「謎の茶人 千利休 その1」  茶道とは。何モノか。8


「一期一会」

千利休という人は、茶の湯について自ら書き残すことは無かった。
現時点の研究ではいくつか伝わる利休の秘伝書と言われるものも、後世になって利休の名前を書き足したものがほとんどなのです。

その中で利休についてのエピソードを唯一書き残したのが、弟子である山上宗二が残した「山上宗二記」で、茶の湯に緊張感を求め、遊興の場とすることを嫌った利休の事を、宗二は共感し「一期に一度の参会のように。」と、自らの文に書き留め、後の江戸時代、幕末の大老 井伊直弼(いいなおすけ)が「茶の湯一会集」の中で有名な「一期一会(いちごいちえ)」と山上宗二の言葉を要約しました。
これは、一期は人間の一生涯、「一会」はただの一度の会合。其の一瞬一瞬は二度と繰り返さない。という意味で現代の私たちに伝わっているのです。

 

利休の精神や心得は、現代の私たちにも伝わる

千利休が茶道の精神、点前作法の心得などを、初心者にもわかりやすく憶えやすいよう歌にまとめ、百首集めた「利休百首」、茶は服(ふく)のよきように、炭(すみ)は湯の沸(わ)くように、夏は涼(すず)しく冬は暖(あたた)かに、花は野にあるように、刻限は早めに、降(ふ)らずとも雨の用意、相客(あいきゃく)に心せよ。と、茶の湯の心得を記した「利休七則」、和と敬は主客の心得を、清と寂とは茶庭、茶室、茶器などに関する心得を語った「和敬清寂」、小座敷の花ハかならず一色を一枝か二枝かろくいけたるがよし自然の風情のままに投げ入れることを根本とせよ「花は野にあるように。」も現代の研究では江戸時代中期に成立したものとみられ、利休本人が遺した言葉ではないのです。
しかし本質を突いた言葉に間違いなく、現代の私たちも生活の中で尊び、大切にしているのです。

 

茶の湯に出会う前の利休は

謎の茶人 千利休。それを補うものとして、利休の逸話が創作され、他の茶人の話も利休の話として編纂されていくことになったのです。
千利休は大永二年(1522年)大坂 堺で倉庫業や干し魚の卸を行う商人の長男として生まれました。
本名は田中与四郎と言い、当初は豪商とは程遠い小商人でした。
与四郎19歳の時に父親が亡くなり、それに前後して祖父も亡くなり、当主となり、堺の南宗寺で宗易という名を貰ったと推察されています。

宗易の家は禅宗徒でしたが、祖父の七回忌の時に法要を営む余裕がなく、「涙を流しながら墓を掃除するばかりだ。」という漢詩(偈)をつくり、供養代がわりに南宗寺へ送ったものが現代に伝わっています。

 

茶の湯との出会い

茶の湯を習い始めたのは、商人同士の交際に不可欠で、十代の頃からと推察され、その後、戦国大名の三好家に縁を繋ぎ御用商人として頭角を表して来る事になったと推察されています。
これは、宗易が後に千家の墓所として定める事となる大徳寺 塔頭 聚光院が三好長慶の菩提寺であり、堺の南宗寺から大徳寺の住持職となった親古渓宗陳(こけいそうちん)と親しかった、だけではないと考えられます。
三好長慶(みよし ながよし)は、戦国時代の武将で、室町幕府 摂津国の守護代で、細川政権を事実上崩壊させ、室町幕府将軍 足利義晴、足利義輝共々京都より放逐し、三好政権を樹立した大名です。
その、足利義輝、六角義賢、畠山高政らと争い、和議を結び、畿内(朝廷のあった主都周辺の四ないし五か国の総称)の後に織田信長が堺を支配するまで、支配者として君臨していました。
堺を支配した織田信長は、豪商茶人である今井宗久、津田宗及、そして末席に千宗易を茶堂として召し抱えました。
これは茶の湯を楽しむということが第一の目的ではなく、軍事物資の調達や情報収集が目的であったと考えられています。
そのような環境の中で明智光秀は津田宗及と、千宗易は羽柴秀吉と親しくなっていくことになります。
羽柴秀吉は、宗易の弟子である山上宗二を茶堂として召し抱えました。
天正十年(1582年)本能寺の変が起こったとき、津田宗及が慌てて秀吉の陣に赴き、明智光秀と自分は無関係であることを弁明した記録が残っています。

 

天下人 秀吉の茶堂へ

本能寺の変によって織田信長の亡き後は、今井宗久、津田宗及、千宗易の三人はそのまま羽柴秀吉の茶堂として召し抱えられ、この時に、宗易61歳が三人の中で主席となったと見られています。
天下人となった秀吉は宗易を重用し、宗易は次第に政治的に重要な補佐役となっていきました。
茶の湯に傾倒していた秀吉は、政治的に重要な会合や密談として、社交の場として茶の湯を重んじ、秀吉の周囲の大名たちも茶の湯を習い、千宗易に近づこうと考えるようになっていきました。

豊臣政権は文化人を政治に参画させることが多く、茶の湯のジャンル以だけでなく、連歌師の紹巴(じょうは)、真言宗の僧である木食応其(もくじき おうご)も諸国との連絡や交渉に起用されていました。
九州から上洛した戦国大名である大友宗麟は、秀吉の弟である秀長から「内々の儀は宗易へ (内密の話)。」と進言され、そのことを書状にしたため国元に送っています。
宗麟は、中国明朝への遣明船の派遣し、琉球、カンボジア、ポルトガルなど海外貿易による経済力によって北九州東部を平定した大名でもありました。

 

天皇・上皇も茶の湯に親しみ、日本の伝統文化へ

天正十三年九月(1585年)関白となった秀吉は黄金を貼った組み立て式 三畳の茶室を御所に持ち込み、正親町天皇(おおぎまち てんのう)に茶を献じました。
当時、新興文化であった茶の湯は、それ以前から茶の湯に親しんだ公家もいたとは言え、豊臣秀吉が天皇を客に茶会を招き茶会を開き、その後も天皇だけでなく上皇も茶の湯に親しむようになり、やがて茶の湯が日本の伝統文化とみられる道が切り開かれたと言ってよいでしょう。

当時は無位無官では御所に上がり天皇に謁見することは許されていなかったので、身分を超越できる僧侶と同格の居士(こじ:出家せず家に居たまま仏道を修行する禅の修行者)を勅許(天子のゆるし)され、宗易から利休居士となったのです。
利休の名の意味は「名利共休」みょうり共に休(きゅう)す意味= 名誉欲 利益への欲 共に休む。心の自由こそ最も大切なこと、名利とは名聞利養(みょうもんりよう)の事で、名聞とは名誉が世間に広がる事、利養とは財を追い求める事、突き詰めれば名誉欲と金銭欲と云う意味で、それを断ち切れ。名利の心さえ断ち切る事が出来れば、自然に悟りの光が輝く。と、いう意味なのです。
まさに、千利休が蓄財し、華美な生活をしていた形跡は今をもってないのです。


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この記事を書いたライター

 
昭和44年(1969年) 京都 三条油小路宗林町に生まれる。
伏見桃山在住
松尾株式会社 代表取締役
松尾大地建築事務所 主催 建築家

東洋思想と禅、茶道を学ぶ。

|禅者 茶人 建築家|茶道/茶の湯/侘び寂び/織田信長/村田珠光