令和3(2021)年1月3日、各新聞などで記事が掲載されました。
石川県にある古文書を調べたところ、本能寺の変に関わる記述があり、知られざる内容を含んでいたというのです。

書物の名前は「乙夜之書物(いつやのかきもの)」。
加賀藩前田家に仕えた兵学者 関屋政春(せきやまさはる)が記した雑文集で、自筆本全3巻が現存。前田家などを経て金沢市が所有しています。
これまでは金沢城創建に関する資料として注目されていたのですが、別の巻を調べた結果、本能寺の変の記述が見つかりました。

現代の金沢駅前

現代の金沢駅前

私は、この書物については今回の報道で知りました。
今後、さらに精査され、内容の信頼性などが確認されると思います。
私は原文も訳文もきちんと見られていませんが、朝日新聞デジタル等の記事には要点がまとめてあり、本文の写真も一部掲載されていました。
たいへん興味深い内容で、この資料の信頼性によっては、認識を改めるべき部分もあります。
これを受けて、拙稿「光秀は『敵は本能寺に』と言ったのか?」を補足し、アップデートする意味で、私なりに書き記したいと思います。

要点は以下の通りです。(朝日新聞デジタルとライブドアニュースから筆者再構成)

1.光秀重臣の斎藤利三(としみつ)は、6月1日昼(変の前日)に亀山城を訪れ、光秀謀反の決断を知った
2.光秀軍が亀山城を出発したのは1日の日暮れ前
3.光秀軍の兵たちが本能寺に向かうことを告げられたのは、真夜中に休憩した桂川の河原だった
4.先発隊は斎藤利三と明智秀満が率いる約2000人だった
5.本能寺の変、光秀軍を最初に見つけた信長側の人物は、寺で水をくむために門外に出てきた召使だった(本文では「下郎」。明智の軍勢を見て門を閉めようとしたが押し破って乱入した)
6.光秀は本能寺襲撃時に南の鳥羽に在陣していた

現在の桂川。桂大橋から南を望む

現在の桂川。桂大橋から南を望む

これらの内容が記されていた「乙夜之書物(いつやのかきもの)」。
乙夜とは、夜更け、午後10時前後を指す言葉。

「乙夜之覧(いつやのらん)」という四字熟語があります。中国、唐の文宗は政務に忙しく、午後10時ごろになって、ようやく読書ができたという故事によります。
含蓄のある題名です。

著者の関屋政春は、前田家第三代の利常に仕えた兵学者でした。
兵学者は、人々から昔の戦いの話、「武辺噺」を聞き集めることを一つの題材としていたようです。
そんななかに、斎藤利宗(としむね)という武士が居ました。
明智光秀配下の武士の一人であり、本能寺の変にも参加しました。このとき数え年で16歳。

父は斎藤利三(としみつ)。
光秀の腹心であり、本能寺の変においても中心的な役割を果たしたとされています。利宗も、父と共に本能寺を襲った一人なのです。
父の利三は、山崎合戦の後に処刑されましたが、利宗らは生き延び、徳川幕府によって召し抱えられました。
また、春日局は利宗の妹です。

利宗には甥がおり、加賀藩に仕えていました。井上清左衛門(いのうえ せいざえもん)といいます。
利宗は甥の井上に思い出を語り、後にこれを関屋政春が取材して本にまとめた、というのが、記載に至る経緯です。つまり、又聞きなのですが、この頃の歴史記述で「情報元は誰々だった」ときっちり書いているものは多くありません。経緯が辿れるのは良心的だと思います。

さて、それでは、先述の要点は、従来の説などと比較して矛盾しているのでしょうか、合致しているのでしょうか?
一点ずつ、確認してみましょう。

1)斎藤利三らが光秀から謀反の決行を知らされたのは6月1日、丹波亀山城。
これは信長公記などと場所も日にちも一致します。

「太平記英勇伝二十七:明智日向守光秀」(落合芳幾作)Wikipediaより

「太平記英勇伝二十七:明智日向守光秀」(落合芳幾作)Wikipediaより

2)光秀軍が出発したのは1日の日暮れ前。
初出です。
諸資料(明智軍記・川角太閤記)に比べて早めの出発となっていますが、むしろ現実味のある出発時間です。
亀山城から本能寺までの移動時間を約9時間と分析した書籍があります。
川角太閤記準拠ならば、夕方8時の出発なので、午前5時に本能寺に到着という計算になるそうです。
実際に2日の早朝に襲撃していますので、夜明け前出発ならば、休憩などの余裕を持った行動となります。矛盾はありません。

3)光秀軍が行き先を本能寺だと知らされたのは、真夜中に休憩した桂川の河原。
ここが、重要な点です。資料によっては、一致するものがあります。
「川角太閤記」では、光秀は、桂川に集結した軍勢に対して、軍勢に司令を出したことが記されています。馬の沓(くつ)を履き替えること、徒歩のものは新しい草履に替えること。そして、こう告知されたといいます。
「今日から我が殿は天下様におなりになる」
京都まで近づくと、斎藤利三から木戸の開け方など細かい指示が出され、本能寺へ迫っていきます。
この辺りの記載はかなり詳しく臨場感があり、元光秀配下から聞き取ったのではないかとする意見がありましたが(谷口克広氏)、なるほど、今回の記事と川角太閤記は符合しています。
私は、前稿で、本能寺に近づくまで反乱の意図を伏せたと考えました。しかし、京に入る手前で、行き先と目的を明かしたのかもしれません。
結果として、川角太閤記の評価を高めることにもなりますね。

ルイス・フロイス「日本史」も、「本城惣右衛門覚書」も、明智軍の兵士たちは、出発時に反乱することを知らされないまま、京都に向けて進路変更されたと記録していました。その後、京都の入り口である桂川で行き先を知らされていれば、大きな矛盾はありませんが、この時、全員に本能寺の名が周知されたのか、また信長襲撃の意図まで告知されたのかどうかは、両者の記述からは分かりません。本城惣右衛門のような兵士にどの程度行き届いたのか。さらに詳細を知りたいところです。

本城惣右衛門覚書では、斎藤内蔵助(利三)子息が、小姓とともにやってきて、本能寺の方へ向かい、その後について行ったと記述されています。行き先の名と作戦意図を、知らされたかどうかまでは、やはり明記されておらず、一切を知らぬまま後を追ったとも読み取れます。
斎藤利宗には兄がおり、本能寺襲撃に参加し、山崎の合戦で戦死します。したがって、この「子息」が誰なのかまでは確認できませんが、利宗も兄とともに行動し、それゆえに現場証言が出来たという推論は可能です。
一方の証言に、もう一方の語り部が登場するとすれば、面白いと思いませんか

桂川畔。光秀軍の兵たちが休息したのもこのような場所だっただろうか

桂川畔。光秀軍の兵たちが休息したのもこのような場所だっただろうか

4)先発隊は斎藤利三と明智秀満が率いる2000人だった。
本城惣右衛門覚書によれば、惣右衛門は、本能寺に設けられた南の堀に沿って、東向きに進み、突入しています。北方面からは、斎藤利三の子息と小姓に加えて、明智秀満配下の母衣衆が二人、同時に突入したと書かれています。したがって、利三・秀満隊が本能寺襲撃の実行部隊だった点で両資料が一致しています。ちなみに、フロイス日本史では本能寺を包囲した人数は3000人としています。
なお、斎藤利三は、山崎合戦後に捕縛され、処刑されます。この時、公家の日記では利三のことを「今回の謀反随一」と表現しています。
本能寺襲撃の実行犯だったことを踏まえての記述だったかもしれませんし、利三こそが首謀者の一人とみなす仮説もあります。(詳しくは四国政策転換説で調べてみてください)。

「太平記英勇伝五十四:齋藤内蔵助利三」(落合芳幾作) Wikipediaより

「太平記英勇伝五十四:齋藤内蔵助利三」(落合芳幾作) Wikipediaより

5.本能寺の変、光秀軍を最初に見つけた信長側の人物は、寺で水をくむために門外に出てきた召使だった
初出の情報です。
本城惣右衛門が最初に殺害した人物(「橋の際に人一人がおり、そのまま我々が首を取り、門を開いた」)と同一人物かもしれませんし、別方面の北門に向かった人たちだけが接した場面かもしれません。
矛盾とも合致とも判断できません。

6.光秀は襲撃時に本能寺ではなく南の鳥羽に在陣していた
初出の情報です。
総大将がやや離れたところから全体の指揮を取るのは、おかしなことではありません。
また、1万人以上の軍勢が移動するときは、渋滞を避けるために複数の通路を通って並進することがあります。
もし、利三・秀満隊が山陰道を進み、光秀本体が西国街道を行ったと仮定します。この場合、光秀は東寺~上鳥羽近くに出ることになります。
結論は出せませんが、矛盾はしません。

上記の点を検証してみました。
即座に否定するような点はなく、他の資料と一致する部分もありました。
本当に斎藤利宗の述懐を言い伝えているのであれば、有力な資料の発見(再発見か)と言えるでしょう。
また、乙夜之書物は、本能寺の変以外にも新しい情報が含まれているようです。さっそく論文にまとめて発表されると聞いていますので、楽しみに待ちたいと思います。

惜しいのは、大河ドラマ「麒麟が来る」の収録中盤でこの資料が発見されていれば、最終回にこれらの要素を盛り込めたかもしれない…という点です。
しかし、テレビによってある題材への注目度が上がり、新しい調査研究が進むというのは良くあることなのです。その意味では、これも「麒麟が来る」の余波なのかもしれません。

さて、ドラマ内の本能寺の変に間に合わせようと、やや勇み足でこの記事を書きましたが、いかがでしたか。
光秀は「川角太閤記」の記述を生かして、桂川のほとりで「敵は本能寺に」と告知するのか。
「天下様におなりになる」というセリフも一緒に書かれているかもしれませんね。
いよいよ大詰めですが、さらに楽しみが増えました。
心して待ちたいと思います。

参考文献および記事

「光秀ハ鳥羽ニ」、最期の言葉も 本能寺の変に新情報 朝日新聞デジタル(会員記事より)
明智光秀は本能寺の現場にいなかった?「実行犯は重臣たち」古文書を解読 ライブドアニュース
光秀は本能寺にいなかった!?古文書に記された家臣の証言から出てきた新学説 東京新聞Tokyo web
「戦功覚書」としての『本城惣右衛門覚書』(その1)本城惣右衛門は下級武士なのか 白峰旬 別府大学
検証本能寺の変 谷口克広 吉川弘文館
明智光秀 織田政権の司令塔 福島克彦 中公新書
再審・本能寺の変 光秀に信長は殺せたのか 再審・本能寺の変制作委員会 彩流社
明智光秀の生涯 諏訪勝則 吉川弘文館
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この記事を書いたKLKライター

写真家
三宅 徹

 
写真家。
京都の風景と祭事を中心に、その伝統と文化を捉えるべく撮影している。
やすらい祭の学区に生まれ、葵祭の学区に育つ。
いちど京都を出たことで地元の魅力に目覚め、友人に各地の名所やそれにまつわる歴史、逸話を紹介しているうち、必要にかられて写真の撮影を始める。
SNSなどで公開していた作品が出版社などの目に止まり、書籍や観光誌の写真担当に起用されることになる。
最近は写真撮影に加えて、撮影技法や京都の歴史などに関する講演会やコラム提供も行っている。

主な実績
京都観光Navi(京都市観光協会公式HP) 「京都四大行事」コーナー ほか
しかけにときめく「京都名庭園」(著者 烏賀陽百合 誠文堂新光社)
しかけに感動する「京都名庭園」(同上)
いちどは行ってみたい京都「絶景庭園」(著者 烏賀陽百合 光文社知恵の森文庫)
阪急電鉄 車内紙「TOKK」2018年11月15日号 表紙 他
京都の中のドイツ 青地伯水編 春風社
ほか、雑誌、書籍、ホームページへの写真提供多数。

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SNSなどで公開していた作品が出版社などの目に止まり、書籍や観光誌の写真担当に起用されることになる。
最近は写真撮影に加えて、撮影技法や京都の歴史などに関する講演会やコラム提供も行っている。

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