子育ては難しいものである。昔と違って、駄々をこねる子どもをたたけば虐待になる。かといって子ども相手に言葉で伝えるのも骨が折れ、ほんとうにどうしたらと悩む親は多いだろう。自分の子どもの頃とは、社会状況は大きく変わったものだ。

ちょっと昔ならこんな具合に子どもに言っていた。
「見とーみ、前のおばちゃん、笑うたはるえ」
「隣のおっちゃん、怒ったはるえ」

身内ではない第三者を通して、子どもの行為を戒めているのである。そうなると、他人の目を気にするということが子どもにも自然に入り込み、他人を意識するという視点が備わってくるのである。

電車などでは、子どもは車窓に向って目をやって座るというか、膝を背もたれにつかせながら風景を見ていることがある。当然靴は隣の人の服を、座席を汚さぬようにと親は靴を脱がせる。そんな時でも、「隣の人のべべ汚したらあかんやろ」、「他の人も座らはるやろ」と言いながらである。人の存在を意識させ、しかも子どもには子どもなりの気遣いをしつけるのである。その時、子どもの足下には、玄関にでも置くように、脱いだ向きをそのままでなく、向きを変えて置く。靴の脱ぎ方、揃え方までとやかく言わずとも身に付けさせるのである。

「折れ反れもできませんで」

また、ちょっと大きくなってくると、きっちりと挨拶をさせなければならず、小学生の1・2年くらいなら、親が頭をコックリさせるような場面もあったが、大きくなれば、そんなこともできず、「折れ反れもできませんで」と言って、相手に詫びるのである。

「折れ反れ」とは、前に頭を下げることを折るといい、その下げた頭をもとに戻すことを反るというのである。ゆえに、「折れ反れもできませんで」とは、挨拶もできませんでという意味合いとなる。
直接に挨拶もできないと言ってしまえば、自分の子育ての失敗を意味するとともに、子どもに恥をかかせることにもなる。ただ単なる「折れる、反れる」という行為自体を問題にすることで、挨拶を行為に変えてしまうのである。大人や青年になって挨拶もできないとは言えないし、それでいて親が詫びるのも変であるし、誰のせいでもない、こういった言い方をするのである。

そして、訪問を終えると最後は見送りである。来客が角を曲がるなりして、見えなくなるところまで見送る。そして、来客は、曲がる角で後ろを振り返り、見送る家人に軽く会釈を、また送り手も軽く会釈をすることで、一連の見送りが終わる。


「お静かに」

その時、私が好きな挨拶ことばがある。それは静原の方で聞いたもので、さようならという意味の別れのことばだ。ちょうど帰り際に「お静かに」と声を掛けられた。静かとは何も起こらないことから、帰る道中が無事でありますように、波風が立たず平穏無事でありますようにと願う、祈る言葉なのだ。だから何も特別に来客だけに対して言うのではなく、家人に対しても、出かける際に、いってらっしゃいとは言わずに、この「お静かに」と声を掛け、無事の帰宅を願うのである。

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この記事を書いたKLKライター

京ことば研究家
西村 弘滋

 
京ことば研究家
故井之口有一・堀井令以知両氏の「京ことば研究会」で、京ことばとことばの採集方法を学ぶ。京ことばの持つ微妙なニュアンスの面白さを追い続けている。

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