【京のくらしと京ことばシリーズ】
▶︎京都人の「かみ・しも」という概念▶︎他人を通して「折れ反れもできませんで」
▶︎漱石も惑わされた「おおきに」の意味
▶︎程度の差「ほっこり、くたびれ、しんどい」「ぶぶ、おぶ」
▶︎こんな挨拶も「祇園祭どすなー」「ごきげんよう」
▶︎夏のくらしから「きず」「ぼっかぶり」
今年は上京区と下京区が誕生して140周年の記念の年。
「KLK伝えたい京都、知りたい京都」編集部はこの節目の年に上京区・下京区のそれぞれの区長と、街の歴史を知り、これからの街を創る住民代表の方にお越しいただきラジオ対談を実現しました。
上京人の公家気質、下京人の商人気質は今も残るのか?お互い相手の地域をどう思っているのか?そして両区に共通する歴史と今も残る風習とは。
平安京のおこりと右京・左京・上京・下京
794年(鳴くよウグイス平安京)で建都された平安京は、今の一条通から九条通までが南北の市域でした。その中央に今の千本通にあたる朱雀大路が走り、道幅が80Mもある平安京のメインストリートでした。
朱雀大路の北のどんつき(京都弁で突き当り)に大内裏(御所)があり天皇がお住いでした。一方の南のどんつきは羅城門と言われ平安京の正門でした。この羅城門は芥川龍之介の「羅生門」のモデルとしても有名ですね。
市街地は朱雀大路を中心に西側が右京で東側が左京と言われました。当時は右京エリアが湿地帯だったこもあり市街地は左京を中心に南北に広がってゆき、「かみのわたり」と言われる今の上京と、「しものわたり」と言われる今の下京に街が収斂してゆきました。今にたとえて言うなら大阪の「キタ」と「ミナミ」のような形でしょうか。
1467年には戦国時代の幕開けとなる応仁の乱が勃発。それこそ京都中が戦火に見舞われました。上京と下京それぞれ住民たちは自衛のため街の外周を塀や土塁や堀で囲みました。これを惣構えといいます。
そのとき上京と下京をつないだ道が室町通だったのです。これも今の大阪のキタ・ミナミにたとえると御堂筋のような幹線道路だったと考えられます。こうして上京と下京はそれぞれに発展していくことになるのです。
御所のお引越し
平安京造営当時に朱雀大路の北の方(二条城の北西で今の千本丸太町から北あたり)に大内裏(天皇の住まい)があったことは多くの京都市民が知るところです。そして明治維新の前の御所(同じく天皇の住まい)は今の烏丸今出川から烏丸丸太町の東側にあることも多くの京都市民が知っています。
でも千本通にあった御所がいつどうして烏丸通に移ったのか多くの京都人は知らない(考えたこともない?)、「そう言えば・・・」と思う市民がほとんどだと思います。詳しい話は割愛しますが平安時代の天皇は常に御所に住まれていたわけではないようです。火事で内裏が消失するなど「里内裏」と呼ばれる天皇の仮の御所が都のそこかしこにありました。今の京都御所もその平安期の里内裏のひとつ土御門烏丸邸でしたが南北朝合一のころから正式な御所となりました。
上京人気質と下京人気質
そのような経緯で今の場所に移ってきた京都御所。上京区はその御所があったことから茶道に代表される公家文化や、西陣織の産地であったことから着物文化が今を生きる区民の暮らしや街並みにも引き継がれています。
上京には頼山陽や狩野元信や本阿弥光悦も住んでいましたし、茶道三千家の家元は今も上京区です。地域の運動会で野点(お茶会)が行われたり、大路小路に着物で歩く人が多い、またそれが似合う街並みや生活文化が残っているのが上京です。
一方で下京区は室町界隈の呉服商が力をつけて祇園祭の担い手になりました。東西本願寺門前の仏壇仏具のような伝統工芸が盛んになり商工業の色が強い街です。高島屋も三越もその発祥の地は京都市下京区です。(ちなみに大丸は京都市伏見区が発祥の地です。)
明治維新以降、明治、大正、昭和、平成、令和と時代がながれ他府県からの移住者も増えた今なお両区とも平安時代からの街の気質を受け継いでいるのが両区のスゴイところです。この上京人気質と下京人気質をラジオオンエアのオープニングではお互いに痛烈に茶化していますので一聴の価値ありです。
「他府県」って言います?
そういえば自分の住んでいる都道府県以外のことを「他府県」と呼ぶのは京都の人間だけなのでしょうか?先日、東京の方々とこの話題になりました。そして「言うとするなら他県です」「どうして都と道をはずして他府県と言うのですか?」と尋ねられました。都と道を外す?あたり京都人の気質が表れているのかもしれません。大阪府の人も「他府県」と言うのか聞いてみたいと思います。
ところで日本中で区制が敷かれているのは東京都特別区と20の政令指定都市のみです。上京区と下京区に話を戻せば、両区は京都市が誕生する10年前の明治12年に、京都「府」上京区、京都「府」下京区として誕生しています。その10年後の明治22年に上京区と下京区をあわせて京都市が誕生しました。上京区民と下京区民の自負は京都市より歴史が古いこと、また今の京都市全体にも受け継がれている自治の精神によるものかもしれません。
番組小学校って放送局の小学校?
ところで百貨店の創業の地が京都であるなら、全国の小学校の発祥の地も京都です。上京と下京では室町時代から「番組」と呼ばれる町組織がありました。明治になり近代教育の必要性を感じた町衆が「かまど釜」と呼ばれる出資金をだして自分たちの力で学区ごとの小学校を設立しました。これが番組小学校で全国の小学校の始まりとなるものです。上京と下京でそれぞれ33ずつ合計66の番組小学校ができました。
ちなみに。第〇〇番組など番号をつけて呼んだので番組という名前になっていました。番組小学校がユニークなのは読み書きそろばんを教える教育機関としてだけでなく、役所の機能や警察・消防の機能も兼ねていたところです。京阪電鉄三条駅の南側に現存する有済小学校跡地校舎屋上に備わる火の見櫓に当時の面影を偲ぶことができます。
公道を車両通行止めにする威力をもつお地蔵さん
各町内にお地蔵さんの祠があるのは京都だけでしょうか?古くから子どもの守り神であるとされてきたお地蔵さんを祀る子どもたちのお祭り、地蔵盆が京都市では今も盛んです。
8月24日前後の土日に町内のお地蔵さんを祠から出してお迎えし、お化粧と前垂れをします。子どもたちがお説法を聞いたり、おやつをいただいたり、福引をしたり、夜は花火をしたり。いわば町内をあげての夏祭りです。本来は地蔵菩薩を祀る仏教行事なのですが、京都では子どもたちの祭として守り継がれています。
少子化やレジャーの多様化などで地蔵盆を絶やさずに続けることは大変ではありますが、町内会の総会や防災訓練と合同開催したり、町内の枠を超えて学区統一で開催したりするなど継続の努力を怠らないのが町衆の心意気です。また、祇園祭の山鉾の懸装品に匹敵するような重文級のお地蔵さんがあったり、地蔵盆のために公道を封鎖して路上で地蔵盆を開催したりする町内が残るのが上京、下京のスゴイところです。
で、上京と下京はお互いにどう思っているの?
(上京区長から見た下京区)賑やかさという意味ではちょっと羨ましいかな
(下京区長から見た上京区)下京のイベントは派手だけど上京区みたいに文化的なこともやっていきたい
上京区長と下京区長のホトトギス
ホトトギスをどう処するかで天下人となった3人の武将のたとえ話は有名です。
鳴かぬなら殺してしまえホトトギス(織田信長)
鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス(豊臣秀吉)
鳴かぬらな鳴くまで待とうホトトギス(徳川家康)
さて、上京区・林区長と下京区・安河内区長ならホトトギスをどうするのでしょうか?
詳しくは上京区×下京区ヒミツの区民ショーラジオポッドキャストにて!
特別番組 上京区×下京区140周年記念特別対談「ヒミツの区民ショー」の出演者
上京区
林建志上京区長
上林研二氏(上京区140周年実行委員長)
小野佳代子氏(上京区140周年実行委員)
下京区
安河内博下京区長
鎌田髙雄氏(下京区140周年実行委員長)
永谷咲子氏(「シモヒガ140」代表)
進行:ラジオミックス京都パーソナリティ 木村博美