「平安」と呼ばれた京の都。しかし、平安の2文字とはウラハラに、たびたび戦乱の舞台として歴史を彩ってきたのが京都です。その中で最大の合戦を挙げよといわれたら、明智光秀と羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が雌雄を決した「山崎の戦い」を推したいと思います。主君・信長の仇討ちとして光秀を葬り、秀吉が天下人レースに名乗りを挙げたことで有名な一戦です。


京都史上最大級の戦い「山崎の合戦」

「京都で一番の戦いてゆうたら『応仁の乱』ちゃうの?」といった声が聞こえそうですね。「生粋の京都人にとって“この前の戦争”とは応仁の乱のこと」という逸話があるように、応仁の乱は京都の代表的な戦いとされています。全国が東西真っ二つに分かれ、10年もの長期におよんだこの戦、たしかにスケール感はあります。でも、じゃあ東西どちらが勝ったの?と問われて答えられる人は・・・、少ないですよね。応仁の乱とは何か?「それが戦国時代突入へのGOサインとなった戦い」これに尽きると思います。どっちが勝ったかなんて、ものすごくどーでもいいことです。ちなみに諸説あるようですが、引き分け説が有力だそうです。

ほかにも源平の台頭と平氏隆盛をもたらした「保元の乱」「平治の乱」、関ヶ原の前哨戦となった「伏見城の戦い」、さらに幕末の「蛤御門の変」「鳥羽伏見の戦い」など京都ではさまざまな戦いがあり、どれもそれなりのドラマを持っています。とはいえ、これらの戦いが歴史へ大きく影響したかというと、それほどでもありません。強いて挙げれば保元の乱、平治の乱でしょうが、「誰と誰が戦い、どうなったか」を言える人は少ないと思います。つまりマイナーなわけですね。そこへいくと、山崎の合戦は歴史に与えたインパクトめっちゃ大であり、かつ勝者と敗者が明確です。勝った秀吉は天下人への大きな一歩を踏み出し、敗れた光秀は敗走中に土民に襲われ無残な最期を遂げます。

もし、光秀が勝っていたらどうなったか?明智将軍が誕生したかどうかはわかりませんが、信長時代とは異なった政治体制となったのは間違いないでしょう。つまり、どちらが勝っても新しい歴史がつくられる、それを決める戦いが山崎の戦いであり、私が京都最大の戦いとするユエンです。

では、山崎の戦いの勝者と敗者を分けたものは何だったのか。そこには3つのポイントがありました。①スピード②フンギリ③ハッタリ。この3つが光秀と秀吉の明と暗を分けた。私はそう考えます。でも①はともかく、②と③は「なんのこっちゃ?」ですよね。これからじっくりと説明しますので、おつきあいください。


神速天下を制す。

秀吉は「日本一出世した男」として有名ですが、同時に「日本一ラッキーな男」でもあると思います。なにがラッキーかって?まずは本能寺の変直後の秀吉の状況を説明しましょう。秀吉は備中(今の岡山県西部)高松城において、中国地方の雄・毛利輝元と戦っていました。もし「信長死す」の報を毛利が知ったらどうなるでしょう。信長あっての秀吉であり、後ろ盾を失った秀吉軍など何するものぞ!と毛利勢の士気は一気にあがり、秀吉は窮地に立たされることになります。そして実際そうなるはずでした。しかし、ここでとんでもない「カン違い」が秀吉を救うのです。光秀が毛利に差しむけた使者が、間違って秀吉の陣中に迷い込み、事の次第を告げてしまったのです。この説の信憑性を問う声は今も残っていますが、いずれにしても敵方毛利より先に事変をに知ったこと、これが最大の幸運です。

さて、事態を把握した秀吉は一瞬、呆然自失となりますが、ここからが秀吉の本領発揮です。すぐに気持ちとアタマを切替え、毛利とはサッサと和睦し、すぐさま京都へ向かいます。当時秀吉が陣をかまえていた備中から京都山崎までの約200kmをわずか7日間で駆けぬけました。最高で1日で55kmを走破したという説もあります。

世に名高い「中国大返し」の行程。

世に名高い「中国大返し」の行程。

今よりも道路状況が遥かに悪いこと、2万人の大行列であることなど悪条件に加え、なにより陣中ですからヨロイを纏い刀や槍を持ってこのスピードはあり得ないとされています。一説にはこれら武具武器を船便で運び、兵士たちは裸で走ったともいわれています。私はこの話をきいて、某宅配会社の懐かしのCM「ゴルフは手ぶらでなくっちゃ!」のセリフを思い出しました。

いっぽうの光秀。秀吉が鬼神の勢いで迫っていることなどつゆ知らず、言っちゃあ悪いですが、あっちでウロウロ、こっちでノロノロとムダに時間を費やしていました。そして気がつけば秀吉勢が目前に迫り「えらいこっちゃーー!!」となってしまったわけです。
 

「いちかばちか」のフンギリ。

ところで、秀吉は一目散に戦地である京都に向かったわけではありません。当時の秀吉の本拠地である播磨姫路城でいったん兵士たちを休憩させます。ここで彼が何をしたか。なんと城の蔵にあった金銀をすべて兵士に与えたのです。これぞ有効なバラマキ施策。そら皆ハリキリますよね。「でも、お金を全部使っちゃって大丈夫なの?」なんて後先を考えていたら、ここ一番の戦いには勝てません。この勝負どころの見切りのよさが秀吉にはありました。

いっぽうの光秀は、迫り来る秀吉を迎えるため山崎の地に兵を向けます。しかし、光秀は自分の領地を守るため、各地に守備兵を残すなど兵力を分散させます。結果、戦場に集まった軍勢は秀吉軍40,000に対し16,000。数字ですでに負けていました。どうせ負ければ守備兵も全滅する可能性が大なのだから、ここは戦力を戦場という一点に集中すべきだったと思います。光秀には別のもっと深い考えがあったのかもしれませんが、やはり思いきりというかフンギリが悪かったように思います。

ところで今、兵力差の話をしましたが、状況次第でこの差は逆転する可能性もありました。てゆうか、光秀はそのつもりでした。というのは兵力の中身をみると、お互いの純粋な家臣、つまり本隊といえるのは、秀吉20,000vs光秀16,000といわれています。では秀吉陣営の残り20,000もの兵士はどこからやって来たのか。京都の周辺にいた有力大名がこの戦いに馳せ参じたわけです。

山崎の戦いとはある種、現代の選挙戦のようなものでありました。いかに自分に投票、つまり加勢してくれる人を増やすかが勝負の分かれ目。丹羽長秀、池田恒興、細川藤孝、高山右近、筒井順慶etc…。選挙でいえば浮動票のような存在である彼らがどちらに味方するかで、戦局が決まるという状況でした。特に光秀からすれば、旧知の友ともいえる細川藤孝は絶対に味方になってくれると信じていました。なので本能寺の変後、ただち細川家に手紙を書き加勢を求める使者を送ったのですが、あろうことか藤孝は「大恩ある信長様を裏切るとは何事か!」といって書状を破ったそうです。さらに髪を剃って、信長への弔意を示し、そのまま僧となりました。そのうえ息子忠興に離縁するように命じます。なぜなら忠興の妻は光秀の娘であったからです。この光秀の娘こそ絶世の美女かつ悲劇のヒロインとして有名な細川ガラシャその人でありました。といった具合に、光秀がラブコールを送った大名からはことごとくフラれてしまったのでした。


ハッタリも実力のうち。

これに対し秀吉選挙事務所はどうしたか。なんと「不死身の信長様は、本能寺からうまく逃れご存命であった」とガセネタを流すのです。これけっこう効果がありますよね。信長存命で光秀に味方するということは、すなわち反逆者と同罪になるわけですから。「でも、ウソがバレたらどうするの?」な~んてこと気にしてたら、生き馬の目を抜くと言われた戦国時代に生き残ることはできません。バレたらバレたで「あれれれ~、おっかしーな」とシレ―ッとした顔でごまかすか、「いやいや、私の心の目には今も信長様がしっかと映っているのじゃ!」と涙ながらに迫真の演技をするくらいのこと、秀吉ならやりそうです。とにかくハッタリでもなんでも秀吉には「主君に背いた裏切り者を討つ」という大義名分がありました。

さて、そのころ光秀はどうしていたか。信長の居城であった安土城に4日間居座り、朝廷との交渉に臨んでいました。朝廷からなんらかのお墨付きを得ることで、光秀なりの大義を得ようとしたのだと思います。もちろんそれはそれで正解です。しかし、私のギモンは「なぜ安土城に4日間もいたのか」ということです。安土城に入ることで信長の後継者であることをアピールし、さらには信長の遺産である金銀を軍資金とする狙いがあったのでしょう。それはそれで意味がありますが、それよりも京の都にデーンと居座り、自分がなぜ信長を討ったのかアピールすべきだったと思います。「信長は確かに自分の主君であったが、信長とて天皇の臣下に過ぎない。その天皇をないがしろにし、あまつさえ天皇の位を乗りこえようとした信長は、とんでもない不義不忠者である。だから自分が信長を成敗したのだ」とでもいえば、天皇を全面的にバックにつけることもできたのです。それこそ最大の大義です。でも、そういった動きは見せずに、地味~にコツコツと朝廷への献金と交渉をくり返していたのでした。


常識人・光秀の限界。

以上、光秀と秀吉の明暗をわけた3つの理由「スピード」「フンギリ」「ハッタリ」について述べました。光秀は、本能寺の変という最大の「奇策」にうって出たにもかかわらず、その後の戦略はオーソドックスというか極めて平凡な策をとりました。そこには秀吉のように「ナリフリかまってちゃ勝てねーよ」的フンギリがなかった。だからハッタリもきかないし、スピードも出ない。両者を分けたものは、この差だったように感じます。光秀には学あるが故、常識の枠でしか動けなかった。皮肉な不幸でした。

阪急京都線・大山崎駅。隣の駅が合戦のターニングポイントとなった天王山のある西山天王山駅。

阪急京都線・大山崎駅。隣の駅が合戦のターニングポイントとなった天王山のある西山天王山駅。

と、ここまで、光秀にとっては散々な記事になりましたが、最後に京都人の視点から光秀を持ち上げたいと思います。この戦いの地に山崎を選んだのは光秀でした。私はここに光秀の京都への想いを感じとります。洛中、つまり京都市街で秀吉を迎え撃つこともできたはずです。そうすれば「天皇への不忠者・信長の路線を引き継いだ秀吉vs天皇を守る光秀」という構図を描くこともでき、それこそ大義を掲げることも可能だったと思います。しかし、高い教養を備え、有職故実に通じる光秀には京都への憧れ、畏敬の念があったのではないでしょうか。それゆえ京都を戦いの地とすることはできなかった。信長は京都に価値を見出さなかったが、光秀には京都への想いがあった。京都と歴史にロマンを求める私としては、そうであってほしいと願うのでありました。


(編集部/吉川哲史)

【参考文献】
歴史人「光秀と秀吉」
歴史人「戦国時代の全国勢力変遷地図」
戦国武将危機突破学/童門冬二
戦国武将の「政治力」/瀧澤中
学校では教えてくれない戦国史の授業/井沢元彦
明智光秀と本能寺の変/小和田哲男


明智光秀シリーズ

▶︎信長の魔手から京都を救った男/光秀特集 【本能寺編】
▶︎[明智光秀特集]番外編「戦国時代の京都は、住みたくない街No.1?」
▶︎「信長の野望」が語る光秀の真価と戦国京都 【光秀特集】
▶︎[明智光秀特集]番外編「京都が生んだ大悪人」/明智光秀をサクッと知る6


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