幻となった弾丸列車構想
現在京都駅には「のぞみ」を中心に定期列車だけでも1日約230本の新幹線が発着しています。1964(昭和39)年10月の開業以来、発展を続けてきた東海道新幹線ですが、当初は京都駅には新幹線を通さない計画であったようです。そもそも東海道新幹線は、戦後復興から高度経済成長にかかる時期、在来線の東海道本線の輸送力が限界に達してきたので、新たな規格(広軌=線路の幅が1435mm)で別線を作って対応しようと計画されたものです。1957(昭和32)年に国鉄サイドから調査が始まり、その後閣議決定を経て運輸省も検討を開始し、国家プロジェクトとして事業が進められていきました。実は同様の計画が戦前からあったのです。大陸への進出の一環として東京~下関間1000kmを9時間で、東京~大阪間を4時間半で結ぶ、「広軌鉄道建設計画」(いわゆる「弾丸列車」)が計画され、1938(昭和13)年から調査が始められていました。現に1941(昭和16)年には後に東海道新幹線が通ることになる新丹那トンネルも着工されました。(貫通したのは1962年9月)現在の東海道新幹線の用地も約1割がこの弾丸列車の建設用地を流用したものです。
戦後の新幹線建設も時代背景こそ違いますが鉄道技術面でみるとこの「弾丸列車」をもう一度実現させようという側面があったのです。つまりできる限り東京~名古屋~大阪を直線的に結んで到達時間を短くしようと考えたのは明らかです。東京~大阪間を旅客は3時間で、貨物は5時間半で結ぶという計画でした。したがって「京都駅には寄ってられない」という当初のコンセプトがいわゆる「京都外し」「京都とばし」につながったとのではないでしょうか。
技術的側面からの「京都外し」
具体的に名古屋~大阪間を直線状に結ぶと京都の市街地を外れ、府の南部を通ることになります。「京都駅を通らない」というのはこのあたりから出てきたのでしょう。一方でそのルートだと鈴鹿山脈を長さ10kmを超えるトンネルでぶち抜かねばなりません。しかしそれは当時の技術力や5年の工期ではとても難しく、結果的に、後に冬季の雪に悩まされますが名古屋から北寄りに向かう関ケ原経由のルートが選ばれました。1961年に、最終的に岐阜羽島に落ち着きましたが、岐阜県内の駅の位置などでそれはそれで様々な経過があるのですがここでは詳細を避けます。その結果、滋賀県米原から京都に向かうルートになったことが京都に新幹線がやってきた大きな要因ではないでしょうか。もちろん一方で当時の京都の政財界による新幹線誘致活動があったのも事実でしょう。なお米原は東海道本線と北陸本線の接続駅ですから営業的には北陸地方の旅客を新幹線につなぐことができた意義は大きかったでしょう。今も米原発着の特急列車が1時間に1本走っているのはその証です。
東海道新幹線の建設工事は1959年4月に先の新丹那トンネルの東口で起工式が挙行され、世紀の大事業がスタートしました。そして米原から湖東平野を西下する新幹線は大津から音羽山トンネルを抜けて山科に、そして東山トンネルをくぐって京都駅に入ってきますが、この両トンネルの工事は1960年に着工されています。つまり岐阜県内のルートの確定よりも先に音羽山・東山両トンネルを掘り始めていますから遅くとも1959年の前半には京都駅に新幹線を通すことは確実になったと考えるのが自然です。もっとも在来線と並行して京都駅に進入するため上り方も下り方も微妙なカーブがついてしまいました。
のぞみの「京都とばし」
ところで今、新幹線のメイン列車は「のぞみ」ですが、「のぞみ」は1992(平成4)年3月改正で走り出しました。最高速度270km/hの300系電車の登場で東京~新大阪間2時間30分運転が可能となり、最初は上下1往復の設定でした。実はその時の下り「のぞみ301号」(東京6:00発 新大阪8:30着)は名古屋と京都を通過するダイヤだったのです。ここでは実際に「京都とばし」がおこってしまいました。その原因は夜間の線路の保守作業によって早朝は徐行区間が発生するために、名古屋と京都に止めていては2時間半で新大阪に着けないための苦肉の策だったのです。その後、保守技術の改善により1番列車の徐行運転は解消され、「のぞみ」も京都駅に止まるようになりました。
「そうだ 京都行こう」のロングランキャンペーンもあって連日大賑わいの新幹線京都駅ですが、東海道新幹線建設計画時、「のぞみ」開業時、それぞれ別の要因で「京都外し」「京都とばし」が話題になりました。そして品川~名古屋間で建設が始まったリニア中央新幹線ですが、この先京都との関係はどうなることでしょう。しかしいつの時代も東京~大阪間をできる限り速く結ぶことが鉄道建設計画の底にあることだけは確かなようです。
最後にもう一つ余談を。先に戦前の「弾丸列車」を取り上げましたが、実はその「遺構」が京都にもあるのです。東海道線(びわこ線)の東山トンネルの西側の出入り口が同線を跨ぐ東山通りの今熊野の橋から見えますが、向かって左側から3つ目のトンネル(下り内側線)の出口を見ますと他のトンネルよりもやや大きいのがわかります。これは戦時中に輸送力増強を図るために3本目のトンネルを掘ったのですが、途中で弾丸列車の計画が出てきて、広軌の大きな車両を通すかもしれないということでトンネル断面を大きくしたためなのです。お近くを通られたら一度観察してみてください。
(2018.12)
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