現在「麒麟がくるまでお待ちください」状態で中断中の大河ドラマ。そこで今日は、箸休め的な話題をお届けしたいと思います。題して「明智光秀は広辞苑MVP?」。なんのこっちゃ?のタイトルですが、いつもとは違う切り口から光秀の真の姿に迫ります。

明智光秀の生まれは美濃(たぶん)といわれ、その前半生は美濃や越前を流浪していた(これまたたぶん)、というのが一応の定説となっています。ここまでは京都となんの縁もなかった光秀ですが、織田信長・足利義昭と出会ってからの後半生は、どっぷりと京都に関わることになります。その光秀と京都の関係で意外と知られていないのが、京都にまつわる慣用句を4つも残したということです。「敵は本能寺にあり」「洞ヶ峠」「天王山」「三日天下」がそれです。いずれも光秀と密接な関係があり、広辞苑にも載っているレッキとしたものです。そして、これら4つの言葉を通して光秀の存在感があぶり出されてくるのです。


てきはほんのうじにあり【敵は本能寺にあり】

真の目的は別のところにある。(広辞苑より)

「合コンで、AはB子とばかり話していたのに、実際にオトしたのはB子の隣にいたC子だった。百戦錬磨のAらしい作戦、これぞ『敵は本能寺にあり』だね」というような使われ方をします。

本能寺の変の前日、丹波から中国地方に向けて16,000人もの大軍を指揮していた光秀が、突如「まわれ~左!」と京都への方向転換を命じた有名なセリフがそのまま慣用句となりました。ちなみに、土地カンのない兵士のために「敵は“四条”本能寺にあり」と親切丁寧にアナウンスしたという説もあるそうです。信長襲撃計画は、ごくごく一部の重臣を除いてほとんど誰にも知らせぬままだったため、兵士たちは腰を抜かすほど驚いたはずです。「麒麟がくる」でも、長谷川博己扮する光秀が「敵は本能寺にあり!」と叫ぶシーンはドラマのクライマックスになることでしょう。光秀が主役として登場するはじめての大河で、この名場面にどのような演出がなされるかが楽しみです。ただし、実際に彼が「敵は本能寺にあり」と発したのか、その真偽は定かではありません。小説やドラマ向けの創作かもしれませんが、光秀一世一代の名ゼリフはあったと信じるのが歴史のロマンというものです。


ほらがとうげをきめこむ【洞ヶ峠を極め込む】

両方を比べ有利な方につこうとして形勢を観望すること。(広辞苑より)

「日和見主義」の代名詞といえるこの言葉。どっちつかずの様子見をして、勝ちそうな方に味方しようってことです。うまく立ち回れれば、どっちに転んでも損をしない作戦ですが、バレると人間性を疑われます。てゆうか、たいていバレます。

本能寺の変の後、光秀と秀吉が山崎の戦いで対陣したとき、筒井順慶(つついじゅんけい)という光秀と仲よしこよしの大名が、戦場近くにある洞ケ峠(現在の京都府八幡市内)に布陣し、山頂から戦況を見下ろして有利なほうに加担しようとしたことが語源とされています。

光秀にとっては絶対に味方になってくれると計算、いや信じ切っていたのが筒井順慶でした。順慶は大和(奈良県)を治める大名だったのですが、信長はこの大和の地を光秀に与えようと考えていました。しかし、光秀はこれを辞退し順慶を推薦したそうです。つまり順慶にとって光秀は大恩人なワケで、光秀が味方につくと信じていたのも当然です。ところが、順慶の心境を察すると「いやいやいや、誰も光秀殿の味方になるとは言ってないよ。だってアンタは今、裏切り者の犯罪者状態でしょ。そんなアンタと組んだら、こっちまで悪者にされちゃうじゃん」といった感じでしょうか。とはいえ「秀吉が勝つって決まったわけでもないし…。うーん、困ったね。どーしよ?」と悩んだあげく「とりあえず野球でいえば5回の裏くらいまでは様子を見といて、後半戦から勝ちそうな方にまぎれこんじゃえ!戦場のドサクサでバレへんっしょ」っていうスタンスですね。そらズルいわ。

なお、史実では、洞ヶ峠に陣をかまえたのは光秀だったそうです。そして、どっちにつくのか態度がはっきりしない筒井順慶に「どーすんの?もちろん俺に味方するよね。まちがっても秀吉ごときサルについたりしないよね。ね、ね、ね…」と去就を問うたものの、正義は秀吉にアリと見た順慶はあっさりと光秀を見限り、秀吉に恭順の意を示します。なので順慶は決してズルをしたわけではありません。なのに、どこでどう間違ったのか「洞ヶ峠=日和見=ずっこい人=筒井順慶」という図式ができあがってしまいました。伝言ゲームのように人を介する度にだんだん話が変わってしまったのかもしれませんね。つまり筒井順慶にとっては事実無根の汚名が、そのまましっかりと辞書に載ってしまったということです。義理よりも利を優先した、そのしたたかさが悪印象となったのかもしれません。お気の毒です…。


てんのうざん【天王山】

秀吉と光秀とが山崎に戦った時、この山の占領を争い、秀吉の手に帰した。これが両軍の勝敗を決したことから、勝負の分れ目を「天王山」という。(広辞苑より)

主君信長の仇討ちを果たさんと、京都に攻め上がってきた秀吉を光秀が迎え撃ったのが山崎の戦いです。勝負のカギとなったのが、京都と大坂の境目に位置する天王山をどちらが押えるか、でした。そのことから勝負や運命の分かれ目の「ここ一番!」という状況の例えとしてよく使われます。よくプロ野球の首位攻防戦で「この3連戦が天王山」というように用いられていますよね。でもクライマックスシリーズのおかげでリーグ優勝のありがたみが薄れた現在では、言葉の重みがなくなったようにも思います。

勝負や運命の分かれ目というスケール感と、「天王」という言葉の響きから大きな山を想像しがちですが、実際の天王山は標高わずか270メートルの低い山です。なお、天王山を有する京都府大山崎町はサントリーが日本初のモルトウイスキー蒸溜所を建てたことでも有名です。


みっかてんか【三日天下】

明智光秀が天下を取り、日を経ずして殺されたことから、極めて短期間しか政権・権力を保持できないこと。(広辞苑より)

現代でいえば「暫定1位」といったところでしょうか。束の間の栄華であったり、ヌカ喜びした場合などにも使われることがあります。織田信長を倒した光秀がそのまま京都を制圧し天下を握るかに思われたものの、すぐさま秀吉に敗れたため天下人の座から落っこちてしまいました。この時の光秀の天下がひじょーに短い期間だったことを揶揄してできた言葉です。ちなみに光秀が本能寺の変を起こしてから、秀吉に敗れて落命するまで実際には12日間ありました。なので「三日」とは短い期間の象徴ということです。「三日坊主」って言いますよね、あれと同じです。

三日しか天下を維持できなかったと否定的に捉えられる光秀ですが、秀吉が常識外のスピードで攻め上がってきた「中国の大返し」がなければ、つまり光秀の京都支配がもう少し続いたのであれば、両者の形勢が変わっていたかもしれません。たしかにもう少し時間があれば、京都での地盤を固めることができた光秀が将軍の座に就けたのではないか、という説もあります。そうなれば筒井順慶らの大名が光秀陣営についた可能性も十分にあったと考えられます。そう考えると三日天下には「わずか三日で何ができるものか。あともう少し日があれば…」という光秀の無念と読みとることもできますね。


あらためて見直す明智光秀の存在感

ここまでご紹介しました光秀にまつわる4つの言葉は、いずれも京都を舞台としてできたものです。とはいえ、光秀本人が自ら発した言葉は「敵は本能寺にあり」の1つだけであること、また残りの3つは光秀にとって名誉とはいえないものであることから、これらを「光秀が残した言葉」というには、少々苦しい部分もあります。しかし、光秀が「本能寺の変」という世紀のクーデターを起こさなければ、これらの言葉が世に出ることがなかったのも事実です。

驚くべきことは、この4つの言葉がわずか10日あまりの出来事から生まれたことです。現代にたとえれば、10日間で流行語を4つも作ったようなものです。しかも、その流行語は400年たった今も使われているわけで、そう考えると光秀の偉大さ(?)が見えてきますよね。誰もそんなこと言いませんが広辞苑史上に残る記録保持者、MVPともいえる貢献をした男。それが光秀ではないでしょうか。

歴史が大きく動いたとき。鎌倉幕府による初の武士政権、関ヶ原の戦い、明治維新、太平洋戦争終戦などが挙げられます。これらは大きな節目ではあるものの、その結果に至る流れや雰囲気ができつつあり「誰もが予測しなかった」という訳ではないと思います。これらの出来事と比べると本能寺の変そして山崎の戦いは、その衝撃度がケタ違いです。寝耳に水、夢にも思わなかった信長の横死。それだけでも超ド級の「!」です。で、「じゃあ光秀が天下を取るの?」と思ったら、まったく視界に入っていなかった秀吉が、あり得ないスピードでやってきて、あっという間に光秀を倒してしまいました。人々からすれば「えっ、えっ、えーーーー!?」てな感じであったに違いありません。流行語をみてもわかるように新しい言葉が生まれるときとは、人々の印象に強く残る出来事があったときです。光秀が本能寺の変を起こしてからの12日間はとてつもなくダイナミックに世の中が動いたときであり、その結果として京都の人々に強い印象を残したということです。

もちろん実際に天下統一を果たした秀吉はスゴい人なのですが、光秀が本能寺の変を起こさければ秀吉の天下は、ぜーーーったい!にあり得なかったはずです。下手したら教科書にもその名前が載ってないかもです(欄外の註釈くらいには載るかな)。秀吉にとって光秀という存在は、めちゃめちゃバネの利いたジャンプ台のようなものだったことでしょう。光秀サマサマです。

信長の視点からすれば英雄を裏切った男として、秀吉の視点からすれば主君の仇として、光秀は常に悪者に描かれます。しかし、日本の歴史を動かしたそのインパクトは、少なくとも秀吉や家康の比ではないと思います。決して褒め言葉にはなっていない4つの言葉ですが、これこそが明智光秀その人の大きさを表わしているのです。


(編集部/吉川哲史)

【参考文献】
征夷大将軍になり損ねた男たち/二木謙一
「本能寺の変」は変だ!/明智憲三郎
明智光秀とは何者なのか?/歴史REAL編集部
戦国武将の通知表/八幡和郎
広辞苑第四版



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