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アニマルセラピーが話題になっています。京都市動物園では様々な動物の生態を子供にもわかるように優しく紹介し、触れ合う機会をいろいろ用意しています。また「エサ代サポーター制度」など寄付の取組も行われ、寄付された飼料では剪定枝や野菜、種、豆腐・おから、冷凍ペットフード、麦芽、コールドプレスジュースのパルプなど、種類も豊富で動物たちの健康に役立つことでしょう。そこで、久しぶりにいろいろな動物たちと会うために、京都市動物園に行きました。
京都市動物園のあたりは、平安時代後期に法勝寺が造営されたところです。その寺院の池の中島には、高さが80メートルを超える巨大な塔が築かれました。しかし室町時代になると、法勝寺を含む六勝寺一帯は衰退の一途を辿ります。その後六勝寺の跡地は近郊農村化しますが、幕末期に藩邸が築かれ明治の近代化を迎えました。もし法勝寺の八角九重塔が今も残っていたら、岡崎の姿は今と大きく異なっていたことでしょう。そんなことを想像しながら、八角九重塔と園内を歩きましょう。
ご案内
京都市動物園はコンパクトで、子供が楽しめる身近な動物園だ。だから父母も喜び、大人の顔がほころぶ。何よりロケーションが抜群だ。正面エントランスを入って噴水池前に立てば眼前に東山が広がり、観覧木道に上ってアフリカの草原を見下ろせば、レトロな美術館をバックにキリンやシマウマが遊ぶ様子が見られる。街中にあるこの園でしか見られない光景だ。ここでは異なる種を一緒に飼育する「混合展示」を行い、餌を奪い合わないよう餌の高さや仕切りで調整しているそうだ。
京都市動物園は大正天皇の御成婚を記念し、1903(明治36)年に開園した。当時の展示動物は哺乳類11種、鳥類50種、計61種238点のみ。10周年の13(大正2)年には156種590点(哺乳類48種、鳥類103種、爬虫類4種、両生類1種)と開園当時と較べ種類が約3倍、飼育点数は2倍に拡大した。
動物を見世物とする催しは開園以前から行われていた。まず1873(明治6)年に京都御苑で行われた第二回京都博覧会において、禽獣会が仙道旧院で催され、その後の京都博覧会でも開催された。岡崎公園を造るきっかけとなった95(同28)年の第四回内国勧業博覧会では、会場の南東(現動物園の西北部あたり)に動物館を配置していて、現在の動物園へと繋がっていく。
昭和天皇即位の大礼に際し、1928(昭和3)年に大禮記念京都大博覧会が東、南、西の三会場で開催され、現在の動物園が東会場に組み込まれた。昭和10年に京都市教育部が発行した「動物園の研究」には、動物園の平面図【図】を載せ、動物の居場所を番号で示して小学生にも分かるように工夫されている。
平和な動物園にも悲しい出来事があった。その最たるものは第二次世界大戦だ。その時の様子は動物園HPで詳しく紹介されているが、「京都市動物園80年のあゆみ」(京都市動物園)にはこんな一文も載っている。
44(同19)年3月12日、猛獣類を直ちに処分せよとの軍の命令にライオン4頭、赤熊・日本熊各2頭、北極熊・密熊・馬来熊・虎・満州虎・豹各1頭の合計14頭の猛獣類が処分された時のことだ。「銃殺という手段で処分させられる側の射撃術は拙劣で、死んだ筈の赤熊は翌朝になって未だ呼吸をしており、止むなく8番線の針金で輪をつくり、頸にかけて左右両方から引張り、絞殺している」。
戦後は、46(同21)年から動物園の敷地南側半分、約4,000坪が駐留軍に接収された。このころ飼料調達にも大変苦労し、皮肉にも駐留軍から出された残飯が動物たちの飼料として提供され、飢えをしのいだ。6年後ようやく被接収地が正式に返還され、返還地の整備が55(同30)年にほぼ完了している。
現在の姿は2009(平成21)年に策定した新「京都市動物園構想」に基づくもので、“おとぎの国”や“アフリカの草原”などを整備し、15(同27)年にグランドオープンした。
2020(令和2)年2月、京都市動物園は「いのちかがやく京都市動物園構想2020」を策定した。目指したのは動物園に暮らす動物たちが幸せに生きられること(動物福祉)。そしてその動物たちが繁殖して世代を重ね、動物園の個体群として維持されること(種の保存)だという。動物たちが幸せに暮らしていることそのものが、私たち人間のセラピーであるということなのだ。
京都市動物園の中央付近に古い観覧車がある。この観覧車は1956(昭和31)年建設だから60歳を過ぎているのだが、まだ現役として子どもたちを大空へ運んでいるのだから凄い。文化財に匹敵するこの施設の北西に「法勝寺八角九重塔と石材」の説明板があるのをご存じだろうか。ここには平安時代後期に法勝寺八角九重塔が建っていた。
法勝寺は1075(承保2)年から造営が始まり、金堂・八角九重塔・講堂・阿弥陀堂などの仏堂を備えた、院政期の京都を代表する大寺院である。83(永保3)年に落慶供養が行われた八角九重塔は、金堂の南の池の中島の上に建てられ、高さは27丈(約81メートル)あったとの記録があり、基壇の上に9層の屋根と最下部に裳階(もこし)が取り付く巨大な塔であった。その高さゆえ、塔はたびたび地震や落雷の被害に遭い、1208(承元2)年には落雷で焼失するが、5年後に再建された。しかし、1342(暦応5)年に火災で焼失し、その後再建されることはなかったようだ。
この法勝寺八角九重塔跡の発掘調査が、新「おとぎの国」などの動物園整備工事に先立つ2010(平成22)年に行われた。調査地は観覧車の南側。古くから「塔の壇」と呼ばれ、戦前まで高さ約1.5メートルの高まりが残り、塔跡と推定されていたところだ。
この調査で塔の基壇の下を掘り下げて作られる「掘り込み地業」の跡が、八角形の平面のうち5ヶ所のコーナー部で検出し、その地業の東西幅が約32メートル、総面積約850平方メートルと推測されることから、塔は巨大な建物であったことが明らかになった。そして園内で展示されている石材は、花崗岩製の細長い切石で一端の角が二つ合せると約135度になるように加工されていることから、八角九重塔の基壇に使用されていた石材である可能性があるという。
また塔の周囲からは平安時代から鎌倉時代の瓦が多数出土し、塔には瓦が葺かれていたことがわかったともいう。京都アスニーの京都市平安京創生館には、建都1200年記念で造られた法勝寺復元模型が展示されている。この模型の屋根は檜皮葺きと想定されているが、2010年の調査成果により屋根が瓦葺きであることがわかり、その重さにも耐えうる木構造での再検討も必要になったようだ。
この説明版の北側は“京都の森”だ。中央の棚田を囲むように水禽舎やクマ舎などが建ち、棚田を流れる小川には二つの橋が架かっている。一方の橋には絲桜橋と書かれ、他方は六条通(六条商店街魚棚通)の西洞院川に架けられた橋の親柱を移設したものだ。それでは絲桜橋とは何だろうか?実は動物園の園内に白川が流れているのである。場所は東エントランスを入った西側にあるエミュー舎の南東で園内に流れ込み、フクロウ舎の南で琵琶湖疏水と合流している。
この白川から東の部分は、1920(大正9)年に園用地として拡張した場所(4,231平方メートル)で、同年に橋を架け絲桜橋と命名した。“京都の森”の絲桜橋はそれを表現したものだ。当時、この用地内には草川が疏水に流れ込んでいたので羽衣橋が架けられ、26(同15)年から東門の出改札が始まった。
結局、法勝寺は白川のそばに築かれ、白川と琵琶湖疏水の合流点に動物園が造られたわけだ。
「京都市動物園80年のあゆみ」京都市・京都市動物園 1984年
「法勝寺八角九重塔跡発掘調査現地説明会資料」京都市埋蔵文化財研究所 2010年
「京都市動物園」