松本清張が愛した温泉 ―木津温泉― 京の湯浴み万華鏡(其の四)

木津温泉の広告(大正元年ごろ)
出典:高柴象外編『中郡一斑峰山案内』(1912)

前回まで『日本鉱泉誌』(明治19年刊、上・中・下3巻本)に掲載された嵐山温泉・天龍寺温泉・稲竃鉱泉を紹介してきました。連載四回目となる今回は『日本鉱泉誌』の京都府の項目の最後に記録された鉱泉、木津(きつ)鉱泉(現木津温泉)をご紹介したいと思います。木津温泉は京丹後市網野町にある温泉です。京都丹後鉄道宮豊前線と国道178号線に挟まれた狭い場所に3軒の旅館が並んでいます。 
 この木津温泉については、さまざまな興味深い資料もありますので、それらをじっくり読んで味わっていただく形で今回は紹介していきたいと思います。
木津温泉について『日本鉱泉誌』(中巻416-7頁)にはつぎのように記されています(平仮名にするなど読みやすくし、カッコ内を加筆)。 
  
丹後国 木津鉱泉 竹野郡木津村字岩坪
〇泉質 炭酸泉  
無色透明無臭無味。反応は弱アルカリ性(含有成分は略)。
温度(華氏)90度(摂氏約32度)
◯位置景況 此の地は海浜までおよそ15町(1636m)に在り、泉は田間より湧出すその傍らに浴場を設く道路便なり
〇浴客 平均で一年におよそ7300人(この記録からすると利用客は京都府の中でとびぬけて多い。嵐山鉱泉で4000人、天龍寺鉱泉は2000人である。)
〇発見 嘉永二年己酉正月十二日

 現在この地を訪れますと、まず迎えてくれるのは足湯です。京都丹後鉄道宮豊前線夕日ヶ浦木津温泉駅構内に「しらさぎの湯」という足湯が設置され、長旅の疲れを癒してくれます。

京都丹後鉄道宮豊前線夕日ヶ浦木津温泉駅構内の「しらさぎの湯」
(筆者撮影 2021.5)

そこには、つぎのような温泉発見伝説も掲示されています。

『行基と木津温泉』 京都府下最古の温泉 ~天平の出湯~
むかーし昔、奈良時代のお話しです。
当時国内で疫病の流行や大地震・旱魃による被害で天平の飢饉が起こりました。行基は、人々は飢えから救うため、田畑を開墾し溜池を作る指導をし、近畿中を回っていました。この木津でも少なからずその影響を受け、疫病が発生しました。その時、行基はこの地に訪れており、ここに湧く温泉に村人達を入浴させました。そして行基の指導により木津では大きな被害は発生せず村人達は救われたと言い伝えられています。その疫病とは、皮膚病の一種天然痘(=皮膚に病変が生じるの意[樽井付記])だったようで、それ以来木津温泉は皮膚病に効く治療湯として伝えられております。
これは昔から木津温泉に伝わる行基にまつわるお話しです。

京丹後市網野町木津にある中性院という寺院関係の記録には、同寺が薬王寺覚性院と号していたころの沿革としてつぎのようにあるそうです。「天平年中行基菩薩諸国巡拝の砌此谷に来るや当谷悪疾流行為に衆民の苦を救はんとして一刀三礼の薬師如来を彫刻し温泉の地を創し(現今の木津温泉是なり)其の療法を教ゆ」(『木津村誌』より)。この伝承がいまも受け継がれているというわけです。
また、宝暦13年(1763)から天保12年(1841年)にかけて編纂された『丹哥府志』(たんかふし)には「温泉 下和田村」とあり、文化6年(1809)に庄屋が宮津藩に報告したとされる文書には「木津には温泉の湧出する場所が二箇所あり、およそ25、6年前、下和田の者が7,8尺ばかり堀ったところ、湧湯の勢い強く砂利・砂を吹き上げた」(『京都の地名・日本歴史地名大系26』平凡社(1981)831頁)とあります。ですので、江戸時代にはたしかにこの地に温泉が湧出していたようです。

江戸時代の文献『丹哥府志』に下和田村に温泉があることの記録が残る

そもそも、どこの温泉もそうなのですが、いつどのように開湯されたのかという問題は一筋縄ではいきません。伝承や伝説が豊富でも、確実な史料との照合が困難なため容易には確定できず、ここに温泉研究の難しさがあります。木津温泉の場合、『京都府鉱泉誌』では次のような見解もあります。

「日本鉱泉誌」(初版)には本泉の発見年月日を、嘉永2年(1849)1月12日と記載し「日本温泉大鑑」もこれを採用しているが、その根拠を詳らかにしない。寧ろその2年前の弘化4年(1847)の同月同日この地に局地的な地変(土地の陥没と隆起)が起った事は数種の古文献に記されているので、恐らくこの年より、温泉が湧出したと考えるのが当を得ているであろう。殊の外温泉に関心と識見を持っていた丹後出身の名医、新宮涼庭は、弘化2年(1845)、城崎温泉に赴く往復途次にこの地方を通過していながら、その日記に木津温泉に関して全く言及していないのは、同年には未だ温泉が存在していなかったと推察し得る傍証となるでろう。(『京都府鉱泉誌』1964:12頁)

この記述に依るなら、行基の時代に遡るのではなく、先に挙げた『丹哥府志』よりも少し後に湧出したということになりそうです。しかし、ほぼ同じ地域で異なる時期に異なる地点から湯がでた可能性もあり、どれが「木津温泉」なのかを確認するのは、やはり容易ではありません。行基の時代も『丹哥府志』の時代も湧き水程度で、今私たちが考えるような温泉の利用法はできなかったかもしれません。どの古い温泉も、”いつが最初か”の確定はやはり困難なのです。
なお、上の引用にある、弘化4年(1847)の「局地的な地変」については、「丹後の国に於て一夜の内に山涌出る次第」という題目の瓦版が、「弘化四未の年正月大新版」(版元不明)として現存しています。お湯ではなく「山が涌き出る」という事件ですが、ご参考までにその瓦版をお示ししておきます。

弘化4年に丹後の国に一夜で山が涌き出たことを伝えるかわら版
出典:舞鶴市糸井文庫 書籍閲覧システム

明治のはじめの頃の動きは『京都府温泉誌』(1985)が参考になります。それによると、木津温泉は、「へき遠の地にあったため(中略)ほとんど知られることなく、荒廃したまま明治維新を迎えた」のですが、明治10年(1877)、槇村正直知事が管内巡視で木津温泉を視察して現状をなげき、京都舎密局に温泉分析を依頼、府の監督のもと木津温泉の復興をはかりました。しかし交通が不便なため、浴客は少なく、自ずと衰微したとのことです(同書:38-9頁)。その後、明治31年(1898)に、今度は当時の村長谷口仁平氏が内務省大阪衛生試験所に試験を依頼し、医学的な効用があることを証明し、復興のために画策しましたが、利用が広がることはありませんでした(『網野町誌』1992)。
それから数年後の日露戦争(1904-5)の時期になると、木津村は木津温泉に戦傷病者転地療養所を設置するように求める嘆願書を出しています(明治37年12月)。当時の木津温泉の窮状や、打開への模索の様子がわかる大変興味深い内容なので、全文紹介したいと思います。

戦傷病者転地療養所設置願 (現代文に改めカッコ内を加筆)
(前略)
我が京都府竹野郡木津村に於いては、字岩坪と称する所に古来より温泉が湧出し、明治10年3月京都舎密局に於いて別紙第一号書の通り分析証明を受け、それより後、これを世に公にし、浴客が四集し一時繁栄を極めました。しかしながら世の中の進歩に従ってその設備その他すべてを時勢に伴わせられず、自然と来客が減少し以前の状態より悪くなった状態に至ったことは大いに遺憾とするところです。よって明治31年時の村長谷口仁平氏が考えを巡らし、更に内務省大阪衛生試験所に試験を依頼し、同年7月別紙2号書の通り報告を得て、医学的効用が証明され、これによって再興のきっかけとし、種々画策してきましたが、事情のため、世の注目を引くまでには至らず、この効用ある四季温度不変、温度は華氏93度(摂氏33.8度)の天から与えられた霊泉でありますのに使い道がなく、空しく今日に至っておりますのは有志が常に遺憾とする所であります。
今回此の温泉を利用して頂き当地に転地療養所をご設置して頂くことをお願いしたく、幸いにも採用となりましたら、主として傷病将士を慰め癒やすことの一助とし、本村が常に願う方向の微意にかない、またこの泉の的な発展のきっかけとなるものとして、役にたつことは少なくないと思います。もっとも浴場の設備等はご指示に従いおっしゃる通りに改修いたします。
本村は山間に在りますが交通の便もよろしく、特に温泉湧出地から十町(1.2㎞)の所は海岸があり、二百余町(約21㎞)ほど歩くと大砂地があり、眺望佳絶です。なお松樹の繁生しているところもあり、自然清爽の気を養うのに良く、傷病諸士を慰癒するのに最も適する所だと思います。何卒一応実地御臨検の上、本村の微衷御了察願意御採納くださいますように参考書類を添えてお願いいたします。
明治37年12月17日
京都府竹野郡木津村長
谷口六兵衛㊞
姫路予備病院長
陸軍三等軍医正山本徳三郎殿

この嘆願書には「当地には古くから温泉が湧出し、医学的効用も認められているにも関わらず、浴客が少ないので、ぜひ転地療養所を作ってほしい」という村長の縋るような叫びが綴られています。しかし残念ながら転地療養所ができることはありませんでした。
その後、明治44年(1911)、ついに念願の高温泉開削(摂氏43度)に成功し、翌45年村営の公共浴場を開設しました(『京都府温泉誌』1985)。
そしてさらに大正2年(1913)には第二浴場が増築されました。当時の広告が残っています。

大正2年の広告
出典:上野家文書(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ:館古603-19539)

以下のように高温度となったことを懸命にアピールする内容になっています。

京都府下唯一竹野郡木津温泉
 ◎諸病ニ効能顕著ナル霊泉
 ◎海水浴ヲ兼ヌル好避暑地
 ◎浴場旅館トモ設備整頓ス
 ◎各地より車馬交通便利也
当温泉は古く今を去る1170年前天平15年始めて(ママ)発見したるも微温の為遠来の客とてはなかりき然るに世の進歩と共に公衆衛生上温泉療養の必要を感じ明治44年微温の儘浴室の設備をなせしと雖もその後有志者の試掘により高度の温泉を発見現地に浴場を移転開業せしに開業日浅しと雖も意外に来客の好評を得既に明治45年の浴客数八万余に上り浴室狭隘を告ぐるに至れり故に本組合は講会を組織し壱万五千金を募集し設備の基金に宛て昨年7月工を起し既に落成を告くるに至れり抑も当温泉は昼夜不断滾々として湧出し常に浴槽に溢れ新陳代謝し清澄玲瓏玉の如く試みに一浴せんか神気爽然倶に融化せさるやを疑はしむ之より前旅人宿は従来二三営業せるものありしも新温泉の発見せらるゝと共に将来の発展を必期し該地點を中心として同年相前後して工を起し結構壮麗なる旅人宿漸次竣成を告げ既に開業せるもの十余戸を数え尚新築中のものも少なからず如上諸般の設備整頓したるを以て希くは試みに一浴あらんことを乞ふ
大正二年十月

この広告には10軒の旅館が名を連ねており、京都府下にたった一つの摂氏40度以上の温泉の掘削に成功した喜びと誇り、これからお客を迎える興奮がよく伝わります。しかし、あいにく翌年火災があり、公共浴場は消失し、その後の復興は厳しいものがありました。なお、橘屋、常盤館、朝日屋、かどや、柳屋、山本屋、金平楼、中屋、わたや、加月屋と上記の広告に列挙された10軒のうち、現在も金平楼は残っています。
その後の創業でいまも現役の旅館にゑびすやがあります(昭和5年創業)。現地で実際にゑびすやさんにお伺いしたところ、これ以前にも温泉を伴う宿泊施設だったが、その当時は舞鶴の海軍の軍人さん専用となっていたそうです。一般のお客の利用が許されたのが昭和5年なのだそうです(ゑびすや 女将、蛭子智子さま談)。その後、昭和6年(1931)に国鉄宮津線が開通したのをきっかけに木津温泉は発展が期待されるようになりました。やがて戦時下となり、昭和20年4月には、かねてより村が嘆願書を出していた敦賀陸軍病院木津村臨時分院が開院し、将兵、約百名が8月まで過ごしています。 
すでに紹介した日露戦争時の転地療養所設置嘆願書やこの分院開院の話から、軍人が温泉に浸かっている様子を想像すると、温泉を観光地・遊興地ととらえがちな現代からは、なにやら呑気で違和感があるかもしれません。しかし、実は戦争と温泉には深いつながりがあり、学術的にも重要な研究課題の一つになっています(石川理夫、2015『温泉の平和と戦争:東西温泉文化の深層』彩流社、特に第6章/高柳友彦、2014「1930年代における温泉経営の展開と転地療養所運営:愛媛県道後温泉を事例に」『三田学会雑誌』107(3)、特に335頁以降)。

高柳論文はこちらから閲覧可

さて、現在木津温泉の泉源を利用しているのは、ゑびす屋、木津館、金平楼の3軒の旅館、網野高齢者すこやかセンターです。

温泉利用ができる高齢者施設
(筆者撮影)

そしてさらに驚いたことに一般の家庭約50軒も利用しているとのことです。それより以前、水道の無い時代には温泉が生活用水、飲料水だったそうです。さらに、温泉にはフッ素が含まれているため、虫歯にならなかったとのことです。現在でも洗い場が残り、畑で採れた野菜を洗う場所、地域の住人の交流の場となっています。

温泉を利用した洗い場
 (筆者撮影)

なお、このゑびすやは昭和時代のミステリー作家、松本清張が1965年6月から2か月逗留し『Dの複合』を書きあげた旅館として、知る人ぞ知るの存在でもあります。小説内では「浦島館」として登場するこのゑびすやには、清張ファンが実際に多く訪れ、清張が見た風景に触れ、小説に描かれた売布神社周辺を散策するそうです。
小説内に描かれる「浦島館」の部屋は実際のゑびすやの部屋そのものです。

予想したよりも部屋はそれほどひどくなかった。年代を経て黒光りのする床柱と煤けた軸の懸った二間床がある。畳は赤茶けているにしても、とにかく十畳の間で、四畳半の控の間付きだった。朱塗りの応接台があり、壁土にヒビのはいった欄間を見上げると、古い横額が懸り、子爵京極某の揮毫が収められてあった。なるほど、ここは京極家の旧領地だわいと、伊瀬は思い当たった。

ここからは、実際に筆者(樽井)が訪問して撮影させていただいた写真も交えながらご紹介しましょう。

清張が宿泊した部屋
(筆者撮影)

清張が逗留した部屋は8畳に4畳の控えの間のある部屋で床の間もあります。もとは欄間があったという所は現在は手が加えられ、壁になっていますが、横額がかかっています。朱塗りの応接台というのは窓の近くにある応接セットから連想したことではないでしょうか。清張が長時間部屋の中で目にしたものがそのまま描かれているのでしょう。清張は8畳間の襖は閉めたままに、女中は食事の膳を4畳の間に置いたということです。食事についても詳しく描かれ、ゑびすやの料理長が清張のために新鮮な海の幸を集めたことが思われます。

女中はこの部屋に清張の食事の盆を置いた
(筆者撮影)

海が近いだけに魚だけは飛び切り新鮮で、これだけは仕合せをした。刺身などは生きがよくてコリコリしているし、煮つけは魚の身が反りかえっていた。その他、蛤の吸物と塩焼き、エビの生きづくり、アワビやタコに至るまで新鮮な材料だけは一流料理屋も及ばないくらいだった。

温泉については以下のように記され、温泉の効能について体感した正直な感想が描かれています。

とにかく沸かしているとはいえ温泉で、湯につかっていると心地よくなり、疲れが少しは休まったように思えた。


温泉を沸かすだって!?、沸かしたら温泉ではないのでは?、と感じる方もいらっしゃるかもしれません。しかし温泉は温泉法で定義されていて、温度が25度以上あるか、決められた化学物質がひとつでも含まれていたら温泉と認められます。加熱しても加水しても温泉の効能は変わらないと言われています。
『日本鉱泉誌』に記された京都の温泉4つ目の木津温泉は、冒頭でもふれたように、記録の上では京都最古の温泉といえる存在です。また、他の3つは冷泉でしたが、唯一温度のある温泉です。大正2年4年の『京都府誌』にも「本府は地質上火山脈乏しきを以て温泉と称すべきものなし。唯僅に竹野郡木津村より湧出するもの摂氏四十度以上を示すのみ、其の他は悉く冷鉱泉なりとす」(同書下巻421頁)とあります。京都府全体で温かいお湯が湧き出しているのは、この木津温泉だけだとはっきり強調し、写真もわざわざ載せているのです。

木津温泉の中心部
出典:『京都府誌』(大正4年)

今回の記事の最初にお示しした大正元年の図版をご記憶でしょうか。そこに「京都府下唯一」とあったのは誇大広告ではなく、根拠のあるキャッチコピーだったとわかります。その後は、掘削技術の発達もあり温泉の数はどんどん増えていきました。たとえば「夕日ケ浦木津温泉」の駅名になっている夕日ケ浦温泉は昭和56(1981)年の開削。泉源は砂丘松林の中にあり、文字通り夕日の美しいのが特徴です。


ここまで4回にわたり、明治19年刊行の『日本鉱泉誌』に記された京都の温泉について綴って参りました。これをとおして皆さまの温泉に対する認識が新しくなり、興味の視点を変えて温泉に浸かりたいという気持ちになって頂けたら、本当に嬉しく存じます。私としても、現地を訪問取材したり、資料を探し当てたりの楽しい機会を得ましたことに感謝しています。KLK読者の力でまだまだたくさんある京都府の温泉を盛り上げて頂けたらと思います。
なお、末筆になりましたが、今回の木津温泉の取材にご協力くださり、興味深いお話をたくさんきかせてくださった湯宿ゑびすやの女将蛭子智子さまに心より御礼申し上げます。

湯宿ゑびすやHP
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この記事を書いたライター

 
奈良女子大学大学院博士後期課程修了。
文学博士。
専門は民俗学・温泉学・観光学。
日本温泉地域学会幹事。
元ミス少女フレンド(講談社)。

現在、奈良女子大学・関西学院大学・佛教大学・嵯峨美術大学等で非常勤講師を務める。
佛教大学四条センターで温泉関係の講座、「温泉観光実践士養成講座」で温泉地の歴史の講師を担当しています。
どちらの講座もどなたでも出席できます。お待ちしております。

|日本温泉地域学会幹事|銭湯/観光地/嵐山/温泉/江戸時代