左京区下鴨の『京都府立植物園』は、1924(大正13)年に開園した日本最古の公立総合植物園です。春には450本の桜が咲き、秋はカエデやフウなどの紅葉が見事です。四季を通じて様々な植物と出会える植物園は、子供からお年寄りまで、家族連れはもちろん、お一人でも十分に楽しめる「生きた植物の博物館」です。この植物園の横には賀茂川が流れ、たくさんの鳥や人が集まって豊かな自然を満喫しています。また、植物園の東側には平安建都1200年記念事業の『京都コンサートホール』が建っていて、賀茂川から植物園、京都コンサートホールへと続く北山通周辺は、京都の一大文化ゾーンを形成しています。そこで今回は、植物園とその周辺をご案内します。
ご案内
京都府立植物園の正面玄関は、北大路通を賀茂川沿いに北に上がったところだ。
植物園には4つの門がある。北大路通を北に400mほど上がったところにある正門のほか、北山通の北山門と賀茂川門、そして京都府立大学側の北泉門だ。園内は多彩だ。正門を入ると右手に西洋シャクナゲ園⇒洋風庭園⇒ばら園⇒沈床花壇と洋風庭園が続き、北泉門につながる。そこから北へはあじさい園、はなしょうぶ園、ぼたん・しゃくやく園、竹笹園を通って、北山門前のワイルドガーデンに出る。ここでは風に舞う少女や麦藁帽子を持った少女の像(*)が来園者を暖かく迎えてくれる。
ワイルドガーデンから西に行くと広さ約5,500㎡の“なからぎの森”がひろがる。古くから「流れ木の森」ともいわれたこの森は、下鴨に残された原植生をうかがい知ることのできる園内唯一の貴重な自然林だといい、三つの池の中央に上賀茂神社境外末社の半木(なからぎ)神社が鎮座し、池の周りにカエデ類が生い茂って紅葉が美しい。
半木神社を北に行くと賀茂川門につながり、南に下ると右手にガラスの観覧温室、左手に大きな芝生地が広がっている。観覧温室には、通常京都では見られないジャングルや砂漠サバンナ、高山などの植物や、昼夜逆転した植物の姿などが展示されていて多彩だ。
24haにも及ぶ京都府立植物園には、大人から子供まで、世代・年代・性別・国籍を超えて楽しめる植物と空間、そして人々の笑顔があふれていて、何度行ってもあきない。このような植物園がどうして下鴨の地に生まれたのだろうか。
植物園の用地は、1914(大正3)年8月から開催予定の大正天皇即位「大典記念京都博覧会」予定地として、京都府がその前年4月に上賀茂今井町と下鴨半木町にまたがる約10万坪(33.5ha)を購入したことに始まるという。しかし大典記念京都博覧会は、15(同4)年10月から岡崎公園で開催され、その遺構であるレンガ造の門柱が岡崎グランド南西部に残っている。植物園の工事は17(同 6)年から始まり、7年後の24(同13)年1月1日に「大典記念京都植物園」として開園した。
【関連記事】京都府立植物園 97年の歴史①-あの土地は『内国博覧会会場』予定地だった-京都府が用地購入した年は、5月に市電・烏丸線が丸太町から今出川まで延伸開業しており、鉄道網の整備を見越した購入であった。植物園の着工は土地取得から4年後になるが、市電網の工事は順次進み、植物園開園の前年には市電が植物園前まで延伸している。このころ、植物園南側の京都府立大学も校舎整備を進め、18(同7)年に同大学前身の京都府立農林学校が現在地で授業を開始している。交通基盤と歩調を合わせた植物園等の整備であったわけである。この時、北大路橋はまだ無く、京都府立大学の南側道路を西に行ったところに「中加茂橋」が架かっていたことが、昭和4年の京都市都市計画基本図(図2)に載っている。そして市電の停留所はこの橋の西詰であった。だから植物園の正門は南側で、正面から北大路まで立派な“けやき並木”が設けられていたのだ。
京都府立植物園は戦後12年間連合軍に接収されていたが、1961(昭和36)年に憩いの場、教養の場として一新され、再スタートを切った。翌年には北山大橋が架設され、京都府立大学も全学舎を現在地に統合した。植物園の再開と北山大橋の開通が、文化ゾーンとしての出発点になったわけだ。
北山通をよく見ると、賀茂川の西側では道路が真東に向かって走っているが、東側では少し北を向いている。そして北山大橋は、賀茂川に対してほぼ直角に架かっている。どうしてだろう。そこで、京都府が植物園の用地を購入する前後の地図(図1:正式地形図《大正元年》、図2:京都市都市計画基本図《昭和4年》)を比べてみた。これによれば、植物園北側の道は大正元年に既に存在しており、その道が道路として整備され北山通の線形となっていったと考えられる。一方賀茂川の西側は、昭和初期の土地区画整理事業によって北山通が真東を向いており、両者の向きの違いをつなぐように、北山大橋が賀茂川に対してほぼ直角に架けられたようだ。近代化以前の地歴が植物園を介して現代にも受け継がれているといえるだろう。
植物園から賀茂川沿いは京都マラソンのコースにもなっている。上賀茂神社から賀茂川右岸を下って北山通を東に進み、高野川で折り返してきたランナーは、植物園の北山門から入ってワイルドガーデンを南下し、くすのき並木を西行。観覧温室の横を北上し、なからぎの森を反時計回りに回って賀茂川門から出る。途中、祇園の芸舞妓さんたちの応援を受け、疲れも吹っ飛ぶことだろう。北山通に戻ったランナーは、北山大橋を渡って加茂街道を下り、北大路橋の手前で河川敷に降りて丸太町橋まで川沿いを一気に下る。この間ランナーは、車両を止めることなく、北大路橋、出雲路橋、葵橋、出町橋、賀茂大橋、荒神橋をくぐって丸太町橋の手前で道路に上がってくる。川沿いを緩やかに下るこの区間は、後半戦とはいえ爽快な走りが期待できることだろう。
植物園と賀茂川は、一体となって京都の大舞台を演出している。
北山通から下鴨中通沿いのアプローチを通って、1995(平成7)年竣工の『京都コンサートホール』に向かった。このホールができたときはまだ北山駅が終着駅だった。地下鉄烏丸線は81(昭和56)年に京都駅―北大路駅間が開業し、北山駅まで延伸されるのは9年後のこと。国際会館駅まで開通したのは97(平成9)年だから7年間終着駅だったわけだ。
『京都コンサートホール』は、1978(昭和53)年の世界文化自由都市宣言の具体化事業であった。同時に平安建都1200年記念事業としても位置付け、21世紀に向けて飛翔する京都を象徴する意味が込められた。そこで建築設計はコンペで選ばれた。このコンペでは槇文彦・磯崎新・石井和紘・阪田誠造・高松伸という我が国の建築界を代表する5名の建築家が作品を競い、川崎清氏が委員長を務める審査委員会で磯崎新氏の設計案が選ばれた。この時の5作品は、イタリアのヴェニス・ビエンナーレ建築部門に出展されるほどのレベルの高さであったという。竣工は平安建都1200年の翌年であった。
そこで磯崎氏の設計説明書を紐解いてみよう。まずこのホールの構成として簡明な幾何学的基本形を採用したという。シューボックス(靴箱)形状の大ホールの直方体、小ホール(アンサンブルホールムラタ)の円筒形とそれに内接する六角形、半透明のガラススクリーンで囲まれたホワイエの立方体の骨組みがそれだ。その間隙は、霞がたなびくように曲面を埋め込んだという。この曲面をマリリン・モンロー・カーブと説明書は呼んでいる。
これら3つの配置では場所の固有性として3つの軸を抽出。大ホールの軸線が平安京の条理の真北、ホワイエの骨組みは北山通沿いの磁北、小ホールが賀茂川沿いの亥(い:十二支の一つ、北北西)の方向を軸線としており、土地の特性が建物配置に表れている。
特徴的なのは大・小ホールの舞台側を下鴨中通側にむけ、ホワイエを道路から奥まった西側に置くことによって、開放性と落着きが求められるホワイエが植物園に面していることだ。北山駅からのアプローチでは、敷地後方の大ホールの前にある円筒形の小ホールを西に雁行させ、道路から奥まったところにあるエントランスに来場者を導いている。
北山駅からコンサートホールに向かうといぶし銀の大きな円筒形が目に入り、近づくにつれ壁面で水平にたなびくモンロー・カーブが右手の入口へと誘う。プロムナード南面の水盤状の池といぶし銀の壁面が相まって枯山水庭園とも見て取れる前庭を進むと、少しずつ気分が高揚してくる。中に入って螺旋状のスロープを上がっていくと、名門ヨハネス・クライス社製のパイプオルガンがある大ホールと小ホールへと導かれていく。
ここから先は実際に音楽体験していただくこととし、次にコンサートホール北側の『陶板名画の庭』に向かった。この庭は建築家・安藤忠雄氏が設計した、屋外で鑑賞できる世界で初めての絵画庭園。睡蓮・朝《モネ》、最後の審判≪レオナルド・ダ・ヴィンチ≫など名画の美しさをそのままに再現した陶板画8点が展示されている。竣工は平安建都1200年の年で、京都コンサートホールより1年早い。
このころ北山通沿いは高松伸氏らの現代建築が多く建ち並び、最先端のファッショナブル・ストリートとして大変注目されていた。
参考文献「さよなら京都市電」京都市交通局 1978年
「京都市コンサートホール(仮称)設計競技作品集」京都市文化観光局 1992年
「京都府立植物園 97年の歴史①-あの土地は『内国博覧会会場』予定地だった-」松谷茂著 Kyoto Love. Kyoto 2020年
京都府立植物園HP(施設紹介・園内マップ)
京都府立大学HP(大学の沿革)
京都コンサートホールHP(施設紹介)
京都府立陶板名画の庭HP