祇園祭〜祇園石段下の寿司屋のおやっさんのひとりごと


おこがましい話

お祭りのことを、お話するちゅうのは誠におこがましいことです。
ええ加減なことを謂うてたら、あっちへ逝った時にハリ倒されんのが目に見えておりますので ジュンサイ なことはゆえません。
昨年同様にコロナ禍での祇園祭り斎行となりますが、生きかわり死にかわり、のべ人数にするとおっそろしい人らが千年来大事にして来ゃはった祭りですので、「今年はなんにも無し、夏休みです。」ちゅうわけには参りません。
何とかして、何かせんと、具合悪い、日本全国の祭りっちゅう祭りが一切中止のコロナ列島で京都の八坂神社の祇園祭りだけです、そら、鉾も神輿も出せません両手両足もぎ取られた様ですけど、ほな、体当たりでいったれっちゅう様な 御神霊渡御祭 が昨年同様斎行なされます。
ものごとすべてすくみがちな中での宮司さんの英断に心底敬服して、大神様と共に祇園祭り氏子市中25学区すべてを清める覚悟です。


 

宮本組

宮本組ちゅうのは八坂神社のお膝元お宮の元でご奉仕する氏子組織です。
神幸祭・還幸祭でお神輿っさんの前で御神宝を奉持する行列も宮本です。
神さんは遷(うつ)らはる時にお宝が先に着いてんと機嫌が悪いのでお神輿っさんより先に行きます。
宮本組に入れてもろたんは20代の後半位からです。
小さい時から行列やら見てて近所のおっちゃんやらが常と違てキリッとしたはんの見てて「なんや、今日はしゃべりにくいなぁ」と思てたんですわ、カッコええなぁと。
ほなったら「お前も出たかったら何時何日(いついっか)ちゃんと着物こしらえて祇園さんへ来い」ちゅわれて、そら、うれしかったですわ。晴れがましいて。
今でも七月はうれしいわナ。だんだん年いくとやらんならんことが増えてきますけど、お祭りちゅうのはうれしいです。
そら、小さい時「蘇民将来ちゅう人はなぁ・・・」ちゅうて聞かされてますので疫病の神さんやっちゅうのは存じ上げておりましたけども疫病退散の為に名乗りをあげた訳ではありません、宮本に入らしてもろてうれしいのは、やっぱり、晴れさしてもらえることですわなぁ。


 

七月は 神輿 神輿

石段下で生まれて育ってるさかいに七月になったら神輿 神輿ですわ、まず、十日の宵の口に松明が出ます、大松明。
宮本組入ってから教えてもろて「これはほんまは、道しらべの儀 ちゅうにゃ」と、大橋まで往ってすぐ帰って来ゃはります、家の前で花火して待ってると、この大松明はまっすぐ石段上がって西の門から入らはります。
おばあさんとカラゲシ拾いに火ィの通ったあと行きますにゃ、あとで半紙に包んで井戸のとこへ吊っとくんです、水が悪ならんようにです。
ほんでカラゲシ拾たりしてごちゃごちゃしてたら、次にお神輿っさんが出て来ゃはって、また大橋へ行かはります。神輿洗いですわ。
この日は飾りの無いはだかの神輿です。
ほんで、もう次の日から祇園さんへセミ取りに行ったら拝殿にお神輿っさんが出したぁる。三基ともね。
ビカビカに光ったるし、上にはホーの鳥も乗ってるし、なんで四若だけギボシなんやろと今でも思てみてますにゃ、「これから祭りが始まるで」ちゅう感じですわこの一週間は。


 

トモエの紋とモッコウの紋

「これはトモエ、モッコウ、これはギオンマモリ、うちはマルにケンカタバミ・・・」年寄りが紋の名前を教えますやろ紋ちゅうもんも子供にはかっこええもんですわ。
今でも宮本組の白麻やら羽織やら家々の幕やらでも、お家の紋が現われてくるさかい祭りの時分は紋だらけになって賑やかですわな。
紋付着て家から出てくるちゅうのは、家丸ごと背負うて代表で出て来てんにゃさかい考えてみたらたいそうですわ。
祭りの着物は大概どこでもタンスの一番上の引出しにしもたりますわ。
ダーと広げたおして着替えて、これもたいそうなこっちゃ。
こうして晴れがましかったり賑やかやったりするっちゅうのは、家々で威儀を正す瞬間があるさかいにですやろなぁ。祭りには大事なことやと思いますわ。
ほんでいっつも「このモッコウの紋はなぁ 織田信長なんや」という話をだれかが致します。
「 『祇園祭りやってもかまわん』て信長さんが謂わはった時に、祇園さんのトモエにかぶせはったんや。記念にやがな。」ってそれホンマですか?


 

神輿洗い~神輿洗い

そやし、七月も十日になって始めて川の東は、祇園町は幕張ったり提灯出したり家の中も外も祭りにするんですわ、十日の晩に赤飯食べますにゃ茶碗蒸しと(茶碗蒸しはうちだけですかいなぁ、まあどうでもええことですけど)それが十日の神輿洗いですわ、宮本組もお供します。
本殿から神さんが遷らはるのは十五日、旧暦でいうたら満月の日ィの日の暮れちゅうか月の出が合図。
ほんで十七日の神幸祭で市中を回って御旅へ行かはって二十四日の還幸祭で帰って来ゃはります。
神社に戻らはったらすぐにミタマウツシして神輿から本殿に帰らはります。
境内はセミの声が一層よう聞こえます。
千年前からこんなして鳴いてたんやろなぁと思て聞いてます、ほんで二十八日に十日と同様神輿洗いをして幕も提灯も片付けます、まだちょこちょこ行事はありますけど川の東は二十八日の神輿洗いで 晴れ から ケ に 戻します。

 

京都の魅せ方

古い時代の洛中洛外図見るとたいがい十七日の賑わいが描いたあります。
絵になる景色の極めつきで、先の祭りは都の晴れの絶頂やったんやと思います。
私は十七日午前九時より石段下から西の方を向いて巡行を見ます、長刀も函谷鉾も音頭とったはる扇子の動きまで小そうてわからんぐらいですけど見えますにゃ、ちょこちょこちょこちょこ仕事しもって見に行きますにゃ、そろそろ船が来るなぁちゅう感じで見に行くんです。
これは私の年中行事です。
昼過ぎて川の向こうで鉾を片付けはってからの数時間は何とも言えん緊張感があります、昔の人はこの時間をどう過ごしたはったんやろと思います、なんや知らんけど、どうしよどうしよ と思うんです。
今の神幸祭は石段下に三基の神輿と子供神輿が揃わはります。
初めて三社そろえはったんは、お神輿っさんを修復しゃはった時でした。
そらもうピカピカで初めて揃わはった時は確かに値打ちがありました。
初めては一回きりでええんですけども、そら、交通の事情やら何やら理由やら段取りやらあると思いますけど歴史的に何を優先して来たかっちゅう話です、美しさを第一に持ってこんと祭りかデモか解からんようになりますにゃわ。
こっちはデモのつもりはないんですけども。
昔は、 一社づつ出て来ゃはりました。
車をピターーーッと止めた石段下ですやんか、シーーーン としてる所へ神輿道(しんこみち)の坂から東大路へふれ太鼓が出て来ますやろ、ズーーーン とよう響きますわいな。
大観衆が固唾(かたず)飲んで待ってる所へ、圧倒的でしょ、静と動が。
神輿てごっつい生き物みたいですやんか、これでもかっちゅう位、力、集まってますやん。
舁き手もだあれもニヤついてる人やはらへん真剣ですやんか、ガッシャガシャ鳴らしもっても、お神輿っさん自体は頭の上を浮いたはるみたいにスーーーと移っていかはりますやろ、神さんて神輿の中でスーーーっと前向いて居はんにゃろなぁ思てますね子供の時分から。
ほんで石段下で舁き手は思う存分魅せはります、昔はこうでした。
なんにもマイクで説明せんかて、神輿道から東山線に出て来ゃはるだけで、胸が詰まってきますやん、それを楼門の前でガァーーーと差し上げて振らはったら、だれでもかしわ手打ちますやろそんなもん、畏れ多いですよ、言葉いらんのだ、三若、四若、錦で錦が出て来ゃはる頃には夕日がまともに当たりますやろ、朱と金がビカビカに光ります。
是非とも、一基づつ存分に出来るように以前の美しさを取り戻してほしいなぁと、私、校長先生の挨拶聞いてるふりして思てますね、静と動と真剣で、群衆をなかせる方が美しいと思うけどなぁ。
人が作り出せるもんで神輿渡御ほど美しいもんありませんやろ。
いやほんまに。京都が磨き上げた美しさですやん、石段下で止めたら三角座りの舁き手も気の毒ですにゃ調子出ませんやん、もうそろそろと思いますけど。


  

“昔からや”

錦の神輿が行かはったら石段下はガラーーーンとして気抜けしたみたいになります、ほんでまぁ御旅いったはる間は 無言まいり やら母親に連れられていってました、ほんで二十四日は還幸祭です、遅う帰って来ゃはることもありました、昔あんまり観光の人もやはらへんかったさかい二十四日は石段下にイス並べて近所の人らと座って待ってました、花火したり、その日は魚ぞうめんですわ、もう梅雨も明けて祇園さんもセミだらけでゲンジやらブンブンやらとアソブ毎日です、うちはスイカをあんまり食わん家で、鮎が取れんようになるちゅうて、スイカ食わんのですわ、鮎取り好きやさかいに、なつかしいですね。
お神輿っさん帰って来ゃはるの待ってました。
ほんで又、二十八日の 神輿洗い で松明が出て祭りが終わるんですわ、そやし、十日、二十八日この期間が祭りですわ、川の東は祇園町はね、“昔から”そうしてきゃはったことです、ほな“昔から”ていつからやね?ちゅうて、皆で酔うてきたらだんだん話てややこしなりますやん、宮本組て会所あらへんさかい、祇園町のどっかの家寄って祭りのことああでもないこうでもないてやってますやん、毎年 毎年 年寄りが昔 年寄りに聞いた話をああゆうとった、こうゆうとったっちゅうてワーワー言うてるうちに、時々ピカッとひらめくんですわ“昔から”はここやちゅうのが解き明かされるんです。
“昔”の始まりはちゅうと、疫病退散せんならんさかい牛頭天王に来てもろた時からですわ。と、そうすると色々と今やってることのつじつまが合うてきょうるんです。
酔うてっと 又、話もまとまりやすい。こともある。


 

うんと“昔”のこと

もともとですわ、平安遷都以前のここら祇園一帯に 八坂の造(みやつこ)まぁ八坂族ちゅうのが居てますにゃ、その連中の土俗信仰ちゅうか精霊信仰ちゅうか、これはもう世界共通の自然神ですわ、農耕をしてますにゃな、水がいりますわ、東山の菊渓川をあがめてますにゃ、京都がまだ都の候補地やなかった頃でっせ、菊渓川は今も山の中に流れてます、高台寺さんの横で暗渠になってますけど鴨川に流れ込みます、農耕するさかいに 春、神さんは山から降りて来てくれはります、秋は逆に山へ帰らはります、営みの中心は菊渓川です、南門出たとこは下河原ちゅいますやろ、この川の河原です、八坂の塔 が見えるあたりの低なってるとこに川が流れてます、この川中心の生活は平安遷都以前何百年も前からあった生活です、八坂族の 春 夏 秋 冬 の農耕のリズムですわ、この大らかさ朗らかさが、人に合うてますにゃろなぁ、安定した暮らしのリズムの中で、皆 死んでいったんでしょう。
だいぶ経ってから、四神相応の地やちゅうて平安京が造営されますにゃ、都になって人が増えたら疫病も流行りますわいな、「こらあかん どうしよう」ゆうことになって八坂族の信心しとる上に強い神さんかぶせて、「これでいったれっ!」ちゅうことになったんですわ まぁ早い話が。
ほんで病気でぐちゃぐちゃの都を清めて来いちゅうんですけども「えーーーそんなんかなん」て言うたんとちゃいますか、『ちょっと 何言うてんの 茅の輪 茅の輪 これがあったら大丈夫でしょ・・』「えーーーーー」 (注、話半分に聞いといて下さい) 『 ほなな、そんなん言うにゃったらな、あんたら八坂族のな、前からやってるやつな、あるやん、川の水、十日と二十八日にかけたりするやつ、あれもやってもええことにしょうさ、そやし、あんたらのやって来た祭りも尊重すっさかいに、これからずっとやっといたらええさかいに、な、あのーーー善は急げちゅうやん、な、また暑なって来たら水が悪なるさかい、早よいってくれへんかなぁ、ゴチャゴチャゆうてんとっ!』 というようなヤリトリもあって、祇園町は十日、二十八日に 幕 出したり入れたり 宮本組は 水くんだりかけたり するのではなかろうか、という学説です。

 

神佛習合+α

なんちゅうんですかね、この大らかさちゅうか、春が来た♪ 春が来た♪ ちゅうような感じで秋に収穫して正月にもちついて食べて、朗らかなこうゆうのを取り戻さんとあかんなぁと思いますにゃわ、コロナ後は特にこの大らかさを持ち合わしてんと駄目なような気がします、六月の初めに毎年 比叡山の阿闍梨さんが祇園さんにお参りしゃはります、本殿の前で般若経を真剣にあげはります、阿闍梨さんにしたら、昔から本殿の中に居はるのは 薬師如来さん ちゅうことになってっさかいに何ちゅうことはないんです、拝殿に土足で上がって真中にドンと座って印を結んで一心にご真言唱えたはんのを見ると何やしらん涙吹き出しますよ、ものすご一生懸命やってくれたはりまっせ、阿闍梨さんが境内の摂社末社に参らはる時は、友達に“オイッ来たで!”ちゅう感じで回らはります、阿闍梨さんを見てると神さんでも仏さんでもなし精霊というか自然神ちゅうような感じですわ、神と佛と精霊も数にいれて物事考えられる日本人やないと あかん 思いますわ、そやないと“昔”が読み解けへんのですわ、もったいないでしょ。
そやけど ここまではまだ初心者向けの話です。

 

上級者編

そもそも、 『何で祭りするんですか?』 ちゅう質問にどう答えます。
こういう事聞いて来る人やはりますやろ。
『観光客がようけ来る為ですわ』 ちゅうて笑といたら 京都人らしい てええんですけど、ンーーー私ずっと考えてましてん、何で祭りすんにゃちゅうたら、実は、家の霊力を高める為ですわ、それを拡げて隣組とか、町ごとにやっていくと、洛中洛外が栄え続けるちゅう仕組みですわ、昔の人は これ をやって来ゃはったんですわ、そやさかい、家々人々の紋が威並んで立つちゅうのは大事なことですにゃわ。
ほんで、この長いことやってる祇園祭りの一番肝心なとこは、八坂族が牛頭天王を迎えいれた時からの約束ですにゃわ、大衝突なしに朗らかなまま今でも宮本組は鴨川で水くんでますやん、全然知らん、こわい、強い神さんが来てんのに元々の精霊を殺すことなしにだれも疎外せんと千年来ですわ、朗らかにやってのけて来たんは、知恵や思いますわ、今まで死んだ人間の方が多いにゃさかいに、もうとうの昔に精霊になって草葉の陰から連中は見てますやんか、「おんなじようにやってまっせ」ちゅうて思うてやるのが又供養なんやろうなぁと思いますわ。
今年も、鉾の巡行なし、お神輿っさんも出せへん 非常にさみしい七月ですが、御神霊渡御祭は 十八日~二十三日 の間斎行され、二条・千本・松原・東大路の氏子区域二十五学区を清めます、宮本組として私もお供させて戴きます、氏子の皆さんの お家一軒一軒 が 威儀を正して清浄にして、『 神さん迎えたろか 』っちゅう気になってくれはったら、京都は底から息吹き返しょんのとちゃうかなぁと思うんですわ、京都から良うしていったらええんですわ。
私らの先祖がまつったその神さんが同んなじ姿で今も眼の前に居はんにゃさかいありがたいことやと思います。いやほんまに。

冒頭に申し上げた ジュンサイなこと ちゅうのはこの様に、つかみどころのない、のらくらした、今が旬の、のどごしがようて、透明感があって瑞々しいとは いかんなぁーーー えらい長いこと ちょっとついでがようけあったさかいに ごちゃごちゃ申し上げてすんません。

著者が提案して実現した御神霊渡御祭イメージ図(本人描画)
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この記事を書いたライター

 
京寿司いづ重社長
昭和43年京都市生まれ
6才の6月6日に当時の八坂神社髙原宮司に書のおけいこをつけてもらう。
髙原宮司を神さんだと思っていた節がある。
次の年からは八坂神社のカブスカウトに一番下っ端に編入される。

|宮本組役員/京寿司いづ重社長|祇園祭/宮本組/神輿