予は予自ら死を招いたな

「是非に及ばず」織田信長が明智光秀の謀反を知らされたときの最期の言葉です。直訳すると「どうしようもない」となります。かくなる上はジタバタしても仕方ない、という信長の潔さともとれます。同時に「光秀ほどの者が攻めてきたのだ、逃げ道があろうはずがない」と思わせるだけの光秀への評価がうかがえます。
しかし、この「是非に及ばず」があまりに有名なために見落とされがちなもう一つの言葉があります。「予は予自ら死を招いたな」がそれです。こちらのセリフの解釈はけっこう難問です。そのまま読みとれば信長の死、つまり本能寺の変を起こしたのは他ならぬ信長自身ということになります。といって信長自身が死を望んだとは思えません。信長のつぶやきの真意はどこにあったのか。それが本稿のテーマです。

6月2日は家康暗殺の日だった?

信長の命日、つまり本能寺の変が起こったのは6月2日です。この運命の一日は、実は信長による徳川家康暗殺の決行日であったとの説が最近にわかに浮上しています。本能寺の変とは、それを逆手にとった光秀が信長を襲撃したものだということになります。が、その前にそもそも信長に家康を抹殺する理由があったのでしょうか。

家康は信長にとって無二の同盟者といわれています。たしかに最大の敵である武田信玄の防波堤として、また織田の兵より数段強いと評判の徳川の強兵なくして信長の覇道はなかったでしょう。そうして天正10年(1582年)、本能寺の変の直前にあって、信長の天下統一は目前にまで迫り、さらに宿敵武田氏も滅びました。しかし、そうなると同盟の意味、すなわち徳川家の存在価値が低下してしまうことになります。それどころか天下統一後のことを考えると邪魔な存在になるかもしれません。なにしろ家康は信長の命令で妻と長男を殺害したのですから、恨みを抱いていて当然ともいえます。猜疑心の強い信長のこと、不満分子の芽は早いうちに摘みとるべし、と考えても不思議はありません。さりとて、家康を攻撃する大義名分はなく、無用な戦いは天下統一を遅らせるだけ。となると…考えられるのは暗殺です。

実は家康は、本能寺の変の半月ほど前から信長の本拠である安土に滞在していました。武田家討伐の恩賞として、家康は信長から駿河の国を与えられました。その御礼を信長に言上するための安土訪問であり、信長から盛大な歓待を受けていました。これが家康を亡き者にするためのワナであり、そして家康を暗殺する刺客が光秀であった。そんなシナリオを信長が描いていたというのです。

この家康への接待から暗殺まですべてを担当したのが光秀であったことが、信長にとって命とりとなりました。この時すでに、光秀の心の内には信長への殺意が芽生えはじめていたからです。天下統一を果たすという点では、信長と光秀は同じところを目指していましたが、その目的が違っていたことに光秀が気づいたのです。

光秀が思い描いていたのは天下統一による戦のない平和な社会でした。対して信長が見ていたものは海の向こうにありました。今の中国である明国に攻め入り、さらなる領土獲得を目指すというものです。

つまり、戦はまだまだ続き今以上に多くの命が奪われる世の中になります。信長のこの思惑を告げられた光秀は、信長を諫めようとしますが、信長は聞く耳をもちません。それどころか自分に反論した光秀を足蹴にします。有名な光秀折檻の逸話はこの時のことだともいわれています。それでも光秀は信長の明への出兵を何としても阻止しようと固く心に誓いました。そう、たとえ主君信長の命を奪ってでも。

そんなときに信長から下されたのが家康暗殺指令でした。はじめは驚きためらった光秀でしたが、これを逆に利用して信長を亡き者にする絶好の機会だと考えます。信長の暗殺策戦は、光秀にとって天が与えたかのような実に都合のよいものでした。

家康を油断させるために、信長自身も手薄な警護で京都に入り家康をおびき寄せたところを、丹波にいる光秀の軍勢が家康を仕留める、というものです。ですから、光秀が兵を挙げるのは信長の命令通りであり堂々と京へ進軍できました。ただ、その矛先が家康ではなく信長に方向転換された…というのが、本能寺の変だったというワケです。

このように家康暗殺計画により、光秀に謀反のチャンスを与えてしまったことが「予は予自ら死を招いたな」の真意だというものです。



民衆に歓迎された信長の政策が墓穴を掘らせた?

この家康暗殺説の真偽は別にして、他にも信長自身が本能寺の変を招いてしまったといえる点がいくつかあります。まずは「関所の撤廃」です。楽市楽座とセットで有名な信長の政策のひとつです。この時代の関所はいわゆる検問的な役割ではなく、高速道路の料金所のような存在でした。有力な大名や寺社などの権力者が収入源として通行料を課していたのです。これが人と物の流れを妨げるだけでなく、物価高も招いていました。商品を運ぶには関銭(通行料)が必要であり、それは当然コストとして価格に上乗せされるからです。その関所を権力者が好き放題に設置するものですからたまりません。

そこで登場したのが信長です。「関所をなくす→物の流れが良くなる→物価が下がる」といって関所を次々と撤廃しました。これまでは、そんなことすれば関所のバックにいる怖~いお兄さんたちが黙っていなかったのですが、信長の圧倒的な武力の前には為す術がありませんでした。今でいう規制緩和を実力行使した信長の政策を人々は大歓迎しました。

ところが、です。皮肉なことに関所をなくしたことが、光秀の謀反を可能にしてしまったのです。関所があれば、光秀の軍勢が迫っていることが信長の知るところとなり、信長は未然に逃げることができたでしょう。光秀の謀反は、たまたま信長を襲う絶好のチャンスが目の前にあり、しかも「関所がない」という好都合まで味方したから実行されたわけで、関所があればそもそも本能寺の変は起こるはずもなかったということになります。


能力主義の人材登用が裏目に?

戦国時代は下克上社会。実力があれば身分に関係なく出世ができた。これが一般的な見解でしょう。確かに北条早雲や斎藤道三などは一介の素浪人から一国一城の主になりました。また、豊臣秀吉が農民から天下人に昇りつめたことはあまりにも有名です。とはいえ、これはごく一部のことで、実際は身分の壁が大きく立ちはだかっていました。そんな中、実力主義を本当の意味で採り入れたのが織田信長でした。

本能寺の変のとき、織田家には軍団長といえる重臣が5人いました。柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益、羽柴秀吉、そして明智光秀です。このうち、代々織田家に仕えていたのは勝家と長秀の2人だけ、あとの3人は浪人など出自不明の身分でありながら、信長に取りたてられて出世しました。一方で佐久間信盛、林秀貞など先祖代々織田家に仕えていた宿老が、近年の功がないことや20年以上も昔の落ち度をとがめられて唐突に追放処分を受けています。この現代でいうところの徹底した成果主義が織田家の快進撃を支えたのは間違いのないところでしょう。

しかし、極端な成果主義は家臣をドライな考え方にさせがちです。それが途中入社組の明智光秀による本能寺の変でありました。光秀がいかなる理由、心情で謀反におよんだのかはここでは論じません。ただ言えるのは、それが己の欲なのか、怨恨なのか、価値観の違いや天皇など他の権威への忠節なのかはともかく、信長への忠誠以上に大事なものがあったのは間違いないでしょう。これが譜代の勝家や長秀であれば、おそらく信長への忠節を第一義に考えたはずです。つまり、信長はその人事政策によって覇道を突き進み、同時に足をすくわれたということになります。先ほどの関所と同様に皮肉な話です。しかも、この人事はさらなる悲劇を織田家にもたらしました。

光秀には光秀の大義があった(たぶん)。

光秀には光秀の大義があった(たぶん)。

秀吉恐るべし!

秀吉といえば、信長のゾウリを懐で温めた逸話など、その機転と天性の明るさで信長に気に入られ、とんとん拍子に出世したことで人気を博しています。もし秀吉が織田家以外に仕えていたら、あそこまで出世することはなかったでしょう。すなわち秀吉にとって信長は大恩人であるはずです。しかし、信長亡きあとの秀吉の行動は、織田家の乗っとり以外の何ものでもありません。まさしく恩を仇で返したわけです。それもエゲツない方法で。

本能寺の変によって絶対君主である信長と、その後継者とされていた長男・信忠が2人とも亡くなりました。しかし、まだ織田家には少なくとも3人の後継者候補がいました。信長の次男・信雄、三男・信孝、そして信忠の長男、つまり信長直系の孫である三法師です。この中から誰を織田家の当主にするかを話し合ったのが「清須会議」です。三谷幸喜監督の映画のモデルにもなりましたよね。詳しい経緯は割愛しますが、会議は秀吉の思惑通りに進み、わずか3歳の三法師が当主となります。ここから秀吉のワンマンショーが始まります。

信長家系図(本能寺の変前)

信長家系図(本能寺の変前)

信長の天下は長男信忠、そして孫の三法師に受け継がれるはずだったが…。
※正妻・帰蝶との間に子どもは生まれなかった。

冷静に考えると、秀吉が天下をとるためには、この3人よりも上位に立たねばなりませんよね。そこで、まずは三男信孝に難クセをつけ切腹に追い込み、ついでにその母つまり主君信長の妻(側室)も死刑に処します。信孝は無念のあまり、割腹の際に自らの腸をちぎり壁にたたきつけて秀吉への呪いの言葉を発したそうです。次に次男信雄を挑発し戦をけしかけます。このとき信雄と同盟を結んだのが徳川家康であり、これが秀吉vs家康の一戦となった小牧長久手の戦いです。秀吉は苦戦するものの言葉巧みに信雄を篭絡し和睦。しかし、後に信雄が秀吉の意に従わなかったため、所領をすべて没収してしまうのです。さらに本来であれば主として仰ぐべき、織田家の当主となった三法師が成長した後も、結局13万石程度の中級大名にするだけでウヤムヤにしてしまうのです。これにて秀吉による織田家の乗っとりが完了します。

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この記事を書いたKLKライター

八坂神社中御座 三若神輿会 幹事
吉川 哲史

 
Kyoto Love.Kyotoでの執筆記事数が50を超えるKLKフリーク。日本語検定一級、漢検(日本漢字能力検定)準一級を取得した目的は、難解な都市・京都をわかりやすく伝えるためだとか。

地元広告代理店での勤務経験を活かし、JR東海ツアーの観光ガイドや同志社大学イベント講座、企業向けの広告講座、オンラインイベント「ひみつの京都案内」などのゲスト講師に招かれることも。

得意ジャンルは歴史(特に戦国時代)と西陣エリア。自称・元敏腕宅配ドライバーとして、上京区の大路小路を知り尽くす。夏になると祇園祭に想いを馳せるとともに、祭の深奥さに迷宮をさまようのが恒例。

サンケイデザイン㈱専務取締役

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