掛け声を響かせながら青年たちによって大松明が点火され、各仲間が剣鉾と松明を持って山門下に結集し始める。
そうなるとまつりは一気に盛り上がり、狭い鞍馬の里全体が無数の松明の炎と煙に包まれ、異様な雰囲気を呈するようになる。
9時を廻った頃に太夫仲間が注連縄を切り、大勢の若者たちが掛け声とともに神輿前に集まり、いよいよ神輿の渡御が始まる。
神輿が急な石段を下る際には、鞍馬特有の「チョッペンの儀」が行われる。
それは2人の若者が神輿の担ぎ棒にぶら下がり、周囲の者が足を持って大の字状に大きく広げながら神輿を下ろすという、たいへん危険な儀礼で、かつての成人儀礼の名残であるといわれている。
これが終わると神輿は御旅所まで渡御し、そこに安置されてようやくまつりは一段落する。
そもそも鞍馬の火まつりにおける火は、如何なる意味を持つものなのだろうか。
それは、松明の起源を語る伝承からもわかるように、神を迎えるための火であるとともに、その道を清め、かつ明るく照らす役割を有するものだったのではないかと考えられる、
今日でも各仲間が諸礼と称して、お互いに松明を持って挨拶を交わすことや、松明が先に出てその後ろから剣鉾が、そして神輿が渡御することから考えても、やはり松明は道清めの意味を有しているのではないかと考えられよう。
石座神社の勇壮な火まつり
また、10月23日に最も近い土曜日の未明、 左京区岩倉の氏神である石座神社でも、勇壮な火まつりが行われる。
この火まつりの起源については、昔、雄雌の大蛇が村人を苦しめており、困った村人たちが石座明神に祈願したところ、「神火をもって退治せよ」とのお告げがあった。
そこで大松明を燃やしたところ、見事に大蛇を退治することができたとする故事に因む。
歴史的には、元禄期には今日とほぼ同様の松明があったと伝えられていることから、近世初期には行われていたことが推察できる。
このような石座神社の火まつりを見る限り、この火の意味は、大松明の起源譚にある通り、ひとつには自然災害のような災厄を祓う火、すなわちケガレを祓うための火であったものと考えられる。
また深夜に大松明を燃やすことから、神を神輿に迎えて御旅所へ渡御するための、いわゆる神迎えの火でもあったものとも思われる。
これらの事例を見る限り、秋から冬の季節には、火はなくてはならない重要な意味を有していたのではないかと思われる。
その背景には、火伏せの祈りとともに、冬至をめぐる信仰があったのではないかと考えられる。
この点に関しては、第2話で詳しく取り上げてみたいと思う。
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1955年(昭和30)年 祇園祭鉾町の家系に生まれる。
京都生まれの京都育ち 生粋の京都人
同志社大学文学部卒業 佛教大学大学院博士後期課程修了 文学博士
専門は民俗学
世界鬼学会会長、日本民俗学会監事、京都民俗学会会長代行・京都府および京都市文化財保護審議委員 ほか 多数歴任
毎年、祇園祭山鉾巡行および五山送り火には実況解説役としてテレビ出演している。
『婚姻と家族の民俗的構造』(吉川弘文館)、『男と女の民俗誌』(吉川弘文館)、『京のまつりと祈り-みやこの四季をめぐる民俗』(昭和堂)、『日本の民俗信仰を知るための30章』(淡交社)など、著書多数
|佛教大学歴史学部教授・公益財団法人綾傘鉾保存会理事|祇園祭/五山送り火/火祭/御火焚/大根焚
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