祇園祭は疫病に負けたのか 最終話
神輿舁きにとっての本義
静かな7月がゆっくりと過ぎ去ろうとしている。このKLKの編集長として、そして三若神輿会の幹事長として「祇園祭は疫病に負けたのか」シリーズの最終話は私が綴りたい。
山鉾も神輿も出なかった今年は「祇園祭の本義」というちょっと難しい話が耳目を集めた。言うまでもなく祇園祭の本義は八坂の大神を市中に迎え、民が神に祈りを捧げて疫病をはじめとした禍を鎮めていただくことである。
山鉾巡行も神輿渡御もその本義のために行われているものであり、その意味において神輿が渡らずとも八坂の大神様が鴨川を超えて洛中においでになったことで祇園祭の本義は守られたことになる。
神輿不在でも粛々と斎行される神事を三若の舁き手たちはどのような心持ちで遠く眺めていたのか。さぞかし無念ではなかったのか。そこには語られているような祇園祭の本義とはまた異なる「本義」が舁き手の胸の内にあったように思う。
死に装束を纏って
三若の法被は白地に黒字の染めである。これは死に装束。
「神輿で死んでも文句は言うな」という覚悟でのご奉仕と先達から言い聞かされている。
引退したあとにでも亡くなった方は三若の紋章である鱗紋の法被を棺に入れられる。「俺は死んでも神さん(素戔嗚尊)の子なんや」という誇りであろう。
三若(中御座)、四若(東御座)、錦(西御座)と三社ある神輿会の中でおそらく一番神事に篤いのが三若だろう。
その男たちに「今年は神輿を出さず境内での居祭り」の報が届いたのが4月下旬。コロナ禍で覚悟していたとはいえ、胸を掻きむしられるような思いであった。
「決定が早すぎる」「御旅所までの直行でもなんとか神輿を出せないか」さまざまな声が飛び交ったが、私が心強かったのは「もしコロナの終息が見えたなら、神輿洗の7月10日(神幸祭の一週間前)に招集をかけてもらえば三若輿丁(舁き手)800人を揃えてみせます」という頭(かしら)の言葉だった。叶わぬであろうこととわかっていても目頭が熱くなった。
ただただ悔しい
7月1日の吉符入から今年の祇園祭は始まった。
密を避けながらも本義を守るべく、縮小されたり形式は変われど滞りなく神事は斎行されていった。
しかし誤解を恐れずに言うと粛々と行われた神事において三社(三若、四若、錦)の神輿会は蚊帳の外であった。
各社の会長が渡御祭等に参列したので厳密にはそうとは言えないかもしれない。
しかし境内参拝は許されたものの、密を避けるため神輿前の神事に近づくことを許されなかった舁き手たち。今まで死に装束で背と肩に大神を背負い、肩に血が滲んでもかつぎ棒を離さずにお渡りを支えてきた男たちにとってそれはあまりにも酷なことであった。
四若、錦の舁き手も同じ気持ちであったことは渡御祭で合わせたお互いの顏を見ればすぐにわかった。
お馬に乗って大神様にお渡りいただくだけなら「祇園祭の本義」は神職だけでも固持できる。しかし「荒々しく高々と差し上げられるお神輿により、大神様のご神威はますます強く発動されます」という森宮司のいつもの言葉をよりどころにするなら、舁き手が心の居場所を失ったのも仕方ないことであった。
涙雨
17日のご神幸に続き24日のご還幸の渡御祭も雨模様であった。午後6時前の四条寺町御旅所は宮本組役員を中心に行列が整えられ、今まさに発たんとしていた。
御旅所前の密を避けるため四条通の北側で待機していた三若役員と舁き手たち。「ヨーイ、ヨーイ、ヨーイ、ヨイ!」「ホイット、ホイット、ホイット、ホイット!」突然に大勢の男たちの太い声があがり、手拍子が歩道に響いた。
驚いて目をむく人、一緒に手を打ってくれる人、歩き始めた神職や宮本組役員もその声を歓迎してくれているような気がしたがそれは私の思い違いだったろうか。
たとえ眉をしかめられていたとしても、荒ぶる神、素戔嗚尊はすこぶるご機嫌であられたと信じたい。
交通規制の敷かれた車道を行く行列を追う30人の男たち。
いつもは同じ道で神輿を練っていたはずが、非公式随行の今日は離れて歩道から追いかけるしかない。
大政所での神事、神泉苑での神事を経て地元である三条会商店街へ、そして又旅社での奉饌祭。ここでもホイト!ホイト!でご神馬をはじめ行列をお迎えする。
決して「粛々と」とは言えないお迎えだが、もう今さらお叱りを受けることもないだろう。
舁き手の顔からも険しさが消えてきた。
三条堀川のアーケードを出る頃にはひときわ雨が強くなってきた。「これは輿丁の涙雨なのか」私にはそう思えた。
三条高倉にて
祇園祭にとって由緒ある三条高倉。
後祭の山鉾が三条通を巡行していた時のくじ改めが長谷川松壽堂(清々講社長谷川副幹事長の会社)前で行われていたこともあり、今年の渡御列はここで休憩される。
先回りをしてお迎えする。
雨はいよいよ激しくなるが輿丁は誰一人傘を差さないし合羽も着ない。神輿(今年はご神馬)が雨に打たれているのに自分たちが傘を差すことはない。それが輿丁の矜持だ。
「ホイット、ホイット、ホイット、ホイット!」夜の住宅街に声が響く。いや雨に消されて響かないのだが、ご接待のお手伝いをされる地域の方々も一緒に手を打っていただき一段と大きな声となっていた。
行列が着かれ短い休憩をされるとすぐにまた出発。お見送りの掛け声がまた響く。「ヨーイ、ヨーイ、ヨーイ、ヨイ!」「ホイット、ホイット、ホイット、ホイット!」神職や宮本組役員の何人かがこちらに向かって会釈をしてから歩き出された。
涙のお迎え
渡御列は三条寺町を下がり四条御旅所前を再び通り一路八坂神社へ向かう。
石段下では三社の輿丁有志が集まりお出迎えをすることが急遽その日の朝に決まった。
私が着いた時には四若、錦の輿丁も集まっておりそこに三若輿丁が合流した。
白いご神馬を目印に行列が近づいてくるとホイト!ホイト!と手を打ち始める。
いつもは自分たちが担う渡御を、まさか端から声を送ることがあろうとは誰一人思っていなかったはずである。
ご神馬が石段下交差点を三周まわろうとする時、四若の木下幹事長の声が「マワセ!マワセ!」に変った。
いよいよ例年の石段下での神輿振りを彷彿とさせて胸が熱く、苦しくなる。
涙を流している輿丁もいるが、然もありなんだ。
先ほどよりさらに多くの神職や宮本組役員がこちらに会釈をして通り過ぎた。
三社の輿丁と大勢の観客に見守られる中をとにかく還幸の渡御列は石段下から南楼門へと神幸道を上って行った。
7月28日神輿洗にて
お還りの渡御祭が明けて4日目の28日。この日は夕刻の神輿洗神事の前に神輿のお飾りを外して仕舞う仕事がある。
午後3時に三若からは精鋭輿丁20人が神輿庫前に詰めた。
揺られ鳴ることもなかった鈴や瓔珞(ようらく)。祭りの後は寂しいものだが今年はひとしおだ。裸になった神輿を見るとその思いが一層強くなる。
本殿での神輿洗奉告祭に続き神輿庫前で神輿洗式が斎行される。
「神輿会のみなさんもこちらへお並びください」と告げられた。
これは10日の神輿洗式では叶わなかったことだった。
神輿庫に向かって右側に宮本組役員、左側に清々講社正副幹事長と三若会長(三社神輿会会長)が並び、神輿会役員・輿丁が続く。
祝詞が奏上され、御神用水を榊で掬って神輿に振りかけられる。
神官が退下される時に、森宮司が神輿会の前でふと足を止められた。
宮司は24日の御神霊渡御祭の石段下でのお迎えに触れられ「雨の中をマワセ、マワセの掛け声に沿道の人たちも涙を流し、私も感動で涙が溢れました」と、神輿会に対してこれ以上はないお褒めの言葉をいただいた。
最後に最高のご褒美をいただき感無量だ。
神輿舁きとして立派に祇園祭の本義を貫き通した彼らを誉れにしたい。
(カーテンコール)
神輿庫でのお飾りの片づけのあと、数十センチだけ神輿を動かす必要があった。「手舁き」で動かせるものだが、今年初めて神輿に肩を入れて動かし、そのままほんの数十秒だけ練らせていただいた。声が響き、神輿は上下に大きく揺れたが、周りに数人おられた神職はきっと目を瞑っていただいていたに違いない。深謝。
最後の最後に
本稿の掲載にあたって幾人かの方からお写真をご提供いただきました。熱い想いをもって1ヶ月間の神事を追ってくださった写真家の皆さまにこの場にて心から御礼を申し上げます。来年は勇壮な神輿振りを撮影してくださいね!
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三若神輿会幹事長として、八坂神社中御座の神輿の指揮を執る。
神様も、観る人も、担ぐ人も楽しめる神輿を理想とする。
知られざる京都を広く発信すべく「伝えたい京都、知りたい京都 kyotolove.kyoto」を主宰。編集長。
サンケイデザイン代表取締役。
|三若神輿会幹事長|祇園祭/神輿/八坂神社/裏側/深い話
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写真:田中幸美氏