▶︎「本能寺の変」の黒幕? 天皇家の野望編
▶︎本能寺の変に黒幕はいたのか?「徳川家康の失望」編
▶︎本能寺の変には黒幕がいた? 秀吉の欲望編
▶︎本能寺の変には黒幕がいた? 信長の野望編
予は予自ら死を招いたな
「是非に及ばず」織田信長が明智光秀の謀反を知らされたときの最期の言葉です。直訳すると「どうしようもない」となります。かくなる上はジタバタしても仕方ない、という信長の潔さともとれます。同時に「光秀ほどの者が攻めてきたのだ、逃げ道があろうはずがない」と思わせるだけの光秀への評価ともいえます。
しかし、この「是非に及ばず」があまりに有名なために見落とされがちなもう一つの言葉があります。「予は予自ら死を招いたな」がそれです。こちらのセリフの解釈はけっこう難問です。そのまま読みとれば信長の死、つまり本能寺の変を起こしたのは他ならぬ信長自身ということになります。といって信長自身が死を望んだとは思えません。信長のつぶやきの真意はどこにあったのか。それが本稿のテーマです。
6月2日は家康暗殺の日だった?
信長の命日、つまり本能寺の変が起こったのは6月2日です。この運命の一日、実は信長による徳川家康暗殺の決行日であったとの説が最近にわかに浮上しています。本能寺の変とは、それを逆手にとった光秀が信長を襲撃したものだということになります。しかし、そもそも信長に家康を抹殺する理由があったのでしょうか。
家康は信長にとって無二の同盟者といわれています。ある時は最大の敵である武田信玄の防波堤として、あるときは強力な援軍して織田家を支えました。「織田の兵より数段強い」と評された徳川の強兵なくして信長の覇道はなかったでしょう。そうして1582(天正10)年、宿敵武田氏も滅び、信長の天下統一は目前にまで迫りました。しかし、そうなると同盟の意味、すなわち徳川家の存在価値が低下してしまうことになります。それどころか天下統一後のことを考えると邪魔な存在になるかもしれません。なにしろ家康は信長の命令で妻と長男の命を奪ったのですから、恨みを抱いていて当然ともいえます。猜疑心の強い信長のこと、不満分子の芽は早いうちに摘みとるべし、と考えても不思議はありません。さりとて、家康を攻撃する大義名分はなく、無用な戦いは天下統一を遅らせるだけ。となると…考えられるのは暗殺です。
家康は本能寺の変の半月ほど前から信長の本拠である安土に滞在していました。武田討伐の恩賞として、家康は信長から駿河の国を与えられました。その御礼を信長に言上するための安土訪問であり、信長から盛大な歓待を受けていました。これが家康を亡き者にするためのワナであり、そして家康を暗殺する刺客が光秀であった…。そんなシナリオを信長が描いていたというわけです。
光秀、絶好のチャンスを到来!
この時、家康の接待から暗殺まですべてを担当したのが光秀であったことが、信長にとって命とりとなりました。光秀の心の内には信長への殺意が芽生えはじめていたからです。天下統一を果たすという点では、信長と光秀は同じところを目指していましたが、その目的が違っていたことに光秀は気づかれてしまったのです。
光秀が思い描いていたのは天下統一による戦のない平和な社会でした。対して信長が見ていたものは海の向こうにありました。明国(今の中国)に攻め入り、さらなる領土獲得を目指すというものです。
つまり、戦はまだまだ続くということです。それも大規模な遠征として。信長のこの思惑を告げられた光秀は、信長を諫めようとしますが、信長は聞く耳をもちません。それどころか自分に反論した光秀を足蹴にします。有名な光秀折檻の逸話はこの時のことだともいわれています。それでも光秀は信長の明への出兵を何としても阻止しようと固く心に誓いました。そう、たとえ主君信長の命を奪ってでも。
そんなときに信長から下されたのが家康暗殺指令でした。はじめは驚きためらった光秀でしたが、これを逆に利用して信長を亡き者にする絶好の機会だと考えます。信長の暗殺作戦は、光秀にとって天が与えたかのような実に都合のよいものでした。
家康を油断させるために、信長自身も手薄な警護で京都に入り家康をおびき寄せたところを、丹波にいる光秀の軍勢が家康を仕留める、というものです。ですから、光秀が兵を挙げるのは信長の命令通りであり堂々と京へ進軍できました。ただ、その矛先が家康ではなく信長に方向転換された…というのが、本能寺の変だったというわけです。
このように家康暗殺計画により、光秀に謀反のチャンスを与えてしまったことが「予は予自ら死を招いたな」の真意だというものです。
民衆に歓迎された信長の政策が墓穴を掘らせた?
この家康暗殺説の真偽は別にして、他にも信長自身が本能寺の変を招いてしまったといえる点がいくつかあります。まずは「関所の撤廃」です。楽市楽座とセットで有名な信長の政策のひとつです。この時代の関所はいわゆる検問的な役割ではなく、高速道路の料金所のような存在でした。有力な大名や寺社などの権力者が収入源として通行料を課していたのです。これが人と物の流れを妨げるだけでなく、物価高も招いていました。商品を運ぶには関銭(通行料)が必要であり、それは当然コストとして価格に上乗せされるからです。その関所を権力者が好き放題に設置するものですからたまりません。
そこに登場したのが信長です。「関所をなくす→物の流れが良くなる→物価が下がる」を目指して、関所を次々と撤廃しました。これまでは、そんなことすれば関所のバックにいる怖~いお兄さんたちが黙っていなかったのですが、信長の圧倒的な武力の前には為す術がありませんでした。今でいう規制緩和を実力行使した信長の政策を人々は大歓迎しました。
ところが、です。皮肉なことに関所をなくしたことが、光秀の謀反を可能にしてしまったのです。関所があれば、光秀の軍勢が迫っていることが信長の知るところとなり、信長は未然に逃げることができたでしょう。光秀の謀反は、たまたま信長を襲う絶好のチャンスが目の前にあり、しかも「関所がない」という好都合まで味方したから実行されたわけで、関所があればそもそも本能寺の変は起こるはずもなかったということになります。
能力主義の人材登用が裏目に?
戦国時代は下克上社会。実力があれば身分に関係なく出世ができた。これが一般的な見解でしょう。確かに北条早雲や斎藤道三などは一介の素浪人から一国一城の主になりました。また、豊臣秀吉が農民から天下人に昇りつめたことはあまりにも有名です。とはいえ、これはごく一部のことで、実際は身分の壁が大きく立ちはだかっていました。多くの大名家では、代々世襲で使える宿老が重臣として幅を利かせているのが現実でした。そんな中、実力主義を本当の意味で採り入れたのが織田信長です。
本能寺の変のとき、織田家には軍団長といえる重臣が5人いました。柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益、羽柴秀吉、そして明智光秀です。このうち、代々織田家に仕えていたのは勝家と長秀の2人だけ、あとの3人は浪人など出自不明の身分でありながら、信長に取りたてられて出世しました。一方で佐久間信盛、林秀貞といった先祖代々織田家に仕えていた宿老が、近年の功がないことや20年以上も昔の落ち度をとがめられて唐突に追放処分を受けています。この徹底した成果主義が織田家の快進撃を支えたのは間違いありません。
しかし、同時に極端な成果主義は家臣をドライな考え方にさせがちです。それが途中入社組の明智光秀による本能寺の変でありました。光秀がいかなる理由、心情で謀反におよんだのかはここでは論じません。ただ言えるのは、それが己の欲なのか、怨恨なのか、価値観の違いや天皇など他の権威への忠節なのかはともかく、信長への忠誠以上に大事なものがあったのは間違いないでしょう。これが織田家に長年仕えていた勝家や長秀であれば、おそらく信長への忠節を第一に考えたはずです。つまり、信長はその人事政策によって覇道を突き進み、同時に足をすくわれたということになります。先ほどの関所と同様に皮肉な話です。しかも、この人事はさらなる悲劇を織田家にもたらしました。
秀吉恐るべし!
秀吉といえば、信長の草履を懐で温めた逸話など、その機転で信長に気に入られ、トントン拍子に出世したことで人気を博しています。もし秀吉が織田家以外に仕えていたら、あそこまで出世することはなかったでしょう。すなわち秀吉にとって信長は大恩人であるはずです。しかし、信長亡きあとの秀吉の行動は、織田家の乗っとり以外の何ものでもありません。まさしく恩を仇で返したわけです。それもエゲツない方法で。
本能寺の変によって絶対君主である信長と、その後継者に指名されていた長男・信忠が2人とも亡くなりました。しかし、まだ織田家には少なくとも3人の後継者候補がいました。信長の二男・信雄、三男・信孝、そして信忠の長男、つまり信長直系の孫である三法師です。この中から誰を織田家の当主にするかを話し合ったのが「清須会議」です。三谷幸喜監督の映画のモデルにもなりましたよね。詳しい経緯は割愛しますが、会議は秀吉の思惑通りに進み、わずか3歳の三法師が当主となります。ここから秀吉のワンマンショーが始まります。
秀吉が天下をとるためには、この3人よりも上位に立たねばなりませんよね。そこで、まずは三男信孝に難クセをつけ切腹に追い込み、ついでにその母つまり主君信長の妻(側室)も死刑に処します。信孝は無念のあまり、割腹の際に自らの臓物を壁にたたきつけて秀吉への呪いの言葉を発したそうです。次に二男信雄を挑発し戦をけしかけます。このとき信雄と同盟を結んだのが徳川家康であり、これが秀吉vs家康の一戦となった「小牧長久手の戦い」です。秀吉は苦戦するものの言葉巧みに信雄を篭絡し和睦。しかし、後に信雄が秀吉の意に従わなかったため、所領をすべて没収してしまうのです。さらに本来であれば主として仰ぐべき、織田家の当主となった三法師が成長した後も、結局13万石程度の中級大名にするだけでウヤムヤにしてしまうのです。これにて秀吉による織田家の乗っとりが完了します。
いかがでしょうか、秀吉は主君の妻、息子、孫を殺し、あるいは冷遇することで織田家を骨抜きにしました。秀吉といえば底抜けの明るいキャラクターのイメージが強いですが、陰ではこれだけのエグいことをしていたわけです。でも逆にこれだけのことをしながらも、後世に悪名を残さなかったことが秀吉の一番スゴイところだと思います。「人たらしの秀吉」といわれる所以です。
ここまでを整理すると、信長は自らが取り立てた光秀によって命を奪われ、同じく秀吉によって織田家を乗っとられたことになります。何事もゆき過ぎるとシッペ返しを食らうものですね。そして、これらをつぶさに見ていた家康が「過ぎたるは及ばざるがごとし」を信条に徳川260年の時代を築いたというのも皮肉なことです。
歴史が与えた信長のミッションとは?
以上見てきましたように「予は予自ら死を招いたな」のセリフには、いろいろな解釈が成りたつことが、おわかりいただけたかと思います。信長を死に至らしめたのは信長自身であった。本能寺の変を引き起こしたのは結局、信長その人であったといえるのではないでしょうか。
本能寺の変について私はこう考えます。歴史には何人たりとも逆らえない「流れ」というものがあり、多くの出来ごとは何らかの必然性があって起こっているのではないかと思います。たとえてみれば「神の見えざる手」とでもいいましょうか、そんな不思議な力が働いているかのようでもあります。その視点で見れば、戦国という混迷混乱のカオスな状況にあって、織田信長という男は時代の要請によって現れた英雄といえます。彼に与えられた使命は、カオスそのものを破壊しリセットすることまででした。その信長にお役御免とばかりに引導を渡す役を光秀に、そして新しい秩序を作ることは秀吉に、さらにその秩序を安定させることは家康に、とそれぞれに命題が与えられたのではないでしょうか。だから戦国時代を終わらせる大仕事は信長、光秀、秀吉、家康の4人がかりでようやく成しとげることができたのだといえます。
そう考えると、信長の「是非に及ばず」の言葉には、「俺の使命は果たした。だから悔いはない」そんな想いが込められているのではないかと思えます。本能寺の変、それは信長が天下統一を志したとき、すなわち「信長の野望」とともに最初から用意されていたシナリオであったのかもしれません。
夢幻の如くなり
永禄10(1567)年、尾張・美濃の両国を支配した織田信長は、自身の書状に刻む印判を「天下布武」とした。中世の弊習を廃した新しい社会の樹立、すなわち天下統一を宣言したのだ。この天下布武の4文字が「信長の野望劇場」の幕開けとなった。信長の独創極まる政策と戦術、そして彼の揺るぎのない意志力によって瞬く間に中央を制圧。100年続いた戦国の時代は、わずか10年で信長の手によって終焉を迎えようとしていた。しかし、神が描いた脚本は残酷なものだった。最も困難な破壊者の役割をまっとうし、自らの理想に向かって突き進んだ男に最後の果実は与えず、主役の交代を迫った。信長の野望劇場、終幕の舞台は京都本能寺であった。
(編集部/吉川哲史)
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