▶︎神輿三若2021
▶︎大船鉾保存会代表理事 木村 宣介 祇園祭は疫病に負けたのか
▶︎祇園祭は疫病に負けたのか 最終話
▶︎祇園祭の明日に向かって〜株式会社鍵善良房 会長・清々講社幹事長 今西 知夫〜
祇園祭の山鉾巡行は昨年に続き、今年も残念ながら中止となりました。とはいえ、実は神事としての祇園祭は今年も開催されています。祇園祭の行事は八坂神社主催のものと、山鉾町主催の2つに分けられているのですが、一般的に祇園祭といえば山鉾巡行のイメージが強いため、祭自体が中止と思われているようですね。
祇園祭のそもそもの起こりは、今から約1150年前の863年、朝廷による疫病の流行を抑える御霊会に由来しています。平安時代は、今と異なり賀茂川は「暴れ川」で何度も氾濫して、都大路まで汚水が流れ込み、その後には疫病が発生し多くの人が亡くなっています。当時の人々にとって、それは不慮の死を遂げた多くの人の怨霊の祟りと考えたと思われます。この怨霊を鎮めるための御霊会として、祇園祭が厳粛に行われてきました。
祇園祭では山鉾巡行の後に神幸祭と還幸祭が催行されます。前祭と後祭の山鉾巡行の終わった日の夕方に三基の御神輿が市中を渡ります。本来の山鉾巡行は、御神輿の両祭を盛り上げる脇役でした。祇園祭の特徴は、元々は朝廷の行事であったものが町衆の発展によって大きな変貌を遂げたことだと思います。現在のように山鉾がいわゆる山車のように巡行したのは鎌倉時代末期頃からだそうです。そして京に再び都が戻った室町時代になると、酒屋や土倉(どそう)と呼ばれた金融業者などの富裕な豪商が現れてきました。安土桃山時代には海外貿易などで豪商たちは更に財力を高めていきました。これら京都の商人は普段は倹約をしてもお祭りにはお金をかけ、日頃お世話になっている人々を招待し、海外から取り寄せた織物で飾った山鉾を見て貰おうというおもてなしであったことでしょう。このような京都の豪商たちの財力そして心意気とともに山鉾が煌びやかな装飾を施すようになり、今日のように山鉾巡行が祇園祭の中心的な役割にまで高められました。
このように祇園祭は厳粛な神事であるとともに、京都の町そして京都人の発展を象徴してきたわけです。それだけに祭のハイライトである山鉾巡行が見られないことは、残念である以上にやるせない思いがいたします。
と、嘆いてばかりいても仕方ないので、少し古くなりますが2012年に祇園祭を観覧したときの思い出を綴ってみたいと思います。この時は7月14日、つまり宵々々山に「祇園祭とくらしの関係って?」という講演会があり、事前学習をしたうえで幾つかの山と鉾をそぞろ歩きしながら見学しました。宵山の期間中には、周辺の旧家や商店では秘蔵の屏風(びょうぶ)や書画などを披露するので、それを見学できるのも楽しみの一つです。
まずスタートは函谷鉾(かんこぼこ)で、多くの鉾と山同様に宵山には、希望者には中を見学でき、着物姿の人は無料とあって多くの人が着物姿で押しかけていました。鉾の名前は中国古代史の話、孟嘗君の故事に基づいています。斉の宰相である孟嘗君は秦の昭王に重用されていました。しかし讒言(ざんげん)によって咸陽を脱出して函谷関まで逃げたが、関の門は鶏が鳴かねば開きません。配下が鶏の鳴き声をまねたところ、あたりの鶏が和して刻をつくったため、見事通り抜けたという故事によっています。
これは一巡して戻ってきたところ、丁度祇園囃子が始まってきたときのもので、暑苦しいけれど独特の「コンチキチン」の囃子が流れてきました。「コンチキチン」の祇園囃子は「神様もよろこび、人もよろこぶ。それが囃子」とされ、祇園祭、とりわけ鉾にとってはなくてはならないもので、鉾が進行するときには必ず祇園囃子が囃されます。
これは山伏山で、山に飾る御神体が山伏の姿をしているため、この名前があります。一番北に位置する役行者山と同様、当時の民間信仰として人気のあった修験道・山伏から着想されています。
宵山の間、ご神体の山伏は山伏山の町屋の2階から、私達を見下ろしています。
山伏山の町屋では丁度、茅の輪が設置されていて、今年は3回目の輪くぐりをしましたので、夏ばてしないで過ごせることでしょう。夏痩せもできるといいなとお願いしました。
次に訪れたのは、鯉山です。町家で頂いた資料「なぜ?祇園祭に西洋の綴織壁掛け(タペストリー)が」に、タペストリーの謎など4つのポイントが説明されていました。前掛や見送(場所は上の図を参考にして下さい)は16世紀のベルギー製のタペストリーで、重要文化財に指定されています。ギリシャの叙事詩に題材をとって人物や風景が描かれており、山鉾きっての貴重なもので、雨が降れば大変ですが、この時は幸い好天に恵まれました。
人物でなく魚をテーマにするのは山のなかで唯一で、竜門の滝をのぼる鯉は竜になるとの言い伝えで有名です。左甚五郎の作と伝えられています。
左は4枚の絵からなる前掛で、右は見送りに使われている絵です。驚いたことに、この16世紀にベルギーで作られた貴重なタペストリーは、鯉山の周囲を飾るため大胆に大工のノミで裁断され、6枚の懸装品(けそうひん)に仕立てられています。
これが裁断される前の、1枚のタペストリーです。図柄は紀元前1200年頃のトロイ戦争を題材としたギリシャ詩人ホメロスの叙事詩「イーリアス」の1場面でのトロイ王の英姿です。絵柄の違う5枚のタペストリーが1組として日本にきて1枚は徳川家増上寺、1枚は加賀前田家、1枚は白楽天などで、1枚は鶏鉾・霰天神山などで使われ、残りが鯉山に使われているのです。
これが6枚に裁断されたタペストリーの飾られている場所を示しています。Aは見送に、Dは前掛に、B2は右の胴掛に、B1は左の胴掛に、Cは左右水引に、Eは前額水引に用いられています。
次に見たのは黒主山です。桜を松と共に飾り、華やいだ雰囲気の山です。謡曲「志賀」のなかで、六歌仙の1人の大友黒主が志賀の桜を眺めるさまをテーマにしています。杖をつき、白髪の髷(まげ)の翁の人形は、いかにも品格があります。
ご神体の大友黒主を拝見したところで、私の祇園祭そぞろ歩きの締めくくりとなりました。
学術に携わってきた私の仕事柄かもしれませんが、事前に聴いた講演のおかげで祇園祭の奥行きの深さを堪能できました。
ご存知の方も多いかと思いますが、これらの山鉾33基はくぎを全く使わず縄だけで大工方(だいくがた)により毎年組み立てられ、また解体されています。鉾の巡行には曳方(ひきかた)、屋根方、音頭取り、車方と、囃子方(はやしかた)が必要です。またハンドルがない山鉾では、一番の見せ場である交差点での辻回(つじまわ)しなどには、全員のまとまった協力が必要です。昨年、今年と巡行が中止となり、これらの技術の継承がうまく伝えられているのか、懸念されています。伊勢神宮などの式年遷宮に見られるように祇園祭では、毎年山鉾を組み立てて巡行されてこそ、技術と文化の継承が継続されてきています。もっといえば、往時の町衆の心意気も伝え遺すべき無形の文化ではないでしょうか。
1533年、戦乱で洛中が混乱を極めた際、室町幕府が祇園祭停止の命令を下しました。しかし、町衆が「神事ナクトモ山鉾渡シタシ」と迫り、神事は中止されたものの山鉾巡行は行われたそうです。町衆の祇園祭にかける想いを如実に表しているエピソードだと思います。
あれから約500年の時を経た今、日本中が混乱の最中にあります。コロナに対して個人レベルで抗える要素は少ないものの、志をもって苦境に立ち向かう心は受け継ぎたいものです。その意味からも、来年こそは是非とも巡行の再開が望まれます。私もこの栄えある技術と文化を存分に楽しみたいと思う一人として、一日も早いコロナの終息を願うばかりです。
・「なぜ?祇園祭に西洋の綴織壁掛け(タペストリー)が」、鯉山町衆。
・鯉山町衆ホームページ
・プロフユキのブログ:「被災者励ます祇園囃子・綾傘鉾と二転三転した京の五山送り火」
※ホームページとブログは、文字の部分をクリックするとページが見られます。