地下鉄烏丸線開業前史

5月29日で地下鉄烏丸線が開業して40年になりました。今では京都の中心を貫く大動脈ですが、同線が開業するまでには「生みの苦しみ」として様々な出来事や工夫がありました。今回はそれをふりかえってみましょう。

市電から地下鉄とバスへ

京都市の中心部の公共交通は長年、市電がその中核を担い、市バスが周辺部から中心部へのアクセスを担当していました。しかし1960年代以降のモータリゼーションの波は京都でも例外ではなく、市民や観光客のマイカーが急増し、市電は軌道内に入ってくる自動車に邪魔をされて思うように走れず「時代遅れの乗り物」として次第に遠ざけられるようになってきました。

一方で京都のメインストリートである烏丸通は京都駅からの通勤通学客が多く、市電ではその輸送は限界でした。そこで昭和43(1968)年に開かれた京都市交通対策審議会では、将来的には市電を廃止して地下鉄とバスに再編していくという議論がはじまりました。京都の市営地下鉄の歴史はここから始まると言ってもいいでしょう。

当初の地下鉄の全体構想図 烏丸線は北山~竹田間と明記され、その後南進して三栖までが計画線となっているが、国際会館までの北進はふれられていない。一方、東西線は長岡まで計画線として明記されていた。

その後昭和45(1970)年に市電伏見線(京都駅~中書島 勧進橋~稲荷)がまず廃止され、続いて昭和49年3月に市電烏丸線(烏丸七条~烏丸車庫)が廃止されてバスに転換されました。これは当然、地下鉄烏丸線を建設することが前提でした。この間、昭和46年の都市交通審議会で北山~竹田間10.8kmの地下鉄建設の必要性が運輸大臣に答申されました。それを受け京都市でも準備が進められ、昭和47年2月の京都市会では全会一致で地下鉄建設が決められ、3月には北山~竹田間の高速鉄道の事業免許が申請されました。その後工事施工の認可などを経て、昭和49年11月29日に京都会館第一ホールで多数の市民が参加して起工式が盛大に行われました。アトラクションとして京響による演奏会も開かれる力の入れようでした。

昭和49年11月29日 京都会館第一ホールで盛大に行われた起工式の次第
市電烏丸線廃止1年前に烏丸車庫の局舎に掲げられていた地下鉄烏丸線建設の看板
(昭和48年4月撮影)

地下の文化財が出土

起工式を終えて烏丸通では全区間で「槌音高く工事が始まりました」といきたいところですが、現実は紆余曲折の連続でした。そこで建設にまつわるいくつかのお話をしましょう。

京都の町中はどこを掘っても文化財が出てくると言われていますが、烏丸通は平安京の烏丸小路に当たり、地下の文化財は無視できないエリアです。そこで交通局が主導し、専門の先生方にも参画いただいて「京都市高速鉄道烏丸線遺跡調査会」が結成されました。地下鉄の本体工事の前に烏丸通のセンターラインを中心に東西2~3m、南北8~20m、深さ2~3mの調査のための発掘が何か所かで行われました。その結果、それまで市内中心部ではないであろうと考えられていた弥生時代の住居跡が仏光寺付近で見つかり、一条付近では平安京一条大路の側溝跡が、さらに室町末期の二条御所の石垣跡が出土するなど各時代の遺跡が次々に出てきました。それらの出土品の一部は今も烏丸御池駅に展示されていますが、地下鉄工事は全線に渡って掘り返すわけですから、調査は部分的なものとなり、最終的には全線に渡って「土の中の文化財」が破壊されていったのは事実です。

 

京都駅周辺の工事

そして、当時の国鉄京都駅の真下に駅を建設するという難工事が待っていました。新幹線を含む大きな駅の真下に地下鉄の駅を作るのは当時としては前例のない工事でした。直径1mのコンクリートパイル打込み大きな駅舎(前の3代目駅舎)を支えるなど、京都駅工区の工事は全て国鉄の手によって進められました。それでも地下鉄の真上にあたる旧東口付近は一部撤去され、西口が新設されました。さらに駅の南北をつなぐ地下の自由通路と各ホーム間を結ぶ通路が建設されて東陸橋が撤去されるなど、京都駅自体も地下鉄建設に関わって大規模な整備を余儀なくされました。京都で初の大規模地下街「ポルタ」の建設ももちろん関連のプロジェクトでした。

また東本願寺の前は烏丸通が大きく東に迂回しているのはご存知のことですが、あれは明治の末期に市電を走らせるときにお寺のすぐ前を電車が走るのは困りますと、東本願寺が寺の土地を提供して電車を迂回させた結果なのですが、地下鉄はわん曲して走ることは出来ませんから、いろいろなやり取りを経て「お東さん(東本願寺)のすぐ前の地下」にまっすく敷かれることになりました。

 

工事中の課題

ところで地下鉄は道路の下を走るので用地買収は不要だろうと思いがちですが、出入口など関連施設のために周辺の用地を結構買収しなければできません。一方で財政難の上に、騒音や振動など沿線の住民の不安からくる反対の声も根強く、なかなか全線で着工ということにはなりませんでした。実は御所の西の一条工区が昭和52年6月にもっとも早く竣工するのですが、その時点でまだ未着工の工区が4か所もあったようです。北大路駅工区と紫明工区が着工したのは同年9月、六条工区と七条工区が着工したのは翌53年2月になりました。当時、いち早くこの一条工区の地下トンネルが新聞等で紹介され「もうすぐ地下鉄が走るんだ」とワクワクしたものですが、実はまだ手付かずのところもあったのです。

17の工区 最初に一条工区が竣工したが、その時点でまだ4つの工区が未着工だった。

工事はオープンカット工法といって土留めの鉄板を打ち込んでその内側を掘り、そこにコンクリートのトンネルを作って最後に埋め戻すという方法で進められました。したがって大量の土を掘り出すことになり、その量は150万立方メートルに達しました。当時の交通局のパンフレットには「仮に京都御所全体に掘り出した土を置くと厚さ1.6mになります」という記述がありました。

昭和52年5月発行のパンフレット
オープンカット工法の様子がわかる。

いずれにしろ烏丸通のあちこちで工事をするわけですから、当然車線が減少し渋滞が日常化します。それを見越して京都府警は烏丸通(丸太町~花屋町間)や堀川通(中立売~四条間)にバス優先レーンを整備・指定したのですが、これは京都市内で初めての試みでした。それでも昭和52(1977)年のピーク時は京都駅から烏丸車庫まで市バスが1時間半もかかる事態となりました。それは同年に河原町通の市電が廃止され、その軌道の撤去工事で河原町通が走りにくくなると車が烏丸通に流れてきて引きおこされた現象でした。地下鉄建設と市電の線路撤去が重なって……皮肉なことです。
このほか、井戸が枯れたなどの苦情もあり、新たに水道を引いたエリアもあったようです。

このように各所で課題を克服しながら工事が進められていくのですが、その工期がどんどんと伸びるとともにオイルショックも重なって建設費もかさみ、結果的に1mあたり
1900万円かかったと当時の新聞は報じていました。当初は昭和51(1976)年4月の開業予定でしたが、何度も計画が見直されて最終的には北大路~京都間だけを昭和56(1981)年5月にまず開業させることになったのです。

 

近鉄乗り入れを想定した車両づくり

地下鉄の線路や駅の建設と並行して準備しておかなければならないのが車両の建造です。市電車両しか扱ったことがなかった交通局にとっても大きな電車は初めてのことですから、数年前から設計し車両メーカーに発注します。将来の近鉄乗入れの構想は既にありましたから、近鉄電車と同じ大きさ(1両の長さは20mでドアは片側4つ)にしておかなければなりません。大阪の地下鉄御堂筋線のようにレールの横にもう1本集電用レールを敷く「第三軌条集電」ではなくパンタグラフによる集電ですからそれだけトンネルの断面も大きくなり、これもまた建設費が高くつく要因になりました。

車体はアルミ車体が採用されました。従来、電車は抵抗制御といって抵抗器で電流を変えて電車の速度などを制御していたのですが、それでは抵抗からの熱で地下トンネル内に熱がこもりますから、烏丸線では当時実用化されつつあった半導体によって制御するサイリスタチョッパ制御が採用されました。またブレーキをかけたときのエネルギーを電力に換えて架線に戻す電力回生ブレーキも採用されました。これによって少しでも運転コストを下げようと考えたのです。

 

北大路駅の秘密の線路

ところで、よく新しい鉄道が作られるときは車両のデザインなどが注目されますが、それ以上に大切なことは「車庫をどうするのか」という問題です。大きな電車、それも何両も連結した編成を何本もどこに止めておくのか、どこで検査をするのかということ抜きには鉄道の建設はありえません。烏丸線の当初の建設計画は竹田に車庫を作るというものでしたが、先述のように最初の開業区間が北大路~京都駅となったので車庫の設置場所がありません。そこで北大路駅や京都駅の構内を図のような工夫をして開業にこぎつけます。

実は北大路駅にはホームからは見えない線路が西側にもう1本あり、そこで日頃の検査をしました。今も国際会館行きの電車に乗って、北大路駅に着く直前に目を凝らしていると西側にすっと線路が分かれているのが見て取れます。その先に車両検査用の「秘密の線路」が1本あったのです。そしてこの線路の天井(約16m)に約25m×5mの穴が開けられていてここから電車を1両ずつクレーンで吊り下げて地下に下したのです。

地下に設けられた検査線
天井が空いている部分から1両ずつ降ろされた。

第1編成は開業前年の昭和55(1980)年3月に搬入され、最終的に開業時に必要な4両編成9本、計36両がそろえられました。しかしこれをどのように留置するのかは大問題です。

地下に降ろすためにクレーンで吊り上げられる第1編成
昭和55年(撮影 大西 卓氏)

そこで北大路駅のホームは鞍馬口側の4両分だけを使い、奥の北山側は4両編成がもう1本留置できるような使い方をしました。こうすれば夜間にホームをはさんで4編成が収容できます。京都駅でも同様に南側の竹田方面につなぐ線路にも2本留置するようにして夜間は4編成止めることができました。それでも1編成置くところがありません。先の検査用の地下線路があると考えてしまいますが、そこにも電車が止まっていれば入換えが全くできません。そこで何と、大きな検査を兼ねて地上に1編成分の4両を上げて「留置」していました。このような工夫を7年間続けて、当初は営業をしていたのです。

地上にも検査を兼ねて1編成置くことになった。現在の北大路ビブレの一角にあたる。
夜間は、北大路駅と京都駅に4編成ずつ留置した。

オープニング運転手の確保

もうひとつ大切なことは乗務員をはじめ地下鉄に従事する人を最初はどうして養成するかです。元市電の運転手さんらが相当数地下鉄に移られたようですが、線路が完成し、電車が搬入されてから養成するようでは開業に間に合いません。そこで何回かに分けて大阪市交通局の研修所に通い、ある人は電車の運転免許(動力車操縦者国家試験)を取得し、ある人は駅の管理者としての知識を身に付けられました。ちなみに開業時に必要な要員は約300人でした。

このように地下鉄烏丸線は開業に向けていろいろな苦労がありました。
その後は
昭和63(1988)年6月 京都~竹田間(3.4km)延伸開業 竹田車両基地開設 6両編成化
昭和63(1988)年8月 近鉄との相互乗り入れ開始(当初は新田辺まで)
平成2年(1990)10月 北大路~北山間(1.2km)延伸開業
平成9年(1997)6月  北山~国際会館間(2.6km)延伸開業 全線13.7kmとなる。
などの歩みを重ねて、今日の姿があるのです。新型コロナの影響で乗客も減り経営が厳しくなっている昨今ですが、工事の遅れや建設費の膨張で批判つづきだった開業前、新聞の投書欄には「地下鉄烏丸線は将来きっと京都の大動脈になるので応援しよう」という20歳の青年の声が載せられていました。

岡崎公園に展示されている市電にも「地下鉄40周年」のヘッドマークが、許可を得た愛好者によって取りつけられた。

(2021.06)

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この記事を書いたライター

 
昭和30年京都市生まれ
京都市総合教育センター研究課参与
鉄道友の会京都支部副支部長・事務局長

子どもの頃から鉄道が大好き。
もともと中学校社会科教員ということもあり鉄道を切り口にした地域史や鉄道文化を広めたいと思い、市民向けの講演などにも取り組んでいる。
 
|鉄道友の会京都支部副支部長・事務局長|京都市電/嵐電/京阪電車/鉄道/祇園祭