▶︎祇園祭は疫病に負けたのか 第2回八木透
▶︎大船鉾保存会代表理事 木村 宣介 祇園祭は疫病に負けたのか
▶︎長刀鉾稚児家 祇園祭への想い
▶︎山鉾連合会理事長が語る「祇園祭は疫病に負けたのか」
昨年もこのwebサイトに原稿を書かせて頂いた。巻頭は6月14日神泉苑に於ける八坂神社との感染症の早期収束を祈る「祇園御霊会」からだった。しかし、実はこれが初めてではなく、これ以前にも「祇園御霊会」が催行されていた。第一回は4月8日又旅社に於いて、そして第二回は5月20日御本社舞殿に於いてである。この「祇園御霊会」は神仏習合の形では無く、八坂神社の主催であった。因に6月14日は現在の祇園祭の還幸祭の当日である。その「祇園御霊会」からおよそ半月後コロナ下での祇園祭を迎えたのである。前稿に書いた様に「祇園社記」の古文書に記されていた明応9年(1500)の「祇園御霊会」は「御榊を以て執行」に至らず神輿の修理が成って神輿渡御が行われた。それから500余年を過ぎた昨年、一縷の希望を持ってはいたが「祇園祭創始千百五十年」の翌年、神輿は出なかった。
15日、午後8時、例年通り宵宮祭が行われた。神輿は飾り付けられてはいたが、神輿庫から出されることはなかった。無事遷霊は行われ「御榊を以て執行」の儀を待つことになったのである。17日、午後4時、「神幸祭」としてでは無く前の祇園祭として神事、同午後6時、神馬に「御榊」を3本立て、神輿庫前にて遷霊を行い御旅所迄御神霊渡御を行った。そして「中、東、西」の神々には24日の御神霊渡御まで神輿の代りに「神籬(ひもろぎ)」にて、御旅所に御幸されたのである。24日は御旅所から神馬の背に「神籬」を載せ中御座の順路を宮司、清々講社正副幹事長、神輿会会長、宮本組を従え、神泉苑、又旅社での奉饌祭の神事を経て御本社へと還御し、本殿への遷霊を無事果たした。但し、輿丁の追随は許されなかった。
この祇園祭に関わる神事、行事は悉く縮小、中止された。そして今年の祭も二年続けて同様の執行となる。
この稿を書くに当たって、どの様に祇園祭は変遷を遂げていったのか、手許に明治維新からの八坂神社の日次、月次の記事の写しと、明治43年7月3日に神社より発行された神輿渡御の列書を見ながら「明日に向かって」を考えてみたい。
慶応4年(1868)3月晦日神仏分離令に基づいて祇園社の改革が始まる。「中古以来某権現(仏、菩薩が日本の神に姿を変えて現れる事)或いは牛頭天皇(ママ)之類、その外仏語を以て神号と相称へ候分神社~仏像を以神体と致し候神社は相改めるべく事。早々に取除く可申候事」と御触が出され愈々感神院祇園社は仏教色を拭い去り八坂神社へと変わっていく(慶応4年6月2日改称)。明治4年(1871)5月、石鳥居の上に懸けられた「感神院」の額を下ろした。因みに明治に入ってからの祭の執行は3年、4年、5年迄6月7日渡御、14日還幸祭、6年から9年迄、7月7日渡御、14日還幸祭、明治10年(1877)から祭の日程は現在と同じ式日となった。そしてそこに書かれていたのは「5月31日氏子祭日限、7月17日神幸、24日還幸決定」とある。現在所有している八坂神社のこの資料は明治12年(1879)迄のもので、この間祇園祭の記述は一切無く、この年はコレラ流行につき祭祀延引の事と記されている。いつから「氏子祭」が「祇園祭」になったのか?
確かに明治維新に於ける神仏分離令で仏教に係わる仏具、神号、文言が使用を禁止されれば当然のこと「祇園」も「御霊会」も使う事が許されない。そして先に書いた別の資料、神輿渡御の列書の表題は「八坂神社祭禮行列案内」となっている。という事は明治43年ではまだ「祇園祭」となっていないと推察ができる。この件については祭の研究者が既に発見に至っているかもしれない。だからといってどうこうということではない、今でも「祇園祭」でありこの先も「祇園祭」であり続ける。唯、巻頭に書いた事「祇園御霊会」がこの感染症下否定されることなく復活を果たしているのは事実である。そして山鉾町の幾つかの町内では会所の床飾りに「祇園牛頭天王」の御神号をかけていて、分離令が発せられても深く静かに当時の祈りと信仰が底流に生き続けているのだ。
明治8年(1875)9月に八坂神社氏子組織である清々講社が結社される。明治43年の行列書には結社された清々講社がそれぞれの役についている。只今と変わらないが清々講社第2号の弓矢組の鎧武者列が今はもう無い。六原学区で若手の中に復活を企てる兆しはあるがまだ具体的にはなってこない。第1号は弥栄学区宮本組で御神宝捧持は今も変わらず奉仕を続けている。そして中御座御神輿、輿丁清々講社第31号三若組とある。そして東御座御神輿 輿丁清々講社四若組とあり、西御座御神輿 輿丁清々講社壬生組と記されている。この2組については清々講社のみで号数が記されていない、ということはこの3組を合わせて清々講社第三十一号と推測される。一時期三基の神輿を三若組が担っていたことからも間違い無い様に思う。
そしてこの列書に書かれている山鉾と神輿との関係である。話には聞いてはいたが書かれたものを見たのはこの列書が初めてで、還幸祭の折に東御座神輿列に長刀鉾稚児、月鉾稚児と放下鉾の稚児が騎馬にて供奉をしている。
この祭りを思う人々の熱き関係が還幸祭を華やかなものにしたのだろう。この関係がいつまで続いたのかは不明である。
平成26年(2014)に山鉾巡行が前祭と後祭に分離された。そんな中後祭の休み山、鷹山の復活が始まり、三条通の会所前で囃子の稽古が始まった。いつの頃からか記憶が定かではないが午後八時過ぎに又旅社から宮本組と久世稚児を先に中御座、東御座、西御座と東進を始め、鷹山会所前で還幸列は囃に迎えられ、送られるのだ。「そこに鷹山があるからだ」では無い。ここにも鷹山の人、三若の人の関係が存在したのである。神輿渡御と山鉾巡行の関係性が薄れているなか、これからも残していかなければならない。三若神輿会の答礼は神輿の差し上げだ。そして来夏の後祭には鷹山が復活を果たす。
昔、南北朝の頃、後醍醐天皇は都での難を逃れる為、比叡山に向かい、その時八瀬の人々は道案内をした。後、帝はその思いに報いようと朝廷に迎え、駕輿丁として行幸の輿を舁くこと、又、葬送の折の棺の輿を舁くことの職分を与えた。昭和天皇崩御の折の葬送は車であったがその後を供奉し職分の任を果たした。
三基の神輿は烏丸三条を抜け三条通りを東へ寺町を南、四条通りを東へと御本社に向かう。
雄々しく勇壮に躍動し人々を感動の渦に巻き込み境内と進む。そして舞殿に上げられ愈々遷霊の儀、境内の明かりは一つ残らず消され闇の中での儀式である。あの熱き躍動が嘘の様に闇の静けさの中神々は本殿に遷されると一斉に明りが点され人々の大きなどよめきが起こり柏手を打つ音も聞こえる。虚ろとなった神輿への祈りではあるがこれも又祈りである。そして、そこには神々の輿を舁く職分の任を果たした輿丁の姿は無い、有終の美だ。