間もなく運命の6月2日がやってきます。私は毎年この日が近づくと、あるお寺へお参りに行きます。京都市上京区にある阿弥陀寺というお寺で、いくつもある「織田信長を祀っている」寺の1つです。ところで、なぜ6月2日が運命の日なのか。そうです、この日が日本史上最大のクーデーター「本能寺の変」が起こった日だからです。

私的信長論

私は自称・シロート戦国マニアです。もちろん織田信長という武将にはとても興味があります。でも好きか嫌いかと問われれば「・・・」となります。もし彼が現代にいたとしたら、正直ちょっと怖いからです。まして、自分の上司が信長だったら、絶対イヤです。ではありますが、信長のことをとても尊敬しているのも事実です。その理由は2つ。京都の話からはそれてしまいますが、少しだけお付きあいください。1つは、ものすごい戦略眼をもっていたこと。つまり目的を明確に定め、かつ判断基準がハッキリしていたということ。もう1つは、その戦略を確実に実現するための行動力と意志がハンパなかったということです。その端的な例が、桶狭間の合戦と延暦寺焼き討ちです。

信長は、かなり早い段階から天下を見すえていました。その天下を治めるためには上洛が必須であること、それが戦国時代の常識とされていました。つまり、最優先すべきは上洛です。ここで注目されるのが「桶狭間の合戦」後の信長の行動です。

桶狭間とは、東海地方の超大国・今川義元に攻め入られた尾張の田舎大名・織田信長が大番狂わせで返り討ちにし、一躍全国デビューした一戦です。織田軍は今川軍に勝ちその大将の首もとりました。フツーならそのまま今川領に攻め入り織田家の領地を増やそうとしますよね。ところが信長は今川家には見向きもしませんでした。

桶狭間合戦後の東海地方。普通なら今川氏真を攻撃するところだが…。

桶狭間合戦後の東海地方。普通なら今川氏真を攻撃するところだが…。

スゴイぞ信長!

なぜ信長は今川の地をスルーしたのか?領地に魅力がなかったから?いえいえ、今川領は他国もうらやむ宝の山といえる豊かな土地でした。しかも今川家を継いだ氏真は「超」がつくバカ殿さま。攻撃するなら今が絶好のチャンスでした。それでも動かない信長。ますますナゾが深まりましたね。でも、答えはとってもシンプルなものでした。今川家が織田家より東、つまり京都とは反対の方向だったからです。先ほども申したとおり、目的地は京都です。であれば、その反対方向に進むことには何の意味もない、と判断したわけです。まあ、実際には様ざまな事情が入り組んだ末のことだとは思いますが、信長以外の武将ではあれば、10人中10人まで東へ兵を向けていたと思います。つまり、目先の利益に惑わされず本当の目的をしっかりと見すえていたということです。これって口で言うのはカンタンですが、それが実行できないからみんなタイヘンなんです。たとえば「夏までに絶対やせる!」とダイエットを誓ったはずが、目の前にあるたった1つのケーキの誘惑にすら勝てず、ついつい手を出してしまい後から悔やむ…。「あるある」とうなずいた方も多いのでは?でもそれが人間なんですよね。それだけに、信長の判断力と誘惑に負けない意志ってスゴいと思うんです。ついでにいえば家康と違って信長にはスリムなイメージがあるのもナットクです。

続いて延暦寺焼き討ちについて。信長の悪逆非道ぶりが濃縮還元されたかのようにいわれる、現代でも非難ゴーゴーの事件です。当時も信長の部下ですら反対するものがいたほどだそうです。もちろん延暦寺にも言い分は山ほどあったでしょう。しかし、信長には信長の大義がありました。手段を選んでいては、そして敵を作ることを恐れていては、大義を果たすことは永遠にできない。彼はそう考えていたと思います。「人生、義理と人情を欠かしちゃ生きていけねえよ」と思っている(つもりの)私には、とてもマネできません。でも、だからこそスゴイと思います。

以上を整理しますと、回り道をせず目的に向かって一直線に突っ走るその戦略眼。目的を成し遂げるために必要であるならば、あらゆる非難を恐れずに実行するゆるぎない意志力。この2つを備えた織田信長に少しでもあやかることができれば、との思いで信長公のお墓にお参りしているのでした。

天皇家に迫る信長

ところで、明智光秀が善政を敷いた京都・福知山市では「本能寺の変 原因説50 総選挙」が盛りあがっているそうです。50以上もあるといわれている本能寺の変の原因。その中から“推し説”を投票し、結果を事変当日6月2日早朝に発表するというものです。しかし、50ってスゴイ数です。ミステリー小説のポイントはアリバイと動機っていわれますが、その動機が50もあったらコナン君も古畑任三郎もお手上げの迷宮事件です。実際、本能寺の変の原因は事件後438年たった今も解明されていません。そこでKyoto Love.Kyotoでは「京都」をキーワードに本能寺の変に迫ってみたいと思います。

まずは事件当時の信長と天皇、そして京都との関係からみてみましょう。よく信長は天皇家を乗っ取ろうとしたのではないかといわれますが、私は天皇を超越する存在になろうとしたのだと考えています。「どういうこと?」をマトモに語ると長編になるので、お約束の「ザックリ説明」にしますね。よく言われるのが、信長が神そのものになろうとしたことです。実際、安土城内に自らを御神体とする摠見寺を建立し、自分の誕生日には領民に拝礼に来るように要求するなど、いくつかの痕跡が見られます。「神である自分と天皇とではどっちがエライのか?」を世論に突きつけたのではないでしょうか。

もう1つは中国・明に攻め入り日本の領土にしようとした疑惑です。信長は日本・中国・朝鮮の3国全体の王となり、日本1国の王にすぎない天皇よりも上に立とうとしたのではないかという説があります(図1、図2参照)。あれっ?これって似たような話がありましたよね。そう、信長の後継者である豊臣秀吉が画策し、ものの見事に大コケした朝鮮出兵=唐入りです。この遠征は秀吉オリジナルのアイデアではなく、信長の構想を引き継いだのではないかともいわれています。常に地球儀を眺めていたという信長の視野には海の向こうが見えていたはずなので、あり得ない話でもないと思います。いずれにしても時の正親町天皇に退位を迫るなど、天皇そして朝廷に様ざまな干渉、そして圧力をかけ始めた信長が天皇家をそのままにしたとは考えにくいところです。

【図1】室町幕府崩壊後の日本国のカタチ。形式上ではあるが、日本国内は天皇がトップで、貴族や信長をはじめとする武士を従えていた。

【図1】室町幕府崩壊後の日本国のカタチ。形式上ではあるが、日本国内は天皇がトップで、貴族や信長をはじめとする武士を従えていた。

【図2】私的「信長が目指した東アジアの秩序」の想像図。日本のトップが天皇であることに変わりはないが、日中朝3国のトップに信長が立つことで天皇より上の地位となる。

【図2】私的「信長が目指した東アジアの秩序」の想像図。日本のトップが天皇であることに変わりはないが、日中朝3国のトップに信長が立つことで天皇より上の地位となる。

400年前にもあった「大坂都」構想

さて、もし信長が天皇を超える存在として君臨したらどうなるか。京都が京都であるのは、天皇という絶対的な権威をもつ存在が、ずーーっと居たからです。でも、その天皇の権威を超えるものが現れたら、京都の街の価値もダダ下がりしたと思われます。

さらに、天皇ウンヌンの話は別にして、都が京都から大坂になっていた可能性もあったと考えられます。大坂城は秀吉が建てたもので、現在の大阪の礎を築いたのも秀吉であるとされています。本来なら時の権力者の居城がある大坂が都になってもおかしくなかったはず。実際、大坂城築城の前後に「京都を大坂に引き取る(大坂に都を遷す)」と書かれた文書があったそうです。でも、そうはなりませんでした。なぜって?秀吉といえば関白。では関白とはなにか。天皇の代行者、それが関白です。つまり天皇あっての関白秀吉なわけで、京都の権威を否定するわけにはいかなかった。それが実情でした。なので京都に政庁となる聚楽第を築いたのです。

さて、秀吉の代名詞といえるこの大坂城も、じつは「信長はんのアイデアをパクったんとちゃうか?」疑惑があります。信長はもともと大坂に拠点を構えるつもりで計画を進めていたのではないか。ところが本能寺で横死したため計画が頓挫し、それを秀吉がシレっとした顔で自分の城として建てたのではないか?という説です。秀吉は、さまざまな事情により天皇の部下である関白の座を選びましたが、信長は天皇とは関係なく絶対的な地位を目指していました。さらに経済を重視する信長の目が商業都市・大坂に向くのは自然の流れ。ですから信長が健在であれば京都に何の未練もなく大坂に都を遷していた可能性は大いにあったのではないかと思います。

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