その後線路が複線化され、堀川を渡る鉄橋も斜めにかけられてそのまま中立売通りに進むことが出来るようになりました。これらの2つの鉄橋の台(橋台)は今も堀川のせせらぎ遊歩道からしっかりと観察することができますから、一度見てみてください。それはこのKLKでも橋本楯夫さんが「チンチン電車脱線事故 ハイジャック事件か?」のタイトルで昭和21(1946)年1月に起こった進駐軍がらみの電車の脱線転覆事故を伝えておられますが、まさにその事故現場に立つことになります。

中立売通を西に進み千本通りをこえると北野商店街に入ります。今もこの商店街のシンボルマークはチンチン電車をデザインしたもので、七本松通の角にはオブジェも作られ、商店街が北野線とともに発展していったのを物語っています。今は閉館されてしまいましたが子ども文化会館(エンゼルハウス)が北側にありました。あの土地が北野線の電車のねぐら、北野車庫でした。そして下ノ森のカーブをまわって北に向かい、北野天満宮の正面で終点北野に達しました。ちなみに天神さんの前の今出川通が拡張され市電今出川線が敷かれるまでは、北野線の終点は今出川通りの北側にありました。

中立売七本松の商店街の街灯オブジェ

中立売七本松の商店街の街灯オブジェ

なお、このように路線を紹介すると京都駅から北野まで一挙に開通したように思いますが、実際は京電が市街地の北の方にやってきたのは木屋町通(片側が川は先ほどと同じ理由)~木屋町二条~寺町二条~寺町丸太町~烏丸丸太町~烏丸下立売~府庁前~堀川下立売のルートが先なのです。明治28年9月にそこから堀川中立売、さらに下ノ森まで延ばす一方で堀川通を南下させ、明治37年に京都駅に達して「環状線」が完成します。さらに明治45(1912)年に北野に達するのです。

北野車庫で憩う北野線の電車たち(北側から写す)

北野車庫で憩う北野線の電車たち(北側から写す)

終点北野 後ろに今出川線を行く電車と北野天満宮の鳥居が見える

終点北野 後ろに今出川線を行く電車と北野天満宮の鳥居が見える

したがってこの路線はもともと堀川線と呼んでいましたが、北野に達したころから北野線と呼ぶようになったようです。もっとも交通局の資料では「昭和36年7月31日 堀川線廃止」となっています。終点の北野には私が所属する鉄道友の会京都支部によって「北野線廃止記念」の石碑がひっそりと建っています。

終点北野に建立した記念碑

終点北野に建立した記念碑

北野線で走っていた小さな電車は基本的に明治28年に京電が開業したときと同じ流れをくむ電車ですが、実際には後年に増備されたやや車体が大きくなった電車が残り、最後までポール集電で頑張って走っていました。小さな車体で長さ8.3m、幅2m、定員は43人でした。車内は幅が1.7mと本当に狭く、両側に乗客が腰掛けると膝と膝の間はわずかしか空きませんでした。

狭い北野線電車の車内 まさに膝を突き合わせてという感じ

狭い北野線電車の車内 まさに膝を突き合わせてという感じ

そして何といっても車輪が4つ(4輪単車)しかありませんでしたので、前後のオーバーハング(車輪と車端の長さ)が3m以上あり、乗りごこちはけっしていいものではありませんでした。満員で走ると電車が上下に揺れ、頭を上げたり下げたりと「お辞儀電車」といわれたほどでした。ブレーキも手動ブレーキ(ブレーキハンドルを回して車輪を締め付ける)だけの単純なものでした。

コントローラー(左)と手動のブレーキハンドルだけの運転台

コントローラー(左)と手動のブレーキハンドルだけの運転台

このあたりが先の堀川中立売での脱線転覆事故の要因になったことは確かでしょう。京電時代は前面にはガラスはなく吹きさらしで運転しなければなりませんでした。やがて戦前には前面にガラスがはまりましたが、乗降口にはドアはなく最後まで鎖で仕切るだけのものでした。

 ところで北野線の小さな電車を「N電」と呼ぶことがあります。これは先述の市電によって買収されたときに市電と元の京電の電車が同じような番号を付与されていたので混乱をさけるために、元京電車両は線路幅が狭いことからナロー(Narrow)のNを番号の頭に付けたことに由来しています。昭和30(1955)年には市電の小型車がなくなったのでその必要性もなくなり、北野線の車両からもNが消えて改番整理されました。

 

車両の余生

最後まで頑張った28両(実際はそのうち6両が3か月前に運用から離脱)(22号車は京電時代のように前面窓を撤去しての復元車)は路線廃止後も解体を免れ、明治村に行って再び走り出したり、いろいろな施設で展示されたりと生き延びました。これらについては整理をしていずれまたこのKLKでお伝えしますが、平安神宮に展示されている2号車は重要文化財に指定されましたし、長らく大宮交通公園で展示されていた1号車は、廃止直後は大覚寺の広沢池畔に展示され、その後交通公園(このときなぜか6号車と表記)に、そして令和2(2020)年8月に大阪交野市の霊園に引き取られ、法要の施設として再出発するなどさまざまな余生を送っています。
60年前の、ちょっとタイムスリップした光景を醸し出していた元祖チンチン電車のお話でした。

ハピネスパーク交野霊園(交野市)

ハピネスパーク交野霊園(交野市)

法要施設として整備された1号車

(2021.7)

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この記事を書いたKLKライター

鉄道友の会京都支部副支部長・事務局長
島本 由紀

 
昭和30年京都市生まれ
京都市教育委員会学研究課参与
鉄道友の会京都支部副支部長・事務局長

子どもの頃から鉄道が大好き。
もともと中学校社会科教員ということもあり鉄道を切り口にした地域史や鉄道文化を広めたいと思い、市民向けの講演などにも取り組んでいる。
 

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|鉄道友の会京都支部副支部長・事務局長|京都市電/嵐電/京阪電車/鉄道/祇園祭

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