「かくなる上は信長公の弔いとして知恩院で腹を切る!」  

セリフの主は徳川家康。本能寺の変により織田信長の突然の死を知った家康は、長年の盟友であり幼なじみともいわれる信長の死に驚愕し、徳川家の京都の菩提寺ともいえる知恩院で自分も腹を切ろうとしたが…ということになっています。でも、本当にそうなのでしょうか?本能寺の変に家康が関与していたという説は昔から実しやかに語られています。また近年では、それを題材にした小説やコミックも人気を呼んでいます。

家康といえば、彼の遺訓として知られる「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず」に象徴される我慢と忍耐の人、あるいは堅実な人、というイメージがあります。ここからは黒幕感が見えてきませんが、いっぽうでもう一つの顔である「タヌキ親父」のキャラが出てくると、怪しい匂いがプンプンと漂いはじめます。果たして家康は本能寺の変に関与していたのか?また、そうであるなら石橋を叩いても渡りそうにない堅実な家康をして、信長襲撃という危険な賭けに走らせたものは何だったのか?あわせて 本能寺の変から見える家康像を述べることとします。

果たして家康は本能寺の変に関与していたのか?また、そうであるなら石橋を叩いても渡りそうにない堅実な家康をして、何が信長襲撃という危険な賭けに走らせたのか?そしてタイトルにある「失望」とは何を意味するのか?さらには切腹の地に選んだ知恩院と家康との関係とは?Kyoto Love.Kyoto的家康黒幕論をお楽しみください。


※読者より「失望の使い方がおかしい」とのご指摘をいただきました。失望とは「望みを失うこと、がっかりすること」の意味があります。字義通りに解釈するとご指摘の通りでなのですが、意図的に拡大解釈しております旨、ご理解いただけますと幸いです。

本能寺の変のとき、家康は何をしていたのか。

まずは「本能寺の変」前後の家康の行動をふり返ってみましょう。1582(天正10)年3月、織田・徳川連合軍は宿敵である武田氏を滅亡させました。信長は家康の功に報い駿河国を与え、安土城に招き盛大なおもてなしをします。これが5月半ばのことで、本能寺の変の約2週間前にあたります。その後、信長のすすめもあって家康は堺を遊覧します。久しぶりに骨休みをした家康は京都に戻ろうとするその道中で、仰天ニュースに接します。そう「明智光秀ムホン、本能寺で信長死す」の報です。信長の同盟者である家康は、光秀にとっては敵ということになります。このとき家康には護衛の軍隊がつかず、わずか数十人のお供がいるだけでした。光秀軍およそ13,000に対し、家康一行はせいぜい50人。狙われれば瞬殺されること間違いなしの絶体絶命状態です。

さすがの家康もうろたえたようで、冒頭の「かくなる上は…」のセリフを叫んだそうです。パニくる家康を家臣がなだめ、徳川の本拠である三河に戻り、態勢を立て直してから光秀を征伐しようと提案します。我に返った家康は、宇治田原(京都府南部)から伊賀に入り脱出をはかります。しかし、それは危険がいっぱいの道でした。各地には家康の首を狙う落ち武者狩りがウヨウヨしていたからです。彼らの目から逃れるため、絶壁の崖をボルダリングのような格好で渡りぬけるなど、命からがら地元三河に生還しました。この逃避行アドベンチャーは「神君決死の伊賀越え」と呼ばれています。

そして、すぐさま光秀征伐の軍勢をととのえようとしますが、時すでに遅し。羽柴秀吉があり得ないスピードで中国地方から切り返し、すでに光秀を討ち果たしてしまっていたのでした。これにより信長弔いの手柄=天下取りへのキップを秀吉の奪われてしまうことになりました。

黒幕・家康?

ここまでがオフィシャルに伝えられる家康の足取りでした。これを見る限り、家康も被害者の一人といえます。しかし、家康黒幕説を唱える人はこの逃避行、実は安心楽々コースだったといいます。なぜか?そもそも本能寺の変は光秀と家康が共謀したもの。だから家康は最初から事変を知っていたのであり、光秀も家康を襲わないというものです。

先ほど、信長は安土城で家康を歓待したと述べました。その接待役として選ばれたのが他ならぬ明智光秀その人です。ゲストと接待役であれば、なにかと接点があり信長襲撃の密談をするチャンスもあったのではないか、といわれています。また、2人のキャラクターは、信長とは真逆の堅実に歩むタイプ。共通点が多いだけに共謀もしやすかったのでしょうね。

黒幕家康の動機とは?

推理小説の謎解きテーマの一つが「動機」です。家康が本能寺の変に加担していたとして、動機はあったのでしょうか?家康が幼少のころ今川家の人質であったのは有名ですが、実は織田家の人質であった時期もありました。そのとき、お互い少年であった信長と家康は将来を語りあったのではないかという説もあります。そんな幼なじみである2人が長じては、互いに一国の主として同盟を結ぶことになります。しかもこの同盟は20年間もの間、ただの一度も破られることがありませんでした。時は戦国、裏切りなんて日常茶飯事の世情にあって、これは奇跡の同盟ともいわれています。

長期の同盟が成立した理由は、家康の律儀な性格と両者の利害が一致したことにありました。しかし、その関係も本能寺の変の頃になると、薄氷の上に立つような微妙なものでした。というのも、最初はほぼ対等の同盟であったのが、信長の勢力が飛躍的に拡大するにつれ、次第に家康が信長に従属する形、つまり命令される立場となっていったのです。そして、ある事件が両者にヒビを入れることになります。

1579(天正6)年、家康の長男・信康に嫁いでいた信長の娘から父・信長宛に手紙が送られます。そこに書いてあったのは「夫・信康とその母・築山殿が武田と内通している」というものです。手紙を読んだ信長は、家康に長男と奥方を殺害することを、限りなく命令に近い形で示唆しました。「従わなければ、同盟を破棄して攻め滅ぼすぞ!」というビシビシのプレッシャーをかけます。当時は家族よりも「家名の存続」が最優先される時代。家康は泣く泣く妻と長男に死を与えることになりました。

実は家康と築山殿との夫婦仲は冷めており、そこに大きなためらいはなかったかもしれません。しかし、長男の信康は優秀な武将に育ち、家康も大きな期待を寄せていました。ですから長男への切腹命令は父として、一国の主として、まさに断腸の思いであったことでしょう。それが信長への恨み、つまり本能寺への伏線となった可能性は十分にあり得ます。

また、信長は家臣に対して成果主義を徹底しました。その結果「途中入社組」である光秀や秀吉が異例の出世を果たすわけです。その一方で過去に功績があった者でも「現在の」実績がない場合は容赦なく処断されます。本能寺の2年前に、宿老であった佐久間信盛と林秀貞が突然、着の身着のまま同然で追放されたのはその好例であり、見せしめの意味もありました。

それを見聞きした家康は何を思ったか。「長年の同盟関係があるとはいえ、それは信長にとっての自分に利用価値があればこそ。価値がなくなったその時、信長がどう出るか…」といったところではないでょうか。信長にとっての利用価値、それは大敵・武田家への防波堤を務めることでした。しかし、その武田家も昔日の勢いはありません。それは家康の価値がなくなることを意味しており、もちろん家康本人がそれを意識しないはずがありません。「いずれ、自分は信長に粛清される。であれば、いっそやられる前に…」と家康が考えた可能性はあると思います。

以上2点、信長への怨恨とお家存亡の危機。動機としては十分ではないでしょうか?

家康に野望はあったか?

さて、光秀の信長襲撃が成功したと仮定して、家康はその先に何を見ていたのでしょうか。考えられる選択肢は3つあります。

1.徳川・明智による連合政権を敷く
前述のとおり、家康と光秀のの価値観や思考は近いものがあり、政治思想も大きな隔たりはないと思われます。両者による天下泰平を目指す密約があったとしても不思議はありません。

2.徳川単独で天下を目指す。
実際の歴史はそうなりました。ただし、家康が昔から天下を目指していたとは考えにくいです。信長の覇道に従ううちに、天下統一にリアリティを感じたことで、家康の野望がムクムクと頭をもたげてきたのかもしれませんね。

3.天下は狙わず、領地の保全・拡大に努める
何よりもお家の安泰を考えるのが大名の責務。信長という脅威がなくなれば、徳川家は安泰です。堅実な家康の性格を考えれば、一番ありうるのがこの選択肢だといえます。

史実はご存じの通り、秀吉に先を越され豊臣政権に組み込まれ家臣として仕えた家康でしたが、関ヶ原の戦いを経て江戸幕府を開き、泰平の世を築きました。

織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座りしままに 食ふは徳川。

関ヶ原の戦という、いわば「ワンチャン」をものした家康を風刺する有名な川柳です。しかし、信長が「つく」ことができたのも、秀吉が「こねる」ことができたのも、家康のアシストと忍従があればこそ。徳川の援軍がなければ、家康の律儀な性格と優れた統治能力による支えがなければ、安土桃山時代はまったく異なる世界になっていたかもしれません。そう考えると、家康が最後の果実を独り占めできたのは、歴史の必然だったように思います。

家康「しかみ像」

家康「しかみ像」

武田信玄に大敗した家康が、その敗北を教訓にしようと、顔をしかめ苦渋の表情をあらわにした姿を描かせたもの。画像は肖像画を元に製作された石像。

知恩院と徳川家

ところで、家康はなぜ「知恩院」で切腹すると言ったのでしょうか。そこには知恩院と徳川家の深い絆がありました。知恩院は浄土宗の開祖である法然上人の死後、その高弟が京都東山に遺骨を安置したことがその礎となっています。徳川家康は熱心な浄土宗信者であり、彼の旗印には「厭離穢土 欣求浄土」という浄土宗の教えを説いた言葉が刻まれています。家康にとって知恩院は心の拠りどころとなっていたのでしょう。

信長、秀吉、家康の戦国三英傑の宗教観は、3人の個性そのままに相違を見せています。無神論者といわれた信長は宗教を超越した存在になろうとしました。秀吉は自身の箔付けとして神仏を利用したように思えます。貧農の身から成りあがるにはある種の教養ともいえる宗教に関わる余裕などなかったのかもしれません。対して家康の信仰は、2人に比べ遥かに純粋だったように思います。家康の忍耐力の背景には、浄土宗への信仰があったのかもしれません。

そう考えると、家康が知恩院の発展に大きく力を注いだのもうなずけます。家康の母である於大の方がなくなると知恩院を菩提寺にするとともに知恩院の寺領を大幅に拡大し、御影堂、集会堂など諸堂が造営します。その後も徳川家は全面的に知恩院を援助し、三門をはじめとした境内が整えられ、観光地として栄える現在に至っています。


家康に黒幕としての野望があったのか。その真偽はともかく、家康は長期にわたる雌伏の時を経て天下人に昇りつめました。家康の忍耐強さに加え「今は辛い時だが、それでも今の自分にできる最善を尽くそう」という強い心が、家康を最後の勝者にしたのではないでしょうか。信長や秀吉の人生には、天性の資質や僥倖ともいえる幸運が見え隠れしますが、家康の生きざまは凡人である私たちにも学ぶところが多いと思います。

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この記事を書いたKLKライター

八坂神社中御座 三若神輿会 幹事
吉川 哲史

「西陣がわかれば日本がわかる」という大胆な著書を上梓した京都と西陣をこよなく愛する生粋の京都人。
 
日本語検定一級、漢検(日本漢字能力検定)準一級を取得した目的は、難解な都市・京都をわかりやすく伝えるためだとか。

地元広告代理店での勤務経験を活かし、JR東海ツアーの観光ガイドや同志社大学イベント講座、企業向けの広告講座、オンラインイベント「ひみつの京都案内」などのゲスト講師に招かれることも。

得意ジャンルは歴史(特に戦国時代)と西陣エリア。自称・元敏腕宅配ドライバーとして、上京区の大路小路を知り尽くす。夏になると祇園祭に想いを馳せるとともに、祭の深奥さに迷宮をさまようのが恒例。

サンケイデザイン㈱専務取締役

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