明治期に瓶詰で発売された稲竈鉱泉(現笠置温泉) 京の湯浴み万華鏡(其の三)

史蹟笠置山觀光圖

 「天然炭酸水 湧く期待」。 

 こんな見出しの新聞記事をご記憶の方もいらっしゃるかもしれません。
明治初期から昭和まで現在の京都府相楽郡笠置町で天然の炭酸水が瓶詰にされ発売されており、その復活に向けた調査が始まるという報道(朝日新聞2016年8月24日朝刊)でした。

有市炭酸泉広告

これこそが、本連載で嵐山温泉・天龍寺温泉と順に取り上げてきた『日本鉱泉誌』(明治19年刊、3巻本)に、京都の鉱泉の3番目として記された"稲竃(イナガマ)鉱泉"のことなのです。
そこで今回は府下南部に目を移し、この笠置町の鉱泉をとりあげていきたいと思います。

 『日本鉱泉誌』(中巻415頁)にはつぎのように記されています(現代文に改めカッコ内を加筆)。 
  
稲竃鑛泉 相楽郡上有市村字稲竈 (現笠置町) 
◯泉質 炭酸泉
完全な透明で臭いは無く、飲むと少し刺激のある味がする。反応は弱酸性なので煮沸すると白色の沈殿を生じる。(含有成分は略)
温度(華氏)64度(摂氏約18度)
◯位置景況 この地は本村の人家から3町(約330m)ほど離れた所。泉は木津川の中央の岩石の間から湧出している。これを汲み取って販売し飲用に供している。道路は険悪なので、近年、崕石(がけいし)を切り開き、採取に便利なようにした。笠置まで半里(約2km。現JR笠置駅までは約4kmある)、童仙房(現南山城村内)には1里ほど(約4km。ただし実際には10km以上ある)
◯発見 明治5(1882)年2月11日
 
この鉱泉は江戸時代の書物にも登場します。
宝暦4年(1754)刊とされる『山城名跡巡行志』に“稲竈”という項目があり、“当村(北大河原村)ニ在り、河中ニ巌アリテ是ヲ云フ。潮水湧き出デテ食用ニ充てズ”〔原文は漢文〕と書かれていることから、江戸時代にはその存在は知られていたということがわかります。
でも飲用はしなかったようです。

そもそもこの稲竈鉱泉の価値を見出したのは、明治の初期に理化学者として有名だった明石博高(ひろあきら)だとされています。
明石は東京遷都により活気がなくなった京都の産業を復興するために、すでに大阪にもあった舎密局(せいみきょく・舎密とは化学のこと)の京都における設立を府知事に要望し、力を尽くした人です。
明治5年には、オランダ人薬学者アントン・ヨハネス・ヘールツと明石が、この鉱泉の化学分析結果を公表したのですが、使用した版木が、幸いなことに今も京都学・歴彩館(旧府立総合資料館)に残っています。

その日本語部分(片面はオランダ語)の1枚目を、文字起こししてみました。
 

山城相楽郡有市村稲竈鉱泉定性分析表

〇此水ハ完全透明ニシテ無色無臭ナリ
〇其味ハ微シク刺激収斂シ鹽性酸泉ノ味ヒナリ
〇本重ハ摂氏七度ニテ一、零六三五ナリ
〇「勒伽摸斯」(ラクムース*)ニテ験スルニ弱酸ヲ微ス
〇此水ハ炭酸気ヲ多量ニ溶和スルヲ以テ震盪
 スレハ泡沫ヲ発シ炭酸気游離ス
〇煮沸スル時ハ炭酸石灰ノ強キ白色沈垽ヲ生
 ス而メ同時ニ過量ノ炭酸ヲ游離ス
〇石灰ヲ加フレハ炭酸石灰多ク沈殿ス
                 (後略)
*筆者注記:勒伽摸斯=ラクムースとはlakmoes(オランダ語)の音訳で、酸性・アルカリ性の判定に用いるリトマス(試験)を指すと思われる。

稲竈鉱泉定性分析表版木(和蘭対訳2枚組の1枚目)

この紹介を先にみた『日本鉱泉誌』と比較すると、「透明ニシテ無色無臭」のあたりは重なっていますが、摂氏7度の状態での比重(本重)が1.0635であるなどの記載は分析結果ならではのものです。
また、震わせると泡がたくさん出る、としているあたりは、この鉱泉が炭酸水であることを『鉱泉誌』よりもいっそう強く示しているようにも見えます。

同じ歴彩館に所蔵されている京都府史関係の史料にも、明治7年の簿冊に「相楽郡上有市村の木津川にて炭酸泉を発見し、飲剤として害なきにより、舎密局をして発売せしむ」(簿冊名:京都府史第1編 第45号 政治部戸口類提要 民俗類提要 衛生類提要)という明治5年の記録が残っています。

大正になって刊行された『京都府誌』(大正4[1915]年)にも、『日本鉱泉誌』にはみられない詳しい情報が記されており、さすがは地元と感心します。
泉源については「大河原村大字南大河原小字西谷にあり、本泉は笠置駅を去る東方一里(約3.9㎞)、大河原駅より西方捷径を木津川に沿って下ること約七町(約750m)、南岸の岩石中より湧出」(下巻、413頁、現代文にした)と具体的で泉源の場所が記載されていいます。
ただ、現在河中に岩盤が露出しているのは北岸寄り(発電所側)なので、なかなか位置の特定は困難です。

稲竈鉱泉の湧出口付近

これ以前、つまり明治期の炭酸水の販売の様子は、新聞広告から窺い知ることが出来ます。
まずは明治17年(1884)8月23日の朝日新聞に掲載された下記の広告が目を引きます。

明治17年の新聞広告

炭酸泉は「稲竃ト称スル岩間ノ裂渠ヨリ常ニ激々ト湧出」していて、京都舎密局が明治5年に試験した結果、一番効果があるのが胃弱、続いて消化不良、疝気(大小腸等下腹部の痛み)、胸肺の病、黄疸、リューマチの他、どんな病状にも効き目があるのだと誇らしげに宣伝しています。
定価は1本十銭だったこともわかります。

そして翌明治18年の6月24日の朝日新聞には、瓶から勢いよくコルク栓が抜ける図入りの広告が登場します。

明治18年の新聞広告

ご覧のとおりその内容は、「山城稲竈。といふ所にて天然にわき出る此薬水はもろもろの病を治す効能は是迄度々大医方の用ヒテ」と名医も太鼓判!的な効き目をアピールし、さらに「尚又近来同種類泉諸方より出るといへ共功能ハ同質之論にあらず見くらべて知るべし」と類似品との差を強調するものとなっています。
この炭酸泉の販売を請け負っていたのは大阪道修町の掛見助松という薬問屋でした。
道修町は、ご存知の方も多いと思いますが、日本の医薬品産業発祥の地と言われ、現在では医薬品に関する資料館も複数あります。

なお一般に当時の炭酸泉は今のような玉入れ瓶ではなく、キュウリ型のガラス瓶にコルクの栓を針金で縛り付けたものだったようです。
飲むときに針金をゆるめると、ポンと高い音をたてて栓が飛び去るので、鉄砲水といわれ、京都人の味覚を驚かせていたとか(竹村俊則『新撰京都名所圖會』(巻4「舎密局址」)。
鉄砲水といえば明治30年代に発売されたという"有馬炭酸鉄砲水"が、平成になって復刻されたという話題もありました。

話を稲竃鉱泉にもどしますと、もちろんこれは、飲用に供されただけではありません。
『京都府温泉誌』(昭和59年刊、81頁)によれば、明治30年(1897)頃には、この鉱泉のそばに温泉旅館が建てられています。
田山花袋が大正7年刊行の本で、木津川の笠置山の対岸にある"有市鉱泉"として次のように触れているのはこの旅館だと推測されます。

「温泉のないこの附近では旅客がよく出かけて行く。それに、流石に関西線第一の山水と言われているところだけあって、木津川の谷が美しい。笠置山の聳えている形も好い。(中略)そして笠置の元弘帝の古蹟を見て、帰りは、木津川の対岸の温泉に一夜静かに泊まるのは、興が多い旅である。」(『温泉めぐり』岩波文庫165-167頁)

同じ頃に刊行された『相楽郡誌』には「之を汲みて人造温泉を業とするもの二あり一を有市炭酸温泉といひ一を笠置炭酸温泉と云ふ」(大正9年刊、408頁)とあります。
「二あり」という2館の位置関係はわかりませんが、交通が不便だったため笠置駅の近くに移転したのがその名も"笠置温泉"の笠置館、ということです(『京都府温泉誌』に記載された笠置館主岩田氏の談より)。

旧笠置館

笠置館では舟で鉱水を運んで浴用としていましたが、昭和25年には源泉から3㎞のパイプを敷設。
しかし、昭和28年のジェーン台風、34年の伊勢湾台風の被害をうけ、パイプが流れてしまったのです。
その後今度は、源泉が関西電力相楽発電所取水用溢水ダムの中に取り込まれたこともあり、源泉地での修復工事が困難となってしまいます。
こうして笠置館では鉱泉の利用休止を余儀なくされ、"温泉"旅館の看板をおろして料理を提供していましたが、残念ながら昨年の9月に閉館しています。

いっぽう昭和の中頃には、泉源から下流へ2キロほどの木津川を見下ろせる位置に笠置観光ホテルという宿泊施設が開業されました。
これは稲竃の泉源を利用したものではなく、掘削して噴出させた温泉です。
笠置大光天温泉と命名され、泉質はナトリウム、炭酸、アルカリ性で54度の温度があり、神経痛、関節痛、五十肩という痛み、冷え性、切り傷、皮膚症、疲労回復に効果があるとされていましたが、昭和の終わりに廃業。
温泉入湯料金1,000円、入湯付弁当が2,000円、1泊2食付きは6,500円だったようです。

旧笠置観光ホテル

平成に入ってからは、京都府笠置町所有の温浴施設「わかさぎ温泉 笠置いこいの館」が別の泉源を利用して少し離れた場所に開業(平成9年)しました。
いいお湯でしたが安定した経営はなかなか難しいようで、令和元年(2019)から営業を休止しています。
ですのでいまは、かつて温泉地として栄えたこの笠置町で温泉を楽しむことはできない状況となっています。

                *

今回は主に、炭酸泉を飲用した例をとりあげました。
笠置鉱泉については、日本で最初に販売された炭酸水、といった紹介がされることもあります。
しかしここには、単に面白くて珍しいうんちくネタ、という以上の何かがある気がします。

さきほど、『京都府誌』(大正4年)の下巻に"笠置鉱泉"がとりあげられている部分を引用しました。
興味深いことにそれが登場するのは「飲食物」という章の中の「鉱泉」という節においてなのです。
そこには「浴用」の他に「内服用」という見出しが付されています。炭酸水として商品化されたこの笠置鉱泉だけでなく計7箇所の温泉・鉱泉が列挙され、「慢性貧血諸症」「清涼消渇薬として(中略)夏時炎天の際の飲料」等、「内用」や「内服用」としての効用が説かれていることが目をひきます。

江戸時代まで日本では鉱泉を飲むという習慣はあまりありませんでした。
しかしこの『府誌』には、鉱泉に関して「浴用」の他に当然のように「内服用」の効能の項目があり、「飲食物」というくくりのなかで登場していることに改めて驚かされます。
日本が医学のお手本にしたドイツの影響が、この時期までにいかに広まり定着したかを垣間みることができるからです。

いまもヨーロッパの温泉では温泉の飲用がめずらしくなく、蛇口をひねれば温泉が飲めるという施設もあります。
温泉医の指示に従って、湯治客は流れ出てくる温泉水をコップに注ぎ、15分くらいかけてゆっくりと飲みます。
しかし今日の日本では、ふたたび江戸の頃の感覚に舞い戻ったのか、"飲めること"を主なアピールポイントにしている温泉はそんなに多くはありません。
そんななかで、稲竃・笠置鉱泉は特別な存在といえるのではないでしょうか。

それは現在の相楽発電所の目の前の川から湧いていたはず……。
でもいまや、その正確な位置をさぐることも難しい地味な存在です。
しかし今回その飲用の歴史をひもとくと、"いかに飲めるのか"、"飲むといかに病が癒えるのか"というまなざしでこの鉱泉が注目され、大いに盛り上がっていた時期があったことが見えてきました。

温泉がただ浸かるだけのものではなかった時代。
ここだけでなく日本全国の温泉・鉱泉が、"いかに内服できるのか"という観点でも評価されていた時代。
そんな時代があったことの静かな証人。
それがこの笠置の稲竃なのかもしれません。

湧出口とされる場所

謝辞:稲竃鉱泉泉質成分分析版木のうち、「勒伽摸斯」(ラクムース)の判読にあたっては、公益財団法人中央温泉研究所の滝沢英夫氏および泉質分析の第一人者である甘露寺泰雄先生のご教示を得ました。記して感謝申し上げます。

よかったらシェアしてね!

この記事を書いたライター

 
奈良女子大学大学院博士後期課程修了。
文学博士。
専門は民俗学・温泉学・観光学。
日本温泉地域学会幹事。
元ミス少女フレンド(講談社)。

現在、奈良女子大学・関西学院大学・佛教大学・嵯峨美術大学等で非常勤講師を務める。
佛教大学四条センターで温泉関係の講座、「温泉観光実践士養成講座」で温泉地の歴史の講師を担当しています。
どちらの講座もどなたでも出席できます。お待ちしております。

|日本温泉地域学会幹事|銭湯/観光地/嵐山/温泉/江戸時代