京都という地に長く暮らし、毎年のように京のまちで繰り広げられるまつりや行事を見てくると、いろいろ興味深いことがわかってくる。
たとえば、1年を通して京のまつりを概観すると、春から夏にかけて行われるまつりには、水をめぐる信仰が随所に見え隠れしていることに気づく。
それは、ひとつには田植の季節である春先に豊かな水を求めた人々の想いと、もうひとつには、梅雨時の河川の氾濫と疫病流行への不安、さらに水に対する畏怖の念の表象として、古い時代には京の都の水を差配することを目的として、種々のまつりが行なわれていたことを示唆するものではないかと思われる。
全国的にも名が知れた葵祭や祇園祭はその象徴であり、京の春から夏のまつりを代表する二大祭礼は、根底に庶民の切実なる「水への想い」を隠し持つまつりであると考えることができる。
日本最古のまつり「賀茂祭(葵祭)」の起源
5月15日に行われる葵祭、正式名称賀茂祭は、日本最古のまつりといわれる。平安時代には「まつり」といえば「賀茂祭」を指したという。
賀茂祭の起源について『山城国風土記』逸文によれば、6世紀の欽明天皇の時代に、天候不順によって作物の生育が悪く、大凶作が続いて農民たちが憂い悲しんでいることを察した天皇が神官に占わせたところ、賀茂大神の祟りであることがわかった。そこでただちに賀茂大神の祭祀を盛大に行った結果、天候が回復して、また五穀が無事に実り豊作となった。
それ以来、賀茂大神は雨や河川を司る神、さらに農業、諸産業の守護神として崇敬を集めるようになったといわれている。
賀茂大神を祀るのが上と下の賀茂社、すなわち今日の上賀茂神社と下鴨神社である。
賀茂社は古代豪族である賀茂氏の氏神として、平安京造営以前からこの地に祀られてきた古社である。
代々賀茂社に奉斎した賀茂氏は、八咫烏に化身して神武天皇を導いたと伝えられる賀茂建角身命を始祖とする。
すなわち、賀茂建角身命は神武天皇を先導した後、大和葛城を通って山城国へ至ったと『山城国風土記』に記されている。
賀茂祭の基盤にみえる水への信仰
両賀茂社のうち、上賀茂神社は正式名称賀茂別雷神社といい、その祭神は雷神である。古来雷神は龍神としてもイメージされてきたように、雷は雨をもたらす力を有している。このような強いエネルギーを持つ雷神は、農作物の豊饒をもたらす農耕神でもあるといえよう。
『山城国風土記』によれば、賀茂建角身命の娘の玉依日売が、賀茂川畔で戯れていたところ、上流から美しい丹塗矢が流れてきたので、日売がその矢を持ち帰って寝床に置いたところ、翌朝懐妊し、その結果産まれたのが賀茂別雷命であると記されている。
男性の象徴ともいえる丹塗矢の正体は、山の神であるとも伝えられている。この神の出生はまさに水と深く関わっている。
すなわち水源で祀られる山の神と、下流で水の神を祀る巫女、つまり玉依日売との結婚によって産まれた神が「賀茂別雷命」であり、そこには基本的な性格として水の神としての神格が備わっているといえる。
またこの神は成人すると、屋根を突き破って天に昇ったとも伝えられており、これは雷神としての放電をイメージさせるものでもある。
一方下鴨神社、正式名称賀茂御祖神社には、玉依日売とその父の賀茂建角身命が祀られている。
以上のことから、賀茂祭は一種の農耕祭礼であり、その基盤には明らかに水の信仰が存在することがわかる。
京の水の番人、賀茂氏
下鴨神社の南に広がる糺の森は、古来清らかな水が湧き出る京の水源である。ここは賀茂川と高野川の合流点にあたり、今日でも滾々と地下水が湧き出ている。
そのような場所に祀られた神は、まさに水源神だといえるだろう。
今日でも下鴨神社の境内には地下水が湧きでる御手洗池という泉があり、毎年土用の丑の日には、「みたらし祭」と称して、老若男女が御手洗池に足を浸して、罪やケガレを祓うとともに、無病息災を祈願している。
さらに現在でも下鴨に住まいして賀茂社に社家として奉仕している、賀茂氏の末裔とされる家々に伝わる伝承では、近世末までは、賀茂氏は社家として神社に奉仕するとともに、御所へも仕えていたという。
賀茂氏が御所から命じられていた役割、それは京の水を司ることであったといわれている。
京の水源に住まいしながら、御所の水をも差配した賀茂氏は、換言すれば京の水の番人であったともいえるだろう。
人々の水に対する想いとは、具体的にはいかなる願いであろうか。
水への祈願は大きく2つが考えられる。
ひとつは雨乞いに代表される、いわゆる「祈雨」、すなわち水を乞うこと。
今ひとつは、多すぎる水を鎮めること、いわゆる「止雨」、すなわち川の氾濫への畏怖からくる切実な願いである。
その意味では、田植えの時期にあたる、まさに旧暦4月に行われる賀茂祭に込められた人々の切実な願いとは、豊かな水を求めることであったといえるだろう。
賀茂斎院の始まりと現在の斎王代
ところで、平安時代初期の9世紀初頭、平城上皇が弟の嵯峨天皇と対立し、平安京から平城京へ都を戻そうとするできごとがあった。この時に嵯峨天皇は、平安京の守護神とされていた賀茂大神に「我に利を与えられれば、皇女を阿礼少女として捧げる」と祈願したという。
結果、薬子の変で嵯峨天皇は勝利し、天皇は約束通りに第八皇女の有智子内親王を斎王としたのが賀茂斎院の始まりと伝えられる。
以後、約400年間に35人の斎王が立てられた。しかし賀茂の斎王は鎌倉時代の13世紀初頭、後鳥羽天皇の皇女である礼子内親王を最後に廃絶してしまう。その後長きにわたって行われなかった斎王は、戦後の昭和31年(1956)に斎王代として復活した。
すなわち一般市民の中から斎王にふさわしい女性を選び、斎王の代理(斎王代)として賀茂祭に奉仕するという形が整えられたのである。斎王代は一般公募等で選ばれるのではなく、数千万円という費用を負担することができるという条件に見合った、京都ゆかりの令嬢が推薦で選ばれることになっているために、一部の資産家にその役割が集中している。