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大河ドラマ「麒麟が来る」、私も見ています。
さて、主役の明智光秀といえば、「敵は本能寺にあり!」という名台詞が有名だと思います。彼の代名詞にすらなっていると思います。
では、みなさん。本当に彼は「敵は…」と叫んだと思われますか?
今回はその話をしてみましょう。
宣教師ルイス・フロイスをご存じの方は多いでしょう。
ポルトガル出身の宗教家で、キリスト教布教のために戦国~安土桃山時代の日本へやってきて、彼の見聞した内容を「日本史」にまとめました。
二十代の頃、私設図書館が閉鎖するというので、本をいただきました。
フロイス日本史は、とてもとても長い記録です。のちに日本語訳・全12冊版が出版されますが、それでも全ての部分を訳出できていません。
あまりに長大なので、フロイスの上役に刊行を拒絶されたという逸話もあります。
そこで、信長に関する部分だけを抽出して翻訳したものが「回想の織田信長」です。
フロイスの記録はキリスト教徒には甘く、異教徒には厳しいなどの偏りもありますが、それを差し引いても、興味深い内容になっています。
光秀の人物評がたいへん独特であることも、一部で有名でしょう。以下、引用します。
「信長の宮廷に惟任日向守殿、別名十兵衛明智殿と称する人物がいた」
「その才略、思慮、狡猾さにより信長の寵愛を受けることとなり、主君とその恩恵を利することをわきまえていた。殿内にあって彼はよそ者であり、ほとんど全ての者から快く思われていなかったが、(受けている)寵愛を保持し増大するための不思議な器用さを身に備えていた。
彼は裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的でもあったが、己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。また築城のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持ち主で、選り抜かれた熟練の士を使いこなしていた。
彼は誰にも増して、絶えず信長に贈与することを怠らず、その親愛の情を得るためには彼を喜ばせることは万時につけて調べているほどであり、彼の嗜好や希望に関しては、いささかもこれに逆らうことがないように心掛け、彼の働きぶりに同情する信長の前や、一部の者がその奉仕に不熱心であるのを目撃して、自らはそうでないと装う必要がある場合などは涙を流し、それは本心からの涙に見えるほどであった。
また友人たちの間にあっては、彼は人を欺くために72の方法を深く体得し、かつ学習したと吹聴していたが、ついにはこのような術策と表面だけの繕いにより、あまり謀略には精通していない信長を完全に瞞着し、惑わしてしまい、信長は彼を丹波、丹後二カ国の国主に取り立て、信長がすでに破壊した比叡山の延暦寺の全収入とともに彼に与えるに至った」(※回想の織田信長P144~より部分引用 松田 毅一 ・ 川崎 桃太 (翻訳)以下同様)
従来の、温厚で常識ある教養人という光秀像に親しんできた人たちには、新鮮だと思います。当時の私もイメージを覆されて興奮したものです。
さて、本題に入ります。光秀が天正10(1582)年、本能寺の変を起こします。問題となるフロイスの記述は以下のとおりです。
「ところで明智はきわめて注意深く、聡明だったので、もし彼らの中の誰かが先手をうって信長に密告するようなことがあれば、自分の企ては失敗するばかりか、いかなる場合も死を免れないことを承知していた」
そこで夜のうちに全員を武装させ、そのまま亀山を出発します。
「そして都に入る前に兵士たちに対し、彼はいかに立派な軍勢を率いて毛利との戦争に出陣するかを信長に一目見せたいからとて、全軍に火縄銃にセルペ(※)を置いたまま待機しているようにと命じた」(※火器の部品の名前。引き金に挟んで誤射を防ぐものと思われる)
「兵士たちはかような動きが一体何のためであるか訝かり始め、おそらく明智は信長の命に基づき、その義弟である三河の国主(家康)を殺すつもりであろうと考えた」
こうして、光秀はその意図を秘匿することに成功し、約3千(※)の兵士でもって本能寺を包囲下に置いたのです。(※フロイスの記述に準ずる)
要するに、光秀は、密告者が現れることを恐れて、信長を襲う目的は幹部以外には明かさず、行き先を「軍勢を信長に披露するため」と誤魔化したまま本能寺へ向かい、そして目的を果たした。ということです。
ドラマとしては全軍を前にして「敵は本能寺にあり!」と叫ぶ光秀の姿は、実に劇的で絵になります。しかし、フロイスの描いた光秀の、極力成功するように、と注意を払う姿には、一定のリアリティがあります。なにしろ『己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった』人物が、危険を犯して賭けに出るのですから。
そして、これを裏付ける証言がもう一つ残っています。このとき従軍していた丹波の侍が、変の58年後、老人になったとき、自分の参加してきた戦いについて記録を残しました。そのひとつが本能寺の変だったのです。
「本城惣右衛門覚書」(天理大学蔵)には、こうあるそうです。
『明智が謀反をして、信長様に切腹させたとき、本能寺に我らより一番乗りに侵入したというものがいたら、それはみな嘘です。
その理由は、信長様に腹を切らせるとは夢にも知らなかったからです。
その時は、太閤様が、備中に毛利輝元殿を討ちに侵攻していました。その援軍に明智光秀が行こうとしていました。
ところが山崎の方に行くと思いましたのに、そうではなくて京都へ命じられました。我らはその時は家康様が御上洛しておられるので、家康様を討つとばかりに思っていました。(目的地の)本能寺という所も知りませんでした』
どうでしょうか。フロイスが述べた経緯と、以下の点で一致しています。
・光秀は真の目的を隠したまま京都へ向かい本能寺を襲った
・兵士たちは、行き先がわからず、家康を殺害(※)するのかと推測していた
(※実際には、このとき、家康は堺見物のために京都を離れていた)
では、「敵は本能寺にあり!」という言葉は、どの記録に依っているのでしょう。
『明智軍記』といいます。江戸時代中期、元禄時代に編纂された軍記物で、作者不詳。光秀の死後100年近く経ってから編まれたもので、現代においては、他の資料と突き合わせて検証が進んでおり、歴史資料としては正確ではないと評価されています。
ただし、話として面白い記述が多く、歴史小説の種として数多く引用されました。たとえば、光秀の母が波多野攻めの際に非業の死を遂げた、信長は光秀の現領地を召し上げて出雲方面への出陣を命じた…といった逸話は『明智軍記』を基にしています。
さて、大河ドラマ『麒麟が来る』では、本能寺の変はどのように描写されるのでしょう。資料を精査し、史実性を重んじるのか。劇的に盛り上がる「敵は本能寺にあり!」を再び使うのか。折衷した演出もできると思います。行き先を隠したまま進み、いざ信長を襲うという直前で「敵は…」と発言させれば両立も出来そうです。
いま、新型コロナウイルスのために、大河ドラマの収録も大変だと聞いていますが、どうか、無事に収束し、このドラマが終劇を迎えられることを祈っています。
そして、本能寺を前にした光秀が、なんと発言するのか、確かめられるように。私も楽しみに待っています。
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