千利休が敬愛した珠光
村田茂吉(珠光)は11歳の時、奈良の浄土宗 日輪山 称名寺に入り出家した。
本来、僧侶は出家すると、俗名の村田を捨て法名を名乗るので、正しくは法名のみの「珠光」である。
千利休が生まれたのは、大永2年(1522年)で、珠光の没後20年後だが、利休が珠光を敬愛した痕跡は多数残されており、最初の師である北向道陳、武野紹鴎を凌ぐ程と思われる。
千利休が説いた「和敬清寂」は、茶道の祖 珠光の創唱で、「和」は根源的な平等一如の世界、「敬」は互の存在や尊厳を認める差別の世界、この二つが互に共鳴し、「清」は一点の塵や穢れもなく、「寂」は煩悩を空じ尽くした閑寂な境地である。
和やかな中にも、秩序はある。
お互いを敬い合わなければ、社会は成り立たない。
更に遡れば聖徳太子が起草した十七条憲法「和をもって尊しとなす。」に辿りつき、墨跡に描かれている平仮名の「わ」、「和」の一文字は「和敬清寂」、個人であれ、国家であれ、平和への心得を著している。
珠光の茶の湯 出逢い
珠光は、二十二歳までは茶にも、禅にも興味がなかった。
しかし、ある日 寺の大掃除の際、ボロボロになって廃棄されようとする典籍の中から「茶経 上中下 巻」、「喫茶養生記 上下巻」を見つける。
大和は京に並び喫茶の盛んな土地柄で、この典籍がいかに貴重なものかは直ぐに解った。
この時より230年前に書かれた記録で、明菴栄西(みょうあん えいさい、ようさい)の著作である。
写本ではあろうが平安時代から鎌倉時代にかけて活躍し、日本に於ける臨済宗の開祖で、建仁寺を開山した高僧である。
比叡山延暦寺で天台宗の教学と密教を学んだ後、南宋(中国)に留学し禅を日本にもたらし、廃れていた喫茶の習慣を日本に再び伝えた。
歴代貫主の誰だかわからないが、余程の人物が茶の研究のために揃えたに違いない。
それなのに、今では粗末に扱われ廃棄されようとしている。珠光は先輩に申し出、典籍を譲り受けた。
修行の合間も茶経を読む珠光
浄土宗は常行三昧(じょうぎょうざんまい)という修行を行う。
御本尊の阿弥陀仏の周りを「南無阿弥陀仏」を唱えながら昼夜問わず90日も、座ることを許されず歩く修行である。
意識が朦朧(もうろう)とする中、柵にすがりながら歩き、紐に掴まって軽く眠り意識を回復させるというもので、比叡山 延暦寺(天台宗)に法華三昧堂と常行三昧堂が建てられ、円仁が五台山(中国)の念仏を伝えた行儀と融合して浄土信仰を普及させたものである。
これは、禅定(ぜんじょう)、ディヤーナ、禅那(ぜんな)といわれ、真言宗では印相を結び、陀羅尼や真言を唱え、禅宗では座禅を組み、心を空っぽにするものである。
珠光は、こうした修行の合間さへも時間を惜しみ喫茶養生記、茶経を読んだ。
茶道の鼻祖、陸羽
「茶経」は、唐 (中国)8世紀頃(日本の奈良時代)の文筆家、陸羽によって著された。
陸羽は、捨て子として生を受け、八方塞がり苦難の人生を切り開きながら生きていく中で、一つの真理を見出した。
「精行倹徳。」
行いにすぐれ、つつましやかで徳のある、という意味。
同時に、丁寧にお茶をいただくことで、そのような人に成る事が出来る。
つまり、「人格の優れた方との縁である。」
この事を、後に、日本の大正時代を生きた思想家 岡倉天心は、著書「茶の本」の中で陸羽を「茶道の鼻祖 」と評している。
唐代の餅茶(へいちゃ)は保存性を高めるため、蒸した茶葉を薬研(やっけん)で擦り潰し臼で搗いて固め、米膏(のり)と練り合わせて餅状に固めたものに塩を加え、肉桂(ニッキ)や生姜などの香草を混ぜて香り付けしたもを餅茶とよび、火で炙り、砕いた後熱湯で煮出して飲むもので、塩、葱、薑(はじかみ)、棗(なつめ)、橘皮(きっぴ)、茱萸(しゅゆ)、薄荷(はっか)などを混ぜて風味を加える事もあり、後に団茶と呼ばれるようになった。
団茶は平安時代に最澄や空海など、唐に留学していた僧によってもたらされる事となり、嵯峨天皇を中心とした宮廷貴族に愛飲されたが、遣唐使が廃止されると、衰退してしまい一時的な流行となり、鎌倉時代に入り栄西によって再びもたらされたものであった。
中国 宋時代(960~1280年)仏教、道教、儒教の聖地、天目山の禅寺では抹茶を仏前に供える習慣があり、禅僧たちも修行の一環として黒釉の茶碗「建盞」で碾茶(蒸し製緑茶の一種)を点てた。
後編に続く
(2020.11.6公開予定)