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豊臣秀吉といえば、農民から天下人にまで昇りつめた出世物語で人気を博す戦国武将です。その最大のジャンプのきっかけが本能寺の変でした。もし、明智光秀の謀反がなければ、秀吉の天下はなかったでしょう。そこで出てくるのが、秀吉が本能寺の変をウラで操っていたのではないか、という秀吉黒幕説です。「本能寺の変に黒幕はいたのか?」Part4は秀吉の生き様とともに、本能寺の変のもう一つの読み方をご紹介したいと思います。
まずは定説をざっとおさらい
「まさか…上様が…信じられん!!」
書状を持つ手をわなわなと震わせながらつぶやいた声の主は羽柴秀吉、後の豊臣秀吉です。本能寺の変による主君・信長の悲報を知り、驚き嘆くとともに自身の危険に気づかされます。このとき秀吉は中国地方の雄・毛利氏と対峙中であり、秀吉方が優勢ではあったものの、後ろ盾となる信長が亡くなったとあれば形勢逆転もあり得ます。秀吉の震えは悲しみとともに恐怖からくるものでした。
と、そのとき秀吉の耳元に「好機がおとずれましたな」というささやきがそっと、しかしハッキリと響きました。秀吉の軍師・黒田官兵衛のセリフです。
天下統一を目前にしていた信長亡き今、主君の仇である光秀を討てば一気に天下が狙える…と言って秀吉をけしかけたといわれています。その言葉に我をとり戻した秀吉は、まるで神が乗り移ったかのような早業をなし遂げます。まず交戦中の毛利氏とはソッコーで和睦し、ただちに軍を東に向けます。備中高松から居城である姫路までの道のりおよそ110kmをわずか2日足らずというあり得ないスピードで駆け抜け、その勢いのまま光秀を討ち果たしました。有名な「中国大返し」伝説です。この大いなる殊勲を背景に、あっという間に秀吉は関白の座に昇りつめ天下人となりました。太閤立志伝のハイライトです。
中国大返しってホント?
でも、ちょっと待ってください。「これってあまりにも出来すぎていませんか?」っていうのが秀吉黒幕説の論調です。まず、本能寺の変を知らせる手紙、これが怪しい。光秀が毛利宛に放った使者が、まちがって秀吉方に迷い込んでしまい手紙を入手したとされていますが、こんな最重要機密を知らせる大役を、そんなマヌケな使者に託すでしょうか?次に「翌日ソッコーで和睦」となっていますが、普通はこんな簡単にはいきません。「おかしいな、なんかあったんとちゃうか?もうちょっと様子見とこ」と考えるのが自然です。それに仮に和睦したにせよ、真実を知ったら秀吉軍を猛烈に追いかけるはずです。が、毛利勢はじっとしたまま。さらに、いくらなんでも2日足らずで110kmはありえない。24時間テレビのマラソンランナーは万全の準備をし、伴走者までついていますが、兵士たちは鎧をまとい、槍などの武器や荷物を持ちながらですからね。もちろんマラソンシューズではなくワラジです。しかも1万人以上の行列ですからね。
ということは…そうです、秀吉は知っていたのです。信長が光秀に殺されることを。だから事前に毛利との和睦の準備をしていたし、兵士も先発隊は数日前に出発していたし、重たい荷物はあらかじめ用意していた船で運んだので軽装で走れた…という説です。
光秀・秀吉の両雄は並び立つか?
では、秀吉は光秀とつるんで本能寺の変を企てたのか?というと、私はウ~ンとうなってしまいます。2人は水と油の関係だったからです。どちらも織田家の途中入社組で信長に気に入られ、生え抜きの重臣たちをゴボウ抜きに出世しました。その点では共通項があり、他の家臣たちからのジェラシーや嫌がらせをお互いに慰めあったりしてもよさげですが、なにせキャラが違いすぎました。かたや浪人だったとはいえ、源氏の血筋をもち高い教養と卓越した能力を備える光秀。いっぽうの秀吉は氏素性も知れぬ農民の出身で、アタマの回転は速いものの無知無教養&下品丸出しの秀吉。光秀から見れば、能力は認めるものの、その品のなさや信長への露骨なゴマすりは見るに堪えられないものがあったでしょう。逆に秀吉から見た光秀は、上から目線のインテリ臭が鼻につくイヤミな野郎。お互いをそんな風に思っていたのではないでしょうか。
そんな2人がタッグを組むなんてことはあり得ないと思います。仮に手を組んだとしても「こいつ、ゼッタイ俺をハメようとしてるはず。いつ信長さまにチクるんやろ?」とお互い疑心だらけになり、連携などとれるはずがありません。
「じゃあ、秀吉は黒幕じゃなかったの?」というと、そうでもありません。光秀と共謀するのではなく、秀吉ひとりで本能寺の変を演出した可能性があるということです。どういうことかって?光秀が謀反を起こすように、あの手この手で仕掛けたのでは?ということです。「あの手」とは四国問題であり、「この手」とは秀吉から信長への援軍依頼です。
本能寺の変のシナリオを書いたのは秀吉だった?
まずは四国問題から説明します。四国は長曾我部元親という大名によって統一されようとしていました。元親は信長とは同盟の関係にあり、その橋渡し役となったのが光秀でした。同盟のために、重臣である斎藤利三(春日局の父)の妹を元親に嫁がせるなど、光秀と元親は親密なつきあいをしていました。
しかし、信長は心変わりし同盟を破棄して四国を攻めようとするのです。光秀にしてみれば「そりゃないぜ!」といった気持ちで、板挟みにあって苦しみます。実際、光秀はこの問題をうまく処理できずに信長の不興を買います。このとき信長が心変わりするように仕向けたのが秀吉ではないかという説があります。目的はもちろん、信長と光秀の関係を悪化させるためです。
次に信長への援軍依頼について。前述の毛利との対戦中に、秀吉は信長に援軍を請います。しかし、当時の戦局からみて秀吉勢が優勢なのは明らか。わざわざ援軍を呼ぶ必要はありません。では、なぜ援軍依頼をしたのか。このとき信長の周囲で援軍を出せるとすれば、遊軍の光秀しかいなかったからです。ここで光秀の立場で考えてみてください。信長を襲撃するにしても、命令もないのに光秀が軍を出せば怪しまれます。でも信長の命令であれば堂々と出陣ができます。そして夜中に方向転換をして京都市内に入ったのが本能寺の変というわけです
つまり、秀吉は信長と光秀の仲を裂いて謀反をけしかけるようにし、かつ実行できる条件を作った。という見方ができるわけです。あとは実際に光秀が実行するかどうか?それは「いつ」なのか?そのあたりの情報収集は秀吉が最も得意とするところです。なので本能寺の変の第一報は、来るべくして秀吉のもとに届いたのでしょう。いかがでしょうか。2人が共謀した説よりもリアリティがあると思いませんか?
動機の核心
殺人事件の捜査のイロハに「被害者が亡くなって得をしたのは誰か?」があります。本能寺の変によって多くの人々の人生が大きく変わりました。中でも一番大きなメリットを受けたのが秀吉であり、秀吉黒幕説が唱えられる所以です。ただし、その動機の根底には単純に「天下を取りたかった」というよりも、もう少し根深いものがあるように思います。ご存知の通り、秀吉は貧農の身分に生まれました。そして母の再婚相手である継父との仲が悪く少年期に家を飛び出します。その後の秀吉は生きるために必死でした。あるときは商人として身をたてようとし、またあるときは盗賊まがいのことにまで手を染めていたようです。少年がひとりで、まして乱世の時代に生き抜こうとすればやむを得なかったでしょう。
このときの藤吉郎(秀吉)のアタマは「生き残るにはどうすればいいか?地べたを這いつくばるような貧しさから逃れるにはどうすればいいか?」でいっぱいだったと思います。その解決策が金を得ることであり、出世することだったと思います。ひと言でいえば「欲望」を満たすことが生きる支えだったと思います。欲望のために生きたのではなく、生きるために「欲望」が必要だった。搾取や略奪が当たり前であった戦乱の時代とはそういう側面をもっていました。「欲望」というとネガティブなイメージを持たれがちですが、人間の大きなエネルギーとなるのは間違いありません。ただし、欲望の怖いところは際限なく次々と求めてしまうところにあります。貧農だった自分が足軽となり、侍大将となり、ついには一国一城の主となりました。それでも欲望は留まることなく「次」を求めます。いつしかそれが「信長にとって代わり天下人になる」となったのでしょう。秀吉のサクセスストーリーの背景には、少年期の悲しき原体験があったのかもしれません。その秀吉の野望が現実味を帯び始めたのが、本能寺の変の直前といえます。
太閤秀吉の栄華と悲哀
秀吉といえば大坂城が代名詞であり、大阪人のイメージが強いですが、実は京都の発展にも大きく関わっています。関白すなわち公家の最高位の座に就いたことで、京都に本拠をかまえることになった秀吉は、洛中のど真ん中に政庁であり城でもある聚楽第を建てました。内装まで金色に輝く絢爛豪華なその造りは京都人の度肝を抜きます。関白の座を甥の秀次に譲り太閤と称してからは伏見城を建て、京都と大坂をつなぐ街として発展させました。城の周囲には大名屋敷が並び、現在の伏見にも「加賀屋敷町(加賀前田家)」「桃山町正宗(伊達政宗)」など当時を偲ばせる地名が多く残っています。また洛中洛外の区画整理を行い、現在も残るお土居やお寺が立ち並ぶ「寺町通」を造ったのも秀吉です。貧しかったころの秀吉にとって、天下を意味する京都に足を踏みいれることは想像もできないことだったでしょう。それが自分の思うがままに京の街を描けるようになるとは、ジャパニーズドリームそのものであったと思います。
秀吉はある意味、金の力で天下人になりました。欲しいものはおよそほとんどの物が手に入ります。彼の欲望はほぼ満たされようとしていました。しかし、最後の最後に秀吉が欲したものは手に入れることができませんでした。秀吉最後の望み、それは子孫の繁栄です。50才を過ぎて、側室・淀との間に2人の男の子をもうけることができましたが、長男・鶴松は幼くして病死、次男・秀頼は、その成長を見届けることなく秀吉はこの世を去ってしまいます。秀吉が死を悟ったとき、家康をはじめとする重臣たちに「秀頼の行く末だけが心残りだ。どうか秀頼のことをお頼み申します」と涙ながらに訴えるのです。そこに天下人の威光はなく、この世に未練を残すひとりの老人の悲哀がにじみ出ています。しかし、彼の死後その願いは叶うことなく豊臣家はあっけなく滅亡し、秀吉が最後に欲したものは手にすることができませんでした。
歴史とは人間が紡ぎだす物語であり、そこには生々しい人間の姿、人間の性があぶり出されています。それゆえ歴史とは人間を知る学問でもあると私は考えます。豊臣秀吉の生き様は、権力やお金だけではどうにもならない幸せがあることを教えてくれました。
(編集部/吉川哲史)
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明智光秀の生涯/外川淳
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