明智光秀シリーズ
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戦国時代の京都はどんな様子だったのか?意外と知られていないテーマです。とくに信長が上洛する前の京都は、ドラマなどでも取り上げられることが少ないのでイメージが湧きにくいのではないでしょうか?信長が颯爽と京の都に現れたのが1568年です。それ以前の100年間の京都をひじょーにザックリと、そして少々デフォルメしていうと「住みたくない街ランキング№1」の街、それが戦国京都だったのです。この実態を知ることで、安土桃山時代の京都の劇的な変化が鮮明になります。
庶民にとっての戦国時代とは?
戦国というと英雄がキラ星のごとく集結した時代、というイメージが強いですよね。織田信長・豊臣秀吉・徳川家康、武田信玄・上杉謙信、さらに歴女ブームもあって伊達政宗や真田幸村らの人気も高いです。たしかにドラマやゲーム的にはそうなんですが、実際に暮らしていた人々にとってはどんな時代だったのか?戦国の京都を語る前に、まずは市民目線による戦国時代を知っていただきたいと思います。
市民にとっての戦国時代をひと言でいえば「無政府状態」といえます。もちろん朝廷や幕府といった形式上の政府はあるのですが、それが機能してなかったのが戦国という時代です。現代の感覚でいえば「消費税が50%くらいあるのに街は荒れ放題。社会福祉もないし、ドロボーはきてもケーサツはきてくれない」そんな社会です。なぜそうなったのかを語ると長くなりすぎるので、あらためて論じたいと思います。とにかく「オレ達の税金はどこにいった?」が戦国時代だと思ってください。
そんな戦国日本にあって、住みたくない街1位にランキングされちゃったのが千年の都・京都であります。あたり前のことですが、タイムマシンに乗って「国民100万人による総選挙!」みたいなアンケートをしてきたわけではありません。「たぶん、そうだったんじゃないかな」という私の想像です。その私の脳内アンケートによる「住みたくない街の全然うれしくない1位」に輝いたその理由をみていきましょう。
権力者がコロコロ変わり過ぎ!
前述のとおり、戦国時代の京都には天皇も将軍も鎮座していました。でもそれはタテマエで、実際の権力を握っていたのは天皇でも将軍でもありません。では誰が権力を握っていたのか。カンタンにいえば将軍の部下です。ヒドい時には将軍の部下の部下のそのまた部下が実質の支配者みたいな時もありました。会社にたとえると「将軍=社長」とするなら、課長か係長くらいの人が経営の全権を握っている状態です。このワケわからん状況をカッコよく言ったのが「下剋上」なんですね。しかも、その課長だか係長だかは履歴書も出さないまま、いつの間にかオフィスに自分の机を持っていた…みたいなことすらありました。
これは京都だけではなく、どこの地方も似たり寄ったりのことが起こっていました。ただ、京都には形式上とはいえ権威のある天皇と将軍がいたので、その権威を利用してやろうと、全国からツワモノやチミモウリョウたちが押し寄せてくるわけです。このツワモノたちが行儀よくしてくれれば問題ないのですが、そんなわけはありません。市民としては、迷惑極まりないですよね。いずれにしても、地位や肩書きよりも実態としての権力の座をめぐって政争と戦争がくり返されていた。それが戦国京都の特徴です。
治安が悪すぎ!
まあ、権力者がコロコロ変わろうが、安心して暮らせれば問題ないのですが、そもそも治安がまったくもって悪すぎるのです。応仁の乱で京都が焼け野原となったことは有名ですが、実はその後も何度か京都は炎上しました。それが、大名同士の戦いなら理解の範ちゅうだと思いますが、驚きなのは宗教戦争が多発していたことです。
まずは1532年、山科に本拠を置く本願寺が法華宗と争い炎上焼失。本願寺は大坂石山に逃れることになります。そしてこの時は勝者であった法華宗が、4年後には逆に攻め込まれす。比叡山延暦寺の僧兵が京都市中になだれ込み法華宗21もの寺をことごとく焼き払いました。このときの被害は応仁の乱以上ともいわれています。そして戦争が起こると、雑兵が乱暴狼藉をはたらくのは古今東西の常。農民も町民も自分と家族を守るために武器を持つようになります。「力こそ正義」がまかり通る、いや通さざるを得ない社会だったわけです。
物価が高すぎ!
アベノミクスでも物価UPを目指したように、経済学的にいうと物価が高いことは必ずしも悪いわけではありません。でも、その物価高の理由がヒドすぎるのです。最大の理由はあらゆる商売が「独占」状態で、価格は売り手の思うがままだったことです。現代日本の政治課題のひとつが「規制緩和」ですが、この時代はさらにひどい「規制規制規制規制」のがんじがらめ経済で、権力者や有力寺社のやりたい放題でした。
仮に「私は庶民の味方、価格破壊でより良い品をより安く」みたいなことをいう商人が現われたとしましょう。彼はどうなるか。権力者お抱えの怖~いお兄さんがやってきて「ワレ、調子乗るんもエエかげんにしとかんと世の中、月夜の晩ばっかりやと思とったら大間違いやで!」てな脅し文句を掛けられます。しかもそれがタダの脅しではなく有言実行されてしまうのです。こうして「座」とよばれる仲間内での談合価格は守られ、物価は超高水準をキープするわけです。
「アカンとこどり」の最悪環境
ここまでを整理すると、戦国時代の京都とはこんな社会です。
・治安最悪で自分の身は自分で守らなければならない、究極の自己責任社会
・がんじがらめ規制による超インフレ経済
「あれ?」と思われた方もいらっしゃるかと思います。そう、よく考えると普通はこの2つは両立しません。
↓
現代の日本では「規制緩和」が求められていますよね。
「規制をなくす→自由経済(競争)→物価が下がる」からです。でも、一方で
「自由経済→政府が関与しない→企業も国民も自己責任」
が、もれなくセットでついてきます。
言ってみれば
「いろいろ口出しはするけど、そのかわり皆さんの生活を守ります」が規制社会。
「みんな自由にしていいよ。そのかわり自分のことは自分でがんばってね」が自己責任社会です。
規制されるか、自己責任をとるか、フツーはどちらか一方になるはずです。なのにこの時代は、規制だけされて政府は守ってくれない、という「いいとこどり」ならぬ「アカンとこどり」社会なわけです。たまりませんよね。加えて京都名物の「日本一ムシ暑~い夏と底冷えの冬」が毎年毎年やってくるのです。つまり社会も経済も気候も最悪の環境、それが戦国京都なわけです。
町衆エネルギーと花開く京文化
さて、ここまでお読みいただいた皆さんは、こんな街に住んでみたいと思いますか?そんなワケないですよね。でも、何ごともオモテがあればウラがある。悪い面ばっかりでもないんですよ。たとえば、現代に連なる産業や文化が大きく花開いたのが、戦国時代の京都なんです。
その代表が西陣織です。応仁の乱で地方に避難していた職人たちが、さまざまな技術を身につけて京の都に戻ってきました。そうして生まれたのが、京都の一大産業となった西陣織だったのです。また千家による茶道、池坊家による華道が確立したのも戦国京都のことでした。さらに銀閣寺が建てられたのも、有名な「洛中洛外図屏風」を狩野永徳が描き上げたのもこの時代です。荒廃した社会だからこそ、人々は美に救いを求めたのかもしれません。
また、町衆と呼ばれる裕福な商工業者たちが「自己責任」の名の通り自治的な社会を作りあげます。その典型が祇園祭です。応仁の乱で焼け野原と化したため、約30年間も中断していた祇園祭が復活できたのは、この町衆の力があればこそでした。特に1533年、祇園社が属していた延暦寺の圧力により、祇園祭の祭礼が中止に追い込まれましたが、町衆は「神事これ無くとも山鉾渡したし(神社の行事がなくても、山鉾巡行だけは行いたい)」という声明を出し、祭を存続させます。こうした町衆の熱意、そして西陣織などの織物技術があいまって絢爛豪華な山鉾巡行の原型ができあがりました。
このように戦国期の京都はとても住みにくい街ではありました。しかし、その一方で町衆を突き動かす何かが京都にはありました。彼ら町衆のエネルギーによって、京都に活気が戻りはじめます。そして、京都は次の時代への扉を開けるべく、稀代の風雲児・織田信長の登場を待つことになります。
(編集部/吉川哲史)
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