明智光秀は織田信長・信忠親子を殺害し、いわゆる「本能寺の変」を成功させました。
光秀はその後、主に近江方面の鎮圧を進めますが、その間、山陽地方にいた羽柴秀吉が、備前(岡山県)方面から凄まじい勢いで京都を目指し、進軍していました。
光秀は、大和の大名、筒井順慶に圧力をかけるために河内にいましたが、山城の下鳥羽から、久我を経て西岡の勝龍寺城(このとき村井貞勝が治めていたが、本能寺の変で戦死したため無主)へ転進、この周辺に兵士を展開して、戦いに備えていました。
羽柴軍は、信長の遺児 信孝らと合流し、明智軍と対峙しました。

勝竜寺城址

勝竜寺城址

天正10(1582)年、旧暦6月13日。山崎の合戦の始まりです。
 戦いは午後、16時(申の刻)に始まったとされています。この日は雨天でしたが、京都で鉄砲の音を聞き、書き留めた人がいるからです。(『鉄放(「砲」)の音数刻止まず』:兼見卿記)
夏ですから、日暮れは遅かったでしょう。とはいえ、大軍同士の野戦にしては比較的遅い開始時間です。3時間ほどで夜になると、決着がつかない場合もありますし、勝った側も追撃するのに難儀します。現に、敗れた光秀は、夜陰に紛れて東へと脱出するのです。
 では、山崎の戦いは、なぜ遅がけに始まったのか。

 どうやら、戦いに臨んでいた、羽柴秀吉や、織田信孝らにとっても、最初の想定より早い開戦だったという指摘があるのです。
 
雑誌 「歴史群像」学研 2018年6月号(No.149)
 『明智光秀の山崎合戦(橋場日月)』よりp91

 織田信孝は、信長の遺児で、名目上は羽柴軍の総大将でした。彼は6月13日、上宮天満宮の天神馬場(大阪府高槻市)から、大和の筒井順慶に書面で連絡を取りました。順慶は、光秀の使者 藤田伝五が帰ったのち、秀吉に味方する旨の誓書を送っていました。

上宮天満宮:天神馬場を望む

上宮天満宮:天神馬場を望む

信孝は、順慶に、上山城口へ出陣するように指示していますが、ここには「明日」戦う、つまり6月14日に光秀方と一戦を交えるという内容が含まれていました。
 秀吉からも順慶に連絡があり、「信孝様は今日川を越え高槻に着陣され、明日(14日)は西岡方面に進出される予定である」と記していました。
 橋場氏はこの食い違い、つまり書状に記された開戦予定より実際の開戦が早まったことについて、二つの推論を立てています。
 1)敵の諜報を逆用し、噂を広めておいた上で一日早め、敵の虚を突くという情報戦
 2)前後の天候が影響を与えた。13日は雨。14日は日中まで雨で、晴れに向かいつつあった。羽柴軍首脳は、守る光秀軍が鉄砲を得意とすることをよく知っており、雨が降って射撃不能の状態であるうちに攻勢をかけたいと思い、羽柴方から開戦を早めた

 これら橋場氏の推論を手がかりに、私も考えてみたいと思います。
 まず、1)について。筒井順慶は最後まで帰属を迷った立場であり、彼に伝えた情報が光秀に筒抜けになる可能性はありうると思います。羽柴軍首脳は、それを踏まえてあえて誤情報を流した…のかもしれません。ポイントは、羽柴軍から明智軍に向けて先に戦いを仕掛けたことを確認できるかどうかでしょう。
 次に、2)について。仮説としては、筋が通っており、面白い着眼点だと思います。こちらも、「羽柴軍から戦いを始めたこと」の確認が必要です。ただ、他の書籍等を読み比べると、気になる点がありました。ここの整合性を説明出来なければ、この説は成り立ちにくくなります。
 というのは、冒頭にも挙げましたが、6月13日の午後、京都で、山崎からの銃声を何時間にも渡って聞いたひとがいるのです。吉田社(京都市左京区)の神主であった吉田兼見です。山崎合戦では、雨天にも関わらず鉄砲を使っていたのです。
 「雨火縄」という言葉があるそうです。火縄銃は雨の時には使いにくくなります。少々の雨天でも耐えるように、火縄を硝石で煮て、漆を塗り、改良したものです。また、城・陣地などの屋内から外に射撃するのであれば、雨天でも射撃可能です。兼見が聞いたのは、何かしら工夫することで撃てるようにした火縄銃の音だったのでしょう。
 したがって、2)の説が成り立つには、
 ・明智軍の鉄砲隊が雨で射撃できなくなるか、射撃量が減少すると羽柴軍首脳が考えた
  しかし、実際には雨対策がなされており、火縄銃は使用された
 と、いう経緯でなければいけませんね。

 それでは、他の書籍からも、山崎合戦の推移を確かめてみましょう。
 
 信長を中心とした著作が多い、谷口克広氏。彼の記述は以下の通りです。
 「これまで通り、『浅野家文書』『天正記』を中心に、補足資料として『豊鑑』を使いながら記述してみよう。
 秀吉方の先鋒は高山・中川たち摂津衆、それに指揮官として堀秀政が付いて、中央、つまり街道沿いを進んでいる。(中略)秀吉方先鋒隊に対して、光秀方から攻撃を加えたのが、戦いの端緒だった」
(「秀吉戦記(谷口克広)」学研M文庫 2001 p217)
光秀方から攻撃、とあります。

ルイス・フロイスの記述は以下の通り。
先鋒隊のひとつ、高山右近(キリスト洗礼名 ジュスト)の部隊は、山崎の村に入りましたが、明智軍が思ったより早く、近くに展開していることに気づきます。
「(ジュスト・右近は)まだ三里以上も後方にいた羽柴に対し、急信をもって出来得る限り速やかに来着するように要請した」
「右近殿は、羽柴の軍勢が遅延するのを見、自ら赴いて現下の危険を報告しようとしたが、まさにその時、明智の軍勢が村の門を叩き始めた。そこで右近殿はこの上待つべきではないと考えた」
「約一千名余の彼の兵とともに門を開き、敵を目指して突撃した」
(完訳フロイス日本史3 安土城と本能寺の変 中公文庫 松田毅一:川崎桃太役 p172)

高槻城址と高山右近像

高槻城址と高山右近像

フロイスの記述は、キリスト教徒だった高山右近本人から聞きとった可能性が高いです。迫る明智軍に対応を迷い、一度は自分が本営に連絡に行こうとして、諦める姿には臨場感がありますね。
いかがでしょう。上記二つを見れば、むしろ明智軍の方がイニシアチブを取って仕掛けたと読み取れます。
では明智軍にとって、午後の時間帯に攻撃を仕掛ける理由があるとすれば、それは何でしょうか。私なりに推察してみました。

1)明智軍は兵力面で劣勢だった(恐らく羽柴軍の約半数)。敵が勢揃いし、戦闘態勢を整える前に、機先を制して先鋒隊に攻撃を加え、敗走させられれば、決戦時の兵力差を埋めることが出来ると考えた
2)雨天時は軍勢間の連絡・移動がしにくい。明智軍の先制攻撃に対して後方にいる部隊の集結が遅れると考えた
3)筒井順慶は羽柴軍に協力するという意向を表明していた。これを明智軍首脳が察知していた場合、翌14日の朝には、淀川を越えて順慶隊が羽柴軍に参戦する可能性があるため、これを恐れ、筒井隊が離れているうちに開戦しようと考えた
4)万が一、明智軍が敗退したとしても、開戦後まもなく日暮れになるため、体制を立て直したり、逃走したりする時間が稼げると考えた

上記四点、ひとつ、ふたつでも実際の開戦理由につながっていれば面白いのですが。みなさんはどう思われますか。

しかし、明智軍の先制攻撃にも関わらず、高山右近ら摂津衆は反攻に出ます。
フロイスの記述を信じるなら、戦闘は山崎の集落の北の端、黒門から始まりました。

山崎東黒門跡の案内板

山崎東黒門跡の案内板

羽柴軍は、西国街道を北へ進み、光秀の本陣推定地、恵解山古墳(長岡京市)へと攻撃を加えたようです。古墳から銃弾が発掘されています。

恵解山古墳

恵解山古墳

兵力にまさる羽柴軍は、最終的に、淀川沿いに別の部隊(池田隊ら)を回り込ませ、明智軍の側面~背面を取って、いわゆる「包囲」の体制を作り上げた、と言われています。光秀は抗戦を諦めて、いったん勝竜寺城に退却します。
そして、夜に東へ向けて脱出するのですが、本拠地である坂本へ辿り着く前に、落ち武者狩りに遭って命を落とすのです。

両軍が対峙したという小泉川

両軍が対峙したという小泉川

以上、山崎合戦が午後に始まったこと、それが羽柴軍首脳にとっては半日早い開戦であったこと、その理由を考えてみました。

余談ですが、筒井順慶は山崎合戦に参加せず「洞ヶ峠」という言葉を作ることになってしまいました。もし、合戦が事前の連絡より早まったことで、動けなかったのだとすれば、彼にとっては不本意な話かもしれませんね。

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三宅 徹

三宅徹
写真家。京都の風景と祭事を中心に、その伝統と文化を捉えるべく撮影している。やすらい祭の学区に生まれ、葵祭の学区に育つ。いちど京都を出たことで地元の魅力に目覚め、友人に各地の名所やそれにまつわる歴史、逸話を紹介しているうち、必要にかられて写真の撮影を始める。SNSなどで公開していた作品が出版社などの目に止まり、書籍や観光誌の写真担当に起用されることになる。最近は写真撮影に加えて、撮影技法や京都の歴史などに関する講演会やコラム提供も行っている。
主な実績:京都観光Navi(京都市観光協会公式HP) 「京都四大行事」コーナーほか
     しかけにときめく「京都名庭園」(著者 烏賀陽百合 誠文堂新光社)
     しかけに感動する「京都名庭園」(同上)
     いちどは行ってみたい京都「絶景庭園」(著者 烏賀陽百合 光文社知恵の森文庫)
     阪急電鉄 車内紙「TOKK」2018年11月15日号 表紙他
     京都の中のドイツ 青地伯水編 春風社
               ほか、雑誌、書籍、ホームページへの写真提供多数。
Facebookページ: きょうのいろ”Colors of Kyoto”
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