「伊達政宗と茶の湯」  茶道とは。何モノか。7


鄙(ひな)の都人。伊達政宗がはじめて京の地を踏んだとき、洛中の人々は彼をそう呼んだ。「田舎の風流人」といったところか。政宗といえば、歴女に高い人気を誇るように、精悍かつ勇敢な武将のイメージが強い。しかし、政宗にはもう一つの顔があり、文化人としても非凡な才を発揮した。風流を自任する上方大名が居並ぶ中で、政宗が披露した漢詩・和歌に一同は息を呑んだそうだ。

さて、この時代の文化といえば、やはり茶道であろう。戦国の雄たちは茶器にステータスを求め、時に茶器の争奪が戦の発端となることさえあった。同時に茶室は「密室」であるがゆえに、茶会が密会、謀議など外交の場としての側面を持っていた。この戦国期の茶道において当代随一の名を馳せたのが千利休である。信長や秀吉をはじめ、利休に師事した武将は数知れず。そして、伊達政宗は戦国乱世の生き残りとして、利休に教えを請うた最後の有力武将だったのではないか。

 

政宗、生死の間で利休に師事。

天正18年(1590年)6月豊臣秀吉の小田原攻めの際、伊達政宗が小田原に到着した時には、既に北条氏の敗北は目前で、戦は終わろうとしていました。政宗は父である輝宗の時代から北条氏と同盟関係にあったため、秀吉と戦うべきか小田原に参陣すべきか、直前まで迷っていたといわれている。政宗は、箱根の底倉に幽閉され、遅参の詰問に来た前田利家に、「利休殿に茶の湯を教えてもらいたい。」と、頼み込んだ。ただ、生き延びるために。茶の湯を。

前田利家への頼みは、豊臣秀吉に伝わり、政宗の言葉を秀吉は気に入りました。伊達政宗は、石垣山城の建設現場に呼び出され、豊臣秀吉に謁見した。その時、政宗は、髪を水引で結び、白麻の死に装束で身を包み、秀吉に謁見しました。「いつでも死ねる。」と、いう覚悟を秀吉に見せたのです。これも、豊臣秀吉に気に入られた。秀吉は、小田原攻め遅参の一件の咎めから、伊達政宗を許し、日を改め、千利休を政宗の宿舎に遣わせた。

千利休は、ゆったりした中にも切れ味鋭い所作で茶を点て、
伊達政宗は、「何と、上方の茶とはさほどに、殺気立っているものなのか。」
千利休:「これは、伊達さまの真似で御座います。」
伊達政宗:「それでは、茶を楽しむ為には、相手に斬られるのを厭わぬと申すのか。」
千利休:「さように御座います。相手に殺されてもよい覚悟の上で飲むのが茶で御座います。」
 

心の渇き

政宗が19歳の時、父親の輝宗が敵に拉致された。政宗は、家臣と共に輝宗を連れ去った敵を追い、見つけるや否や、家臣達に父親もろとも銃撃させた。例え、父親を殺してでも、敵に屈する事をよしとしない伊達政宗の非情さは、周辺の大名達を震撼させた。伊達政宗の母は、伊達家と並ぶ東北の大名、最上義光の妹 義姫である。政宗は、幼い頃 疱瘡にかかり、片目を失った。醜い容貌になった政宗を、母 義姫は嫌い、弟の小次郎を可愛がった。

豊臣秀吉から小田原参陣を求められると、母 義姫は、参陣が遅れると、伊達家は秀吉に滅ぼされる。弟の小次郎をたてて秀吉に詫びようと、家中で義姫は、急先鋒を切った。家中の意見を押し切って出陣しようとする前に、母 義姫は政宗を饗応し、食事に毒を盛った。膳を口にした政宗は突然、腹痛に襲われる。何とか毒消しの薬を服用し、一命を取りとめた。伊達政宗は、母が自分を毒殺しようとたのだと知った。しかし、「子として母を殺すわけにはいかない。」として、自らの手で弟 小次郎を殺した。天正18年(1590年)6月豊臣秀吉の小田原攻めに参陣したのは、この八日後の事である。

政宗が、千利休に茶の湯を教えてもらいたい。と、前田利家に頼み込んだのは、心が渇き切っていたからに違いない。領地である仙台には、古田織部の弟子である清水道閑を招き、茶道とした。
この為、今でも仙台では茶の湯のことを、道閑(どうかん)という。清水道閑は、小堀遠州と織部門下の同門であり、同年であった。

 

茶を飲むとは、許し許されること。

三代将軍 徳川家光も茶の湯を好み、伊達政宗に好意を抱き、しばしば、政宗を呼び出し、政宗の点前で茶を喫し、戦にまつわる話を聞き、楽しんだ。家光もまた、実母である「お江の方」に疎まれた。お江の方は、家光の弟 忠長を可愛がり、家光を廃嫡し、忠長を世継ぎにしようとした。これを察知した、家光の乳母 春日局が、駿府の大御所、徳川家康を訪ね、談判し、家光の世継ぎが正式に決まったのである。
弟 忠長は、寛永元年(1624年)駿河、遠江の二国を与えられ、五十五万石を領し、駿府に居したが、家光と忠長の不仲は収まらず、家光は、領国経営に粗暴な振る舞いありと、寛永八年、忠長を改易し甲府に蟄居させ、更に上州 高崎に移した。忠長は追い詰められ、寛永十二年十二月、自刃。享年28。

寛永十二年正月伊達政宗と小堀遠州は、江戸城二の丸 数寄屋御殿にて、烏帽子直垂(えぼし ひたたれ)姿で向き合っている。正月の二十八日に政宗は家光に献茶することが決まっており、それに向け、稽古をつけて欲しいと遠州は政宗に頼まれた。伊達政宗は遠州から、献茶の手順を熱心に聞いていたが、ふいに「利休殿が言った、泰平の世の茶人とは、そなたの事らしいな。」
政宗は、「我らは、戦場を馳駆してきたが、戦が長引いて喉が渇いたとき、瓢箪の水など、とうに飲み干し、難渋した。そんなおり、わしらは、戦場の川や池、水溜りの水を飲む。傍には味方や敵方の兵たちの死骸がごろごろしておって、水は血で赤く染まっておる。それでも、飲むしかないのだ。」「それゆえ、茶の色を見るとほっとする。飲んでみて、血の味がせぬのが何とも嬉しい。それが、わしの茶だ。」

「利休殿と織部殿の茶にあって、お主に無いのは、罪業(ざいごう)の深さだ。茶は、おのれの罪の深さを知って、許されることを願い、また、人を許すことを誓って飲むものだ。」遠州は、目を閉じ、手をついて、「お教え、肝に銘じまして御座います。」と、いった。

 

家光の業、政宗の業

徳川家康が江戸城に入ってから、御殿山城は「品川御殿」と呼ばれ、歴代将軍鷹狩の休息所として、幕府重臣を招いての茶会の場として利用され、桜の名所として有名であった。寛永十三年(1636年)五月二十一日(旧暦)小堀遠州は徳川幕府 品川御殿にて、三代将軍 徳川家光に茶を献じた。床に掛かったのは、紀貫之と凡河内躬恒の和歌を藤原定家が筆 したもの、「桜散るの文」である。これは、以前 家光から、茶事に掛けるよう仰せつかり、同席していた伊達政宗が謂れの説明を求め、その場で、はらはらと落涙させた、軸である。
「美しき者たちも、いつかは散るのだと思えば、あまりにも儚く、哀れではないか。」
家光は、弟 忠長を、政宗は弟 小次郎を心中 重ねていた。

「桜散る木の下風は寒からで空に知られぬ雪ぞ降りける。」
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咲きて散る。桜散る木の下風は寒くはない。
空には目に見えぬ雪が降っているのだ。
紀貫之
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雪に見立てた桜の花びらが春風に舞い散る様春の情景に熱く燃える、白雪降るありさま。
「我がやどの 花見がてらに来る人は 散りなむのちぞ恋しかるべき。」
我が家は「花見がてらに」来る程度の場所でしょうから、花がなくなればあなたは来ない。私もあなたを 「散りなむのち」に恋しくなる程度の人と思いましょうか。
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            凡河内躬恒(おおしこうち のみつね)
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小堀遠州:「だからこそ、われらは茶で、鬼をひとに戻すのではないか。」
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茶の湯にある心の静けさ、感情の穏やかさ、落ち着いた立居振る舞いは、正しい思考と素直な感情そのもので、茶室の静かな空間に入る前、この世の煩わしきものを置き捨てて入る。これは儀式以上のものがあり、芸術であり、理路整然とした動作であり、精神修養の実践である。礼儀というものは慈愛と謙遜という動機から生じるもので、他者の感情に対する優しさから行われるものであり、人間の豊かな感受性の表現である。真実と誠意が無ければ芝居や見せ物の類に陥る。伊達政宗は「度を超えた礼は、もはや、まやかしである。」と語っている。

出典
「小堀遠州茶友録」著:熊倉功夫
「武士道」著:新渡戸稲造
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この記事を書いたライター

 
昭和44年(1969年) 京都 三条油小路宗林町に生まれる。
伏見桃山在住
松尾株式会社 代表取締役
松尾大地建築事務所 主催 建築家

東洋思想と禅、茶道を学ぶ。

|禅者 茶人 建築家|茶道/茶の湯/侘び寂び/織田信長/村田珠光