かつて京都で走っていた市電の車両が広島の街で走っているというのはご存知の方もおいででしょう。
お年を召した方は「広島で走っているのを見た。懐かしかった」とおっしゃるし、修学旅行で広島を訪れた小学生は「広島で、昔、京都で走っていた電車を見た」と言ってくれます。
もっとも引率の先生も京都市電の現役時の姿をご存知ない方ばかりですが・・・
そこで今回はかつて京都の街を走っていて、「他所にお嫁に行った電車」のお話です。
①明治村に行ったチンチン電車 そして海外にも
昭和36(1961)年7月に、京都駅から西洞院通~堀川通を通って北野神社まで走っていた北野線が廃止されました。車輪が4つ(2軸)の小さな電車でした。北野線についてはいずれあらためてお話をしたいと思いますが、同線で最後まで活躍した電車のうち2両(8号車と15号車)が愛知県の明治村に売却されました。明治村は名鉄電車の系列ですから電車の整備はお手の物、運転台前のガラス窓を撤去するなど北野線開業時の姿に復元され、集電のためのポール(棒の先に架線から電気を取る滑車が付いている)を屋根の上に1本取り付けて、昭和42(1967)年から今日まで園内を元気に走っています。ちなみにポールは1本ですので、終点に着いたらロープを操って180度向きを変えなければなりませんが、これもまた小さな電車の原風景です。
北野線で昭和36年の最後まで走っていた電車は明治43~44年に製造されています。つまり京都で52~53年、明治村に行ってから約60年間、整備を繰り返しながらも走り続けているのです。すごいですよね。50歳を超えてからお嫁に行って、さらに60年です。
また北野線で最後まで走った28両のチンチン電車は上記以外に静態保存車として各地に譲渡されていきましたが、19号車は何とアメリカロサンゼルス郊外のオレンジエンパイア鉄道博物館に運ばれ、明治村同様、動く状態で保存されています。
なお戦前も、最初に開業した京都電気鉄道(京電)から京都市に引き継がれたこの種の小さな電車がたくさん余りましたので、名古屋市電など全国各地に売られました。中には現在の北朝鮮のピョンヤンに渡った電車もあったようです。
②南海電鉄に行った1800形
大阪の天王寺と通天閣に近い恵美須町から堺市の浜寺公園まで阪堺電車が走っています。この電車は昭和55(1980)年に分離独立するまで南海電鉄の1路線でした。京都で市電が全廃された昭和53年の秋に1800形が6両売却されて大阪に運ばれ、251形と形式を変えて翌54年10月から走り始めました。したがって約1年間だけ南海電車として京都市電が走ったことになります。その間に外観ではヘッドライト回りが改造されたほか、集電装置がパンタグラフに乗せ換えられました。塗装も深緑一色がベースになり、広告電車に変身した車両もありました。
しかし、電車の出力が他車よりもやや弱いことあって加速が悪く、(まさか、いらちの大阪人に嫌われたのではないと思いますが)1両、また1両と次第に戦列から外れていきました。平成6年には京都の「平安建都1200年」を記念して、その段階で残っていた2両が京都市電時代の塗装に塗りなおされて走りました。なんとそれは大阪の高校生の企画でした。住吉大社の中から鳥居ごしに走る256号車(元京都市電1870)の姿は、かつて北野神社の中から見た今出川線の市電を思い出させてくれる光景でした。
一方、阪堺で廃車になった元京都市電のうち255号車(元京都市電1869)は平成4(1992)年にアメリカのアリゾナ州の博物館に移籍されました。また廃車後部品だけがやはりアメリカの電車の博物館に渡ったものもあります。南海~阪堺時代は最長で11年間だったこれらの車両の中には海のむこうで第3の人生を送っているものもいるのです。
③広島電鉄に行った1900形
京都市電の1900形は昭和30~32年に製造された900形を昭和45・46年にワンマンカ―に改造した車両です。定員が100名と大きく使い勝手のいい電車でした。京都では15両が晩年まで活躍しましたが、市電全廃の前年に2両、昭和53(1978)年の全廃直後に13両と、15両全てが広島電鉄に売却されました。当時、広島電鉄は経営難から取得費用の安い中古電車を買い集めていましたが、この1900形は車体の大きさなど好都合だったようです。
大阪市電や神戸市電など全国の電車を集めていた広島電鉄は元の鉄道事業者の塗装をあえて塗ることで「動く電車の博物館」の評判を得る戦略をとりました。したがって、京都市電も細部は異なるものの最初から「京都市電の色」で走りましたので、京都の人が広島を訪れても「なつかしい」となったわけです。そして、電車1両1両に公募で京都にちなむ愛称が付けられました。京都時代とは違う車両番号が新たに付けられ1901~1915に整理されましたが、愛称は番号順に「東山」「桃山」「舞妓」「かも川」「比叡」「西陣」「銀閣」「嵐山」「清水」「金閣」「祇園」「大文字」「嵯峨野」「平安」「鞍馬」です。前面や車内にそれを掲げて走っています。
大きな改造は正面オデコの行き先幕を大形にしたり、集電装置をZパンタと呼ばれる広島電鉄のタイプに交換したりしました。また移籍直後の昭和55~57年には車体を補強して屋根にクーラー機器を載せて冷房化も実現されました。(残念ながら、京都市電は最後まで冷房車はありませんでした)
そして15両全車が今も活躍しているというのも奇跡で、嬉しい限りです。もっとも同電鉄は低床の新型車両の導入を進めており、床が高く「よっこらしょ」と乗らなければならない1900形はメインの路線で運用されることが減ってきて、今では広島駅前に顔を出すことはほとんどないようですので、広島を訪れても簡単に見かけることはないかもしれません。22~23歳で広島に嫁ぎ、それからすでに40年余りが。まるで人(ヒト)の人生のようですが、今しばらくは頑張ってほしいものです。
④伊予鉄道に行った2000形
京都市電最後の新車として昭39・40年にデビューしたのが2000形です。この電車は市電でありながら連結運転も出来る優れもので、市電全廃の1年前、昭和52年、河原町線が廃止になったときにこの2000形も廃車なりました。したがって京都では12~13年しか走ってないのです。1両(2001号車)は保存車として残され、今でも梅小路公園の七条口に近いところで見ることができますが、残る5両が愛媛県松山市の伊予鉄道に売却されました。JRの松山駅前から道後温泉まで走っている路面電車です。
先述の①~③は移転先もゲージ(線路の幅)が一緒だったのですが、伊予鉄道はゲージが1067mm(狭軌)です。京都市電は1435mm(標準軌)なのでそのまま線路に乗せることはできません。そこで車輪の幅を縮めるという大改造を施します。鉄道マニアでも見過ごしがちですが、ここまでやっても伊予鉄道が2000形を求めたのは何といっても車齢が新しかったからです。
やはり正面の行先案内幕やヘッドライト回りが伊予鉄仕様に改造されました。後にクーラーも載せられ、今でも頑張って走っています。ちなみに移籍された時はクリームと朱色の伊予鉄色でしたが、今ではミカンをイメージした明るいオレンジ色一色に塗られています。
伊予鉄に移って既に45年が経ちましたが、まだまだ元気。こちらも嬉しい限りです。
このように昔の路面電車は構造も簡単で、運転制御に関わる電子機器などはありませんから大切に使えば50年でも60年でも走ってくれます。壊れたら電子基板を交換、メンテナンスに手がかかるようになってきたらハイ廃車という今の時代、何か考えさせられる京都を離れた電車たちです。
(2021年5月)
RMライブラリー33 N電 ネコパブリッシング
レイル116 エリエイ プレスアイゼンバーン
阪堺百年 阪堺電気軌道株式会社
さよなら京都市電 京都市交通局