▶︎御火焚と大根焚 〜京の民俗歳時記:第2話〜
▶︎年を取ってくると……京のくらしと京ことば
▶︎五山の送り火へ、静かな祈り【六斎念仏】
▶︎珠光 茶の湯 出逢い。茶道とは。何モノか。 その6
師走は「大祓え」のための月?
旧暦12月、すなわち師走は、如何なる意味を有する月だったのだろうか。
今日の暦では冬至が終わるとわずか1週間ほどで新年を迎える。
しかし旧暦では、冬至の後まだもう一月過ぎないと正月はやってこない。
つまり旧暦の師走とは、現代の私たちの感覚からまったく消え去ってしまった幻の一月だということになろう。
私は、師走とは、元来「大祓え」のための月だったのではないかと考えている。
近世までの京都では、師走には朝廷を中心として大祓えという行事が行われていた。
これは人間や家屋、その他の生活空間にしみ付いた“罪”や“ケガレ”あるいは“厄”などを祓い清めるための儀礼であり、本来の大祓えは、人間をはじめとする諸々の心身を祓い清め、私たちが住む世界の更新を図ることが目的だったのである。
浄土宗総本山の知恩院では、12月2日から4日まで、阿弥陀堂において仏名会が行われる。
室町時代には、仏名会は「仏名懺悔」とよばれ、年の暮れに過去・現在・未来の三千仏の名を唱えて、1年間の罪やケガレを懴悔することを目的として行われていたという。
これは換言すれば、仏教でいう滅罪信仰としての「仏名悔過」の行事だったということができるだろう。
特に吉祥天に対する「吉祥悔過」が一切の罪を滅ぼすとされていた。
このように、歳末に寺院で行われる悔過を意味する行事は、宮中の大祓えと共通する儀礼であると考えられる。
そもそも悔過とは、仏教において三宝に対して自ら犯した罪や過ちを悔い改めることを意味する。
さらに悔過を行うと同時に利益を得ることを目的として行う儀式・法要などの行事の事を指す場合もあるといわれている。
対象となる本尊は、薬師如来である場合には「薬師悔過」、吉祥天である場合には「吉祥悔過」、観音菩薩である場合には「観音悔過」と称した。
平安時代中期には悔過と称する行事は衰退していくが、代わって年明けに行われる修正会や修二会などが悔過の行事として行われるようになる。
また、仏名悔過の儀礼には導師として奈良や京都の高僧が招聘された。
これらの導師たちが東西に馳せ走ることから、旧暦12月は「師走」とよばれるようになったという説があるが、おそらく師走の語源はそこにあるのだろう。
法然上人像の御身拭式
ところで、知恩院では年末の12月25日には、御影堂に安置されている法然上人像の御身拭式が行われる。
1年間に積もった塵汚を浄土門主みずから祓い清める法会である。
この御身拭式は江戸時代初期の慶安3年(1650)に始まったといわれている。
信徒にとっては、法然上人像を間近に拝む1年に1度の機会であり、浄土門主が御身拭に使用した布は、信仰の篤い信徒に「御身拭袈裟」として授与される。
この法然上人像の御身拭式も、また歳末の大祓えとしての意味を有していると考えられる。
かくれ念仏とは?
もうひとつ、寺院で行われる祓いを意味する行事を紹介しよう。
12月13日から大晦日にかけて、六波羅蜜寺で行われる「かくれ念仏」は、正式には「空也踊躍念仏」と称する。
西国33カ所観音霊場の第17番札所とされる六波羅蜜寺は、10世紀に空也上人によって開創されたと伝えられる寺である。
空也上人は、平安時代のすぐれた民間宗教者である。
幼少の時から諸国を遊行し、道路の修復や橋の建設等にはげみ、野に遺棄された死者があれば、念仏を唱えて供養をした。
空也上人は京の都でも市井に隠れて活動し、貧者や病者の救済に尽力したので「市の聖」とよばれた。
天慶5(951)年、京の都で疫病が大流行し、多数の死者が出たので、空也上人はその救済に立ちあがり、一体の十一面観音菩薩像を造立して、悪疫を鎮めようとした。
その観音像を安置したのが東山の西光寺、すなわち後の六波羅蜜寺である。
六波羅蜜寺がある地は町名を「轆轤町」という。
この地名はしゃれこうべに因むものであり、東山の山麓に広がる鳥辺野の墓地の入り口にあたる場所である。
空也上人は、ちょうどこの世とあの世の境にあたる場所に、観音像を安置したのである。
六波羅蜜寺は空也上人の弟子であった中信の時に天台宗の末寺となるが、16世紀末には真言宗に改宗する。
それとともに信仰においても室町時代には福神的な観音信仰が主流となり庶民の篤い信仰を集めるようになる。
「かくれ念仏」は空也上人が疫病退散を願って唱え踊った念仏に端を発する。
それが鎌倉時代には「念仏」は弾圧の対象となり、特に天台密教は念仏を特に厳しく取り締まった。
そのため、踊り念仏は周囲に知られないように、密かに行われるようになったという。
弾圧されたのは法然が唱えた「専修念仏」、つまり阿弥陀一仏のみに帰依するという教義に基づく念仏である。
念仏そのものは大乗仏教での基本的修行であり、中世には各宗派で念仏は行われている。
しかし、法然が立てた「専修念仏」はそれまでの念仏と異なり、各宗派から仏教の破壊、異端として批判され、弾圧の対象とされた。
かくれ念仏はあくまでも「密かに行われた念仏」であるゆえ、今でも夕暮れの本堂内陣で、動作は当時のままに密やかに行われている。
外から聞かれても念仏だとわからないように「南無阿弥陀仏」ではなく、「モ―ダーナンマイトー」と唱え、すぐに止めることができる。
かくれ念仏の所作は、鉦を打ちながら頭を下げてかがんだ姿勢で身体を左右に揺らしながら、ゆったりとした動作で行われる。
導師による「おかっしゃい」という合図があれば、すぐに道内の奥に駆け込み、念仏を唱えていたことを悟られないようにする。
まさに弾圧から逃れるために秘法であったことを彷彿とさせるものである。
「かくれ念仏」は、このように13日から毎日行われ、いよいよ大晦日に結願する。
そして新しい年を迎えることになる。
宮中や神社で行われる大祓えと同様の意味を有する行事は、寺院行事としても行われていたことがわかった。
しかしいずれにせよ、一般庶民はどちらにも関わる機会は稀であったに違いない。
とすれば、京の都に住む多くの庶民たちは、如何にして一年の罪や災厄、ケガレを祓ったのだろうか。
芸能者に1年の罪やケガレを託す
佛教大学所蔵の『十二月あそひ』という近世初期の絵巻物の「師走」の絵の中に、「節季候」とよばれる人たちが登場する。
その詞書の中には「年月暮て、節季候とおとりはねて、物をこふところもあり」という記載がある。
「踊りはねて、物をこう」ということから、節季候とは、年の暮れに家々を廻って何らかの芸能を披露する、門付けの芸能民だったことがうかがえる。
このような役割は、中世以来雑種賎民の仕事とされた。
4人ほどが一組となり、裏白を頭に載せ、布で顔を覆い、肩から細長い袋状のものをさげて家々を廻ったようである。
年末年始の諸芸能は、千秋万歳や大黒舞などを中心とするいわゆる「祝芸」であり、節季候もその一種だと考えられる。
裏白を頭に載せていることが興味深く、裏白が正月の注連飾りに使用されることから、祓いの意味があったものと考えられる。
ところで、江戸時代初期の貞享2年(1685)に著されたという『日次紀事』の12月12日の項に次のような記載がみられる。
今日より乞人笠の上にしだの葉を挿し、赤布巾を以て面を覆い、両目を出、二人或は四人相共に人家に入りて庭上に踊を催し、米銭を乞、是謂節季候、則節季歳暮を告る詞也、倭俗候の字也の字に代りて之を用ふ、二十七、八日に至て止む。
これによれば、節季候は12月12日から27日あるいは28日まで、京の市中を廻っていたことがわかる。
また節季候の語源については、「節季歳暮を告る詞」に由来することもわかる。
京にくらす庶民たちは、節季候のような芸能者に1年の罪やケガレを託すことで、自ら「祓え」をしていたのではないだろうか。
年末の門付け芸能は、庶民たちにとっての大祓えの一形態だったのではないかと考えられる。
一昔前の人々は、年末年始、さまざまな方法を用いて、懸命に自らの罪やケガレを祓うことに努めた。
ところが今日では、多くの人が自らの罪やケガレを省みることもなく、ただ新年の初詣でさまざまな現世利益を祈願するのみである。
それはすなわち、現代社会のくらしのすべてにおいて、回顧や内省といった心情を改めて意識する機会があまりにもなさ過ぎることが原因ではないのだろうか。
先人たちが伝えてきた「大祓え」や「悔過」という、現代社会とはまるで縁のないような営みこそ、今日を生きる私たちがその意味を深く再考し、少なくともそれに代わる、何らかの内省の機会を持たなくてはならないのではないかと思う。