▶︎望月に照らされ 祇園祭
▶︎大船鉾保存会代表理事 木村 宣介 祇園祭は疫病に負けたのか
▶︎祇園祭「鷹山」2022年の本格復帰へ向けて
▶︎祇園祭は疫病に負けたのか 最終話
祇園祭が始まるとか終えるとか、自分でも中学生の作文みたいで稚拙だなと思いますが。月初に「祇園祭あります。の違和感」という記事を書いたので、自身へのアンサーソングのようなコラムを前編と後編に分けて書きたいと思います。
【関連記事】祇園祭あります。の違和感山鉾と神輿の関係を尋ねられることは多い。たいていは「山鉾がお清めいただいた市中に、八坂の大神様が神輿に乗っておいでになって…」と教科書的な答えをすることが多いのだが、今日私がお伝えしたいのは山鉾の方々の神輿(八坂の大神)への敬意と想いだ。三若輿丁は「我々こそが祇園祭!」のような思いの強い方が多く、山鉾に関心が薄かったり、中には山鉾巡行を神事と思ってない人もいるようだ。かくいう私も神輿を出す前に「ここからが祇園祭のクライマックス」のようなことを言って輿丁を鼓舞することがある。しかしこれから私がご紹介する山鉾の重鎮の言(げん)を聞いていただければ、神輿会の人のそのような考えは少し変わるかもしれない。いや変わってほしいと願っている。「神輿あっての山鉾」とも言えるが「山鉾あっての神輿」もまた真なりで祇園祭とは一体のものだ。
さて今年の先祭も後祭も宵山風情を楽しみながら多くの山鉾を廻らせていただいた。いくつかの山や鉾では会所に上がらせていただき役員の方々と親しくお話をさせていただけた。私の立場を慮っていただいていることもあるのだろうが、神輿会の人が想像している以上に、山鉾の役員の方々は八坂の大神をお迎えするという意識を高くもたれている。神輿会の中だけを見ているとわからない山鉾人の神輿への想いに触れることができ、実にたくさんのことを教えていただいた。知識ではなく「祇園祭の心」をだ。今年、山鉾で重責を担われている方々とお話をさせていただいた幾つかのエピソードをここで短くご紹介したい。
7月10日神輿洗の八坂神社境内に山鉾連合会の木村幾次郎理事長のお姿があった。理事長としてのお務めではなく私人として来られているご様子であった。
【関連記事】山鉾連合会理事長が語る「祇園祭は疫病に負けたのか」木村 幾次郎私から近づくと「吉川さん…」と親しくお声かけをいただき「中御座のおみこっさん(神輿)はこんな鐶(カン)の音でしたかいな…」と尋ねられた。後頭部をガーンと打たれたような衝撃を受けた。山鉾連合会の理事長さんが、神輿の音を知ってはるのか!?と。今日の中御座神輿には東御座の轅(ナガエ)と鐶がついているからとか、担いでいるのが四若だからとかそんな理由はもうどうでもよかった。木村理事長が記憶されていた中御座の鐶の音と、今日の鐶の音が違うと感じられたその直感的な音感の鋭さに私は戦慄を覚えた。幼い頃から長刀鉾の囃子方としてご活躍してこられた木村理事長だからこそ感じられた疑問だったのであろう。ほんの十年ほど前までは祇園囃子はみな同じだと思っていた自分が今さらながら恥ずかしくなった。
そして後祭の宵山で訪ねたのは山鉾連合会の元理事長であられる北観音山の吉田孝次郎先生だ。北観音山の前にある吉田家の前にちょうど孝次郎先生が立っておられ、そこに門川市長が通りかかかられたという偶然も重なった。神輿会にとっては2014年に後祭の山鉾巡行を復活させられた理事長さんと言えばわかるだろう。そのことに触れると「たしかに私が復活させました。神事をもとに戻すために。」とはっきり言い切られた。網代が敷かれた簾戸(夏障子)のお座敷に招き入れていただき屏風を愛でながら一献を傾けさせていただいた。せっかくの機会なので今年の私の自問自答テーマである「魅せる祭、やりたい祭の是非」を思い切って孝次郎先生に投げかけた。返ってきた答えは思いのほか単純であった。「信仰は大切であるが、都市祭礼なのだから魅せる祭りになるのは必然だ」というものであった。吉田家には江戸時代まで三若輿丁が着ていた青い鱗紋の半纏が飾られている。
この日は大船鉾も訪ねた。木村理事長は不在であったが、立木副理事長とお酒を酌み交わして語ることができた。
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立木さんとは祇園祭を離れても旧知の間柄である。そんなご縁もあって大船鉾が唐櫃巡行を始められた2012年であったか、17日神幸祭では京都市役所前で大休止をする中御座(三若神輿)にお迎え囃子をお願いした。当時はまだ合同巡行の時代だった。大船鉾にとっては昼間の唐櫃巡行を終えて、夜にお囃子を奉納するこということであり、私が考えていた以上に大変であったようだ。それでも「お神輿を迎える奉納囃子ができるとは、巡行よりありがたい!」と三若からの申し出を喜んでいただいたという。巡行よりありがたいはさすがに冗談だろうが、今も17日の市役所で神輿を迎える奉納囃子は続き、24日還幸祭の四条新町では鉾の解体を終えたか終えていないかの役員のみなさんが神輿を迎えていただいている。この大船鉾の音頭取りの力綱は三若神輿会(三条台若中)が寄進させていただいたものである。
例年の還幸祭の中御座三若神輿は四条通でたくさんお山鉾との接点を持っている。室町では月鉾の会所前で斎藤理事長にお迎えいただき神輿の差し上げをさせていただく。新町では鉾の解体でお忙しい中を木村理事長はじめ大船鉾の役員さんにお迎えいただき、西洞院の郭巨山前では平岡理事長にお迎えいただき差し上げをさせていただく。そして大休止のあとの三条衣棚では鷹山のお囃子に迎えられる。6月に鷹山の山田理事長とお話をさせていただいた折には、196年ぶりの復活のお話とともに、来年以降は巡行のあと神輿を迎えるまでに鷹山を解体せねばならないからそのシミュレーションを今年やってみると伺った。これら山鉾人(やまほこびと)の神輿への思いは、三若関係者でも知らない人が多いだろう。我々、神輿人(みこしびと)としてなんともありがたいことではないだろうか。
祇園祭は一つの大きな祭りと言いながら実際は山鉾と神輿で別々に運営されている。それを無理に近づける必要はないが、やはり祇園祭は一つだ。その大きな一つの祇園祭の中にたくさんのパーツがある。ここで言うパーツは部品という意味ではない。オーケストラで言うパートだ。34の山鉾それぞれが「おらが町の祭」で、皆が自分のこところの山鉾が一番だと思っておられる(と山鉾町の外の人間である私は見ている)。なんなら自分のところの山、鉾こそが祇園祭だと思っておられるように見える。それは3つある神輿も同じことだし、「うちの山・鉾・神輿が一番よ!」という気概こそが祇園祭の担い手の活力になっていると信じてる。吉田孝次郎先生の言を盾にとらせていただけるなら「神事であっても魅せる祭」もまた祇園祭の大切な側面だろう。山鉾巡行も神輿渡御もこの町とこの国の安寧を祈る一つの目的のために斎行されていることに変わりない。来年こそ完全復活した祇園祭で、神輿と山鉾の関わりについてこれまでと違う視点で見たり、感じたり、曳いたり、担いだりしていただけたならこのまとまりのない私的コラムを書いた意味があったのかもしれない。明日はこの続編として神輿方のプライドについて書きたい。
追記
粋な山鉾人がもうおひとかたおられました。今年の長刀鉾のお稚児さんのお父様です。稚児披露の手ぬぐいに三座の神輿の図柄をあしらわれたそうです。詳しくは宮本組の澤木さんが書かれたこちらをご覧ください。